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御嶽道、南御坂

武蔵御嶽神社への参詣道と言えば、青梅線御嶽駅下車、ケーブルカーで、と、思う方が殆どだと思います。

勿論正しいんですが、その道以外にも参詣道はありました。

今回はその内の一つ、大久野ルートをexploreします。


小田急、南武線、青梅線と乗り継ぎ、牛浜駅まで輪行、五日市街道を行きます。

多摩橋、森山神社、いずみ通りと行きますが、今日は桜が満開、いやぁ、気分が良いです。

いずみ通りから桜越しの大岳山
下平井会館付近の平井川にかかる橋から
ヤマツツジもキレイでした。

気分良く進んで行って、日の出町と言えば、妙見宮七星殿です。

妙見宮七星殿
この眺望

開創685年。天武天皇の勅命により、百済の豪族、大和斑鳩法輪寺の妙見菩薩を勧請、この地に祀ったことが起源と伝えられています。 

それにしても古いですね。また、妙見、百済というのも興味深いです。

660年、百済滅亡、663年、白水江の戦いで百済・倭国連合軍敗れる。

という出来事がありましたから、百済から日本に渡来する人も多かったと思われます。

実際、

  • 666年、百済人を東国に移す。

  • 668年、福信の祖父、背奈福徳が波来す。

  • 684年、新羅人羊大夫来朝す。百済僧尼及び俗人、男女二三人を武蔵国に安置す。

  • 687年、常陸国に高麗人五六人を居らしむ。下野国に新羅人一四人を居らしむ。武蔵国に新羅の僧尼・百姓、男女二二人を居らしむ。

  • 689年、下野国に新羅人を居らしむ。下野国那須国造(くにのみやつこ)那須直韋提(あたいいで)、評督(郡司)を賜う。碑を建て、墓誌を記す。

  • 690年、武蔵国に新羅の韓奈末許満(かんなまこま)ら一二人を居らしむ。下野国に新羅人らを居らしむ。

  • 711年内、上野国に多胡郡を新設。碑を建て記念す。

  • 716年、武蔵国に高麗郡を新設。

  • 733年、武蔵国埼玉郡の新羅人徳司ら五三人、金の姓を与えられる。

  • 741年、国分寺建立の詔下る。関東の国分寺より渡来人関係の文字瓦出土。

  • 758年、武蔵国に新羅郡を新設。

  • 760年、 武蔵国に新羅人一三一人を置く

  • 766年、上野国の新羅人子牛足ら一九三人に吉井連(むらじ)の姓を賜う。

  • 780年、武蔵国新羅人、沙羅真熊(さらのまくま)ら二人に広岡造の姓を賜う。

というような状況でした。

渡来人たちを、時の政府は、東国強化の名目で東国に住まわせてますが、大和から大和川を下り大阪湾に出て、南下し太平洋に出て、太平洋沿岸を東へ。東京湾に入り、多摩川を遡り、平井川に入った渡来人もいたんでしょう。

はい、その七星殿の別当だった寺の後身が、東光院です。

東光院

創建詳らかならず、ですが、江戸時代の始め、曹洞宗に改宗しています。

先を行きましょう、常福寺です。

常福寺

永禄年間(1558~70)森田将監祥昌が開基、開山は当山派修験道の圓秀とのことです。

当山派修験は真言宗系の修験道ですね。常福寺は真言宗豊山派のお寺です。

先を行きましょう、ここも日の出町と言えば、の、存在感、宝光寺です。

見事な参道
本堂

創建不詳も、東光寺同様、元天台宗寺院で、頼朝により御朱印寺となっています。その後、荒廃し、文明十年1478、曹洞宗に改宗しました。

先を行きましょう、ラーメンショップの裏に旧道が残っていますがその入り口に御嶽山道標が残っています。

御嶽山道標

先を行きましょう、諏訪下橋で平井川を渡って直ぐ北上すると、西福寺があります。

西福寺

創建詳らかならずですが、武蔵名所図会によると、阿弥陀堂が長徳年間(995〜999)ということです。中興は真観上人(1278年寂)で、常福寺と同じく真言宗豊山派の寺院です。

特筆すべきは、後北条の時代から続く初不動護摩供、所謂火渡り荒修行です。

何やら、当山派修験の濃度が濃くなってきました。

そう考えると東光院も宝光寺も元天台宗で、こちらは本山派修験の可能性があります。

武蔵御嶽神社はそもそも蔵王権現を祀る修験の山です。修験道は、最澄の天台宗、空海の真言宗が勃興し始めると、天台宗系の本山派、真言宗系の当山派に別れますから、ここ武蔵御嶽神社も、同様に、両派の勢力が混在していたのではないでしょうか。

先を行きましょう、平井川を堀口橋で渡って直ぐ北上するのが旧道で、ここに、御嶽山道標が残っています。

御嶽神社道
埋もれてますが、右御嶽山、左五日市でしょう。

さぁ、ここからは山です。

新井、岩井、勝峯、細尾と進み、ここに、熊野神社があります。

熊野神社へのアプローチ、奥に鳥居が見えます。

熊野神社と言えば、天台宗系の本山派修験です。

創建観応元年1350ということで、麓の元天台宗寺院の流れと一致するように思います。

隣には真言宗豊山派光明寺。

光明寺

振り返れば細尾集落越しの平井川沿いの桜が。

熊野神社からの眺望

肝要集落の入り口には、確かに巨大な稲村石。

武蔵名勝図絵で、"御嶽へ往来の傍にて・・・高さ六丈許囲り十尋許なり" と書かれています。

梅ヶ谷トンネル付近には新し目の道標もありました。

右岩井停車場、左御嶽神社

その後、松尾集落に入りますと旧道が残っていて、嘗ての雰囲気が。

その一
その二
その三、当時のままの土道

三澤集落に入ってつるつる温泉への道は新道で、左の細道が御嶽道です。

この追分にあるのが今尚御嶽神社と師壇関係がある小澤家です。

立派な石垣、母屋、蔵

ここにも熊野神社があるようなんですが、アプローチが見つかりませんでした。

さぁ、ここからが上りでした。私の貧脚 + 40×28Tでは結構キツク、上りは余裕が無くて、登山道取り付きまで撮影無しです。

取り付きには、元御師の久保田家があります。

元御師住宅久保田家

そして不動堂。

不動堂

動かざること山の如し

と、言われるように、不動明王は修験道の本尊と言っても過言では無い存在です。

登山道、当時のままか

帰路の下りで漸く道の様子を撮影出来ました。

御嶽道

あとはひたすら下りですが、桜が見事でした。

平井川沿いの桜

麓に戻り、もしかしたらこちらも関わりがあるのかも、日の出町と言えば、の、白山神社です。

ずーっと激坂、乗車はとてもとても
白山神社からの眺望
雰囲気があります、参道
拝殿

天長元年824創建。白山も修験が盛んでした。最も有名なのは泰澄ですね。天台宗との関係が強いです。


如何でしたでしょうか。

武蔵御嶽神社への参詣道は、ケーブルカーがある北御坂と、今回の南御坂、そして、養沢経由の3つがあったようです。

南御坂は修験の濃度が高い、さすがは御嶽神社参詣道という感じでした。

養沢経由は一度走ってますが、改めて、次回、行ってみたいと思います。

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