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府中通り大山道の府中まで

大山道シリーズ、これまで、

と、来ました。

内、府中通り大山道は、甲州道中府中宿から発出する大山道と理解し(決め付け)、大して調べもせす、従って別名は甲州道中府中宿口大山道で、実走済だ、と、思ってました。

しかし、府中通り大山道を改めてwebで検索すると、日光街道(奥州街道)の粕壁宿から発出との記事が大半でした。

これはフォローアップしないといけない、ということで今回は、府中通り大山道の府中まで、を、exploreします。


事前机上exploreで分かったのですが、府中通り大山道は、日光街道(奥州街道)と甲州道中を接続していて、奥州街道、奥州脇往還、逆向きには甲州街道とも呼ばれていたようです。

これを聞いて思い出すのは鎌倉街道羽根倉道です。鎌倉街道羽根倉道は、鎌倉街道中道 = 奥州街道幸手宿付近と、鎌倉街道上道所沢宿を接続する鎌倉街道の間道でした。所沢から羽根倉の渡しまでのルートは府中通り大山道の直ぐ北側で、柳瀬川北岸南岸の河岸段丘上を走っていて(2ルート)、富士見市水子、三芳町竹間沢、新座市大和田、志木市幸町には、鎌倉街道の伝承が残っています。

私も実走していました。

鎌倉街道羽根倉道、そして府中通り大山道は、ほぼ同じ道を接続しています。道としての機能、役割は同じと言って良いですね。

大山詣りが盛んになったのは宝暦年間(1751 - 1764)ですから、鎌倉街道羽根倉道が大山道として使われていたということはなかったと思いますが(勿論、鎌倉街道羽根倉道周辺の集落では利用していたと思いますが)、道としての目的、機能の変化によって、道筋が変わっていったのだと思います。

新河岸川の舟運が始まったのは1638年の川越大火後で、引又河岸が出来、引又宿が成立したのがその少し後の明暦年間(1655 - 1658)です。

また、1655年には野火止用水が開かれました。つまり、府中通り大山道周辺に、人が住めるようになったわけです。

恐らくは、この辺りから徐々に、府中通り大山道が成立していったのだと思います。

その後、宝暦年間に入って、大山道としても利用されるようになったと推測します。

その後は、この道を使って西への物流の道として栄えていき、例えば清戸においても、鎌倉街道羽根倉道沿いの清戸下宿から、府中通り大山道沿いの下清戸、中清戸、上清戸に中心地が移っていきました。

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鎌倉街道中道阿佐ヶ谷ルートで引又まで。与野宿に向かいます。

既述の通り、府中通り大山道の起点は春日部なんですが、ちょっと遠いのと、先輩方のweb記事を見ると、大山道の道標も無いようですから、短縮して与野宿からとします。

k165から直角に東に折れる交差点近くに、大山道道標があります。

大山道道標、右秋葉台権現、左石尊大権現、石尊大権現は大山阿夫利神社のことです。

先を行きましょう、南下し、庚申社がある二又を右へ。k215を行きますが、新大宮バイパスを過ぎた所に石塔群があり、そこの庚申塔には、

庚申塔道標、これより、かう志うみち

と、この道が甲州街道であることを示しています。

また、地蔵尊も、

地蔵尊、右、大山道

と、道標を兼ねていました。近隣から集められたものと思いますが、行き先から、この道沿いにあったものと思われます。

先を行きましょう、上峰の諏訪神社、常楽寺をやり過ごし、浅間橋で鴨川を渡り、下久保の交差点には嘗て、大黒天道標がありました。今はここから少し東の諏訪社に移設されています。

大黒天道標、左側、"や" は見えますね。その上、"お々" が辛うじて見えます。これで、"お々やま"

起点とした与野宿の道標の隣にも甲子塔がありましたから、この辺りは、甲子信仰が盛んだったんですね。

先を行きましょう、嘗ての羽根倉の渡し、羽根倉橋で荒川を渡ります。

旧道に入って地蔵尊をやり過ごし、k36を交差する所に、大仙寺があります。

大仙寺、風土記によれば、禅宗曹洞派、龍澤山と號す、足立郡植田谷領領家村大泉院の末、開山喜翁良悦天正十七年九月五日寂せり、本尊釈迦を安ず。鐘楼。宝暦七年に鋳たる鐘にて、銘文は事実に渉れることなければ載せず。

ここに石橋供養塔があり、大山道道標を兼ねています。

石橋供養塔道標、右ハ与野へ、左ハ大山道引又へ

勿論、大仙寺に川があってそこに石橋があったわけでは無いですから、ここに集められたものと思いますが、恐らくは、上宗岡5丁目南辺りにあったものと推定します。ここに新河岸川の支流というか、水田に水を引き込む用水がありましたから。この用水は南側はまだ残っていますね。

先を行きましょう、三ツ木の地蔵尊、八坂神社をやり過ごし、天神社です。

天神社

ここは再訪です。

ここの境内社に、阿夫利神社がありましたので寄りました。

阿夫利神社、"大山" が、辛うじて残っています。

阿夫利神社と言えば、ここから2km程の下南畑にも阿夫利神社があります(今回未訪問、過去訪問してますが撮影はしてませんでした。)。

先を行きましょう、いろは橋と栄橋で、新河岸川と柳瀬川を渡ります。

流路はかなり変わってますが、ここには、冒頭触れた引又河岸がありました。

歴史的農業環境閲覧システムより、新河岸川、柳瀬川の流路変遷
引又河岸跡

引又宿の痕跡も少し残っています。

朝日屋原薬局、明治45年1912建築

先を行きましょう、川越街道を交差する所は野火止村です。1655年に野火止用水が開かれた後、1661年に開村しました。

野火止用水跡
野火止村の上分と下分の間に創建された八雲神社

先を行きましょう、こちらも野火止用水開削後に開村した菅沢村をやり過ごし、清戸村に入っていきますがその直前、桜株通りとの丁字路に、石橋供養塔、庚申塔の道標があります。

庚申塔、西八王子道、撮影しませんでしたが、左側面には、"北川越道"

確かに、この道は深大寺道で、扇ヶ谷上杉氏の居城、河越城、滝の上城、深大寺城を一直線に結ぶ中世からの軍道でした。また、"桜株" は、八幡太郎義家奥州征伐の折り、手植えの桜伝承から来ているそうです。奥州街道の痕跡です。

清戸に入ります。

長命寺です。

長命寺、境内除地、三千八百二十五坪、浄土宗、入間郡川越蓮馨寺末、延年山転壽院と号す、本堂九間に五間半南向、本尊弥陀三尊長一尺五寸、立像、脇士各八寸許の坐像なり、開山感誉上人本山蓮馨寺と同く当寺を草創し、天正二年五月十八日示寂、此僧は小田原北条氏の家臣大道寺駿河守の甥なる由を傳り、されば当寺の紋今に三鱗を用ゆなどゆへあることなるべし。鐘楼。本堂の前にあり、九尺四方明和年中に鋳しものなり。観音堂。本堂に向て左にあり、三間四方南向なり、木の立像にて長二尺許の十一面観音を安ず。また左右に西国三十三所の観音の写をおけり。各長一尺許の木像なり。

ということで、天正二年1574以前には、この地に、開かれていました。

清戸の集落としての始まりは、この辺りからではないでしょうか。

日枝神社、天正七年1579中島筑後守信尚が社殿を造営して鎮祭せり

はい、やはりこの辺りの時代だと思います。

先を行きましょう、二又には石塔群があり、道標も含まれています。

馬頭観音、右所沢、山口道、左八王子、大山道。示す行き先から、この馬頭観音道標は正にここにあったものと思われます。
馬頭観音、左り八王子、大山道

はい、ということで、この二又を道標の通りに左にとり、八王子、大山に向かいます。

大山は、府中通り大山道で行くことも、八王子経由で行くこともできるということですね。

八王子経由の場合のルートは、東村山八坂神社、東村山中央公園突っ切り、江戸街道、奈良橋庚申塚、奈良橋街道、玉川上水金毘羅橋、五日市街道砂川口大山道、築地の渡し、大和田、八王子が有力かと思われます。

先を行きましょう、大岱の集落です。

高札場跡

府中通り大山道は、物流の道としても栄えたという話をしましたが、大岱街道と呼ばれる程、ここ大岱は、物流の拠点として栄えました。この高札場がある大岱の辻は、南東に行くと田無、北西に行くと久米川、所沢に通じていましたから。

程無く、鎌倉街道上道に至ります。そこには何度も訪問してます、八坂神社があります。

八坂神社

さぁ、鎌倉街道上道で府中に向かいます。

伝鎌倉街道
鎌倉街道上道と甲州道中の辻、府中宿高札場
大國魂神社は今日も賑わってます。

如何でしたでしょうか。

府中通り大山道が、日光街道の粕壁宿発出というのは、今ひとつ納得出来なかったんですが、鎌倉街道羽根倉道をベースとし、青梅、八王子方面への物流の道としての発展から、徐々に、今の位置になったとすると、理解できます。
桜株の八幡太郎義家野伝承は、逆に、元々は鎌倉街道羽根倉道沿いにあった伝承が、府中通り大山道の発展と共に、移動したんじゃないでしょうか。











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