歌舞伎になっちゃいそうな『風の谷のナウシカ』とその杞憂について その1

※長くなりそうなんで分割して書きます。許し亭ゆるして。

 風の谷のナウシカが歌舞伎になるというニュースが発表された。これで漫画原作の歌舞伎は、ワンピース、ナルト、あらしのよるに、についで四作目である(あらしのよるには絵本だし、それ以前にも赤胴鈴之助とか巨人の星とかも歌舞伎になっているが)。

 しかし、このニュースを聞いて真っ先に思ったのが凄いとでも、なんだこりゃ、とでもなく、この歌舞伎化に関して、「かぁぜぇのぉぉぉとぅぁにぃぃぃぬぉぉぉぉぬぁうぅしくぁぁぁ」みたいに、歌舞伎調を揶揄している人がいるがフツーこんな言い方はしないーーということなのだから、私がいかにテキトーな人間なのかがよくわかった。

 どうでもいい話であるが、歌舞伎の調子には時代と世話という形があって(分類すればもっとあるが)、こういう仰々しい言い方は本当に見得をするような場面のみで、全編こんな調子で言っていたら喉を潰す。余りにもこういうツイートが多いので、少しだけ苦言を呈してみた。アニメや漫画だってステレオタイプで語られるのは嫌なことだろう。歌舞伎にだってそういうのがある。むしろ、こういうステレオタイプが歌舞伎普及の一番の障壁なのかもしれない。

 歌舞伎の事ならば人よりも少しは詳しいけれども、相手がアニメになるとどうも弱くなる。

 風の谷のナウシカは子供の頃に数回映画を見たのと、高校時代、徒然の暇つぶしに原作をパラパラ読んだ程度なので、語るに値するほどの知識も記憶力も有していないが、それでもこのニュースを聞いて思った、所謂所感を思いつく限り、糸目の切れた奴凧のように書き綴ってみようかと思う。

 風の谷のナウシカ

 さて、風の谷のナウシカである。この作品はどんな作品かーー曰く、過去と未来との対立、幻想と現実との境目、環境問題と生活など、挙げれば切がなく主題が挙げられる事だろう。

 別にどうこう捉えるのは自由であるし、ここでは定義付けしない。色々な批評を書いたものがあるので、そちらを参考にしてほしいが、数多くある考察の中でおや、と思ったのは文芸評論家の小谷野敦が「風の谷のナウシカは複式夢幻能の形式」と指摘している点である。引用すると、うるさそうなので、気になる人は当人のツイートを探してください。

 普段の小谷野敦は、伝統芸能に関してトンチンカンな事ばかり書いているので、信用できない部類に位置するが、しかしこれは珍しく真理をついた、といえよう。

 氏の意見を借りて言うなれば、風の谷のナウシカは幾重にも折り重なって続く夢幻の物語――それは過去と未来という単純な時間軸ではなく人間と植物、理想と現実などといったものも一つの幻想なのかもしれないーーという事である。

 風の谷のナウシカのような話を歌舞伎にーーと驚くかもしれないがあのくらいなら別に驚く事はない。それよりも昔から伝わる歌舞伎の話を振り返るととんでもない話は幾らでもある。

 いくつか例を上げて出してみよう。

 ◎騒動に巻き込まれ勘当された梶原源太と木曽義仲の遺子を見守る樋口兼光。片や浪人、片や追われの身という二人の不思議な関係を描いた『ひらかな盛衰記』。ガンダムOOではないが、周囲との縁や関係がありながらも大詰めまで邂逅しない二人の数奇な運命が描かれる。

 ◎忠臣蔵の世界に四谷怪談と五大力の世界をないまぜにし、不破数右衛門という浪人が女に狂い、次から次へと人を手にかけてしまい、最後は義士として旅立っていく『盟三五大切』。恋人の生首の前で酒を飲んだり、殺戮者であるにも関わらず最後は義士として英雄になってしまう皮肉さが凄まじい。

 ◎江戸歌舞伎伝統の不破伴左衛門と名古屋山三の争いに、幡随院長兵衛の喧嘩、白井権八小紫、蘭蝶などの逸話をないまぜにした『浮世柄比翼稲妻』。名古屋と権八が友達、不破が御家騒動をおこす極悪人という設定で、それぞれ家を追い出され浪人となった三人がそれぞれの志を持って運命に振り回される。権八と長兵衛の出会いを書いた鈴ヶ森、名古屋と不破の邂逅を描いた鞘当は有名であるが、その他にも美男子の名古屋に敵の娘が悲劇的な恋をする「浪宅」、不破が妹に手を出してしまう「葛城部屋」、長兵衛の豪胆さを描いた「俎長兵衛」など、長編小説顔負けの構成。

 ◎ある因果を持って生まれた一国一城のお姫様、桜姫が強盗に強姦されたのを機に数奇な運命に踊らされる『桜姫東文章』。清玄という美形の僧侶との恋と破断、嘗ての敵、権助との巡り会いと同居。そして堕落をし続けて売春婦・お姫として暮らす日々。そんな中で突如現れる清玄の亡霊とその口から語られる真実ーー桜姫が堕落して、もう一度復活するまでを胎内巡り風に描いた傑作。

 ◎恋人に愛想尽かしをされた主人公・團七が作者・並木正三の家に押しかける『宿無団七』。正三の家にやってきた役者と正三の話を聞いているうちに恋人へ復讐しようと思い立つ。果たして恋人や仲間を次々と斬り倒すが、仲間の口から愛想尽かしは團七の為だったと知らされる。責任を感じた團七は切腹。虫の息の所に正三が駆けつけ、事件が解決した事を報告し、「團七、馬鹿なことをしてくれた。これが隣町の事であったなら一夜漬けで狂言にして見るものを……」と嘆く。元祖メタフィクション。

 こうやって作品の概要を書いているだけでも評論がかけてしまいそうなくらい、歌舞伎の世界は我々現代人が思っている以上にぶっ飛んでいて、何もかもを飲み込んでしまいそうな気配さえもある。

 こんなにバラエティに富んだ演劇、世界を見渡しても並び得るものを探す方が少ないのではないだろうか。

 こういう歌舞伎の世界観に関してよく出るのが荒唐無稽とか筋がメチャクチャーーというような西洋演劇の視点に立った考証論であるが、こういう意見なぞは歌舞伎の発生と発展の背景をキチンと理解できていない輩の放つ事なので一笑するだけでいい。

 しかし、風の谷のナウシカの歌舞伎化について問題がないというわけではない。曰く、風の谷のナウシカの世界をどう歌舞伎に表すのか、という根源的な問題である。

 曰く、風の谷のナウシカのような話はこれまでの歌舞伎が一切手をつけてこなかった――嫌な言い方をすれば手を付けられなかった領域である。幽玄、というような世界観はあったけれども、それ以上の芝居はこれまでない、と言っていいだろう。僅かに岡本綺堂『平家蟹』なんかが、ナウシカチックな世界観を持っていないこともないがポピュラーな演目ではないし、歌舞伎的な作品ではない。

 そういう事を踏まえると、どうも元来の歌舞伎の表現技法では、あまりにも無理がある――歌舞伎の表現の限界と言う問題に直面するような気がするのである。最もこれは、歌舞伎が劣っているというのではなく、相性が合わないとかどうしてもうまく行かない、といったほうがいいのかもしれない。喩えるならばスイカと天ぷら、梅干と鰻の食い合わせの如きものである。

 では、どうしたら良いのだろうか。

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