歌舞伎になっちゃいそうな『風の谷のナウシカ』とその杞憂について その2

歌舞伎の技法

 先年発表された歌舞伎版「ONE PIECE」は大変な好評で、私も見に行こうかと思ったが病気の為に遂に行けなかった。こういう時病身は救いようがないと思う。

 然し、友人の話や諸々の資料を見るうち、この作品がシャボンディ諸島からインペルダウン篇をまとめたものだ、という事が判った。不肖ながらONE PIECEはそこそこ読んでいる身の上、どういう筋かはすぐに理解できた。なるほどあのシーンなら芝居にしやすいだろうし、面白いかもしれない、と。

 だが、今回のナウシカの件を見て、ワンピースという作品の特異さ、というか、その作風と歌舞伎の相性というようなものが、ふと頭の中によぎった。

 今や国民的な漫画になっているワンピースであるが、あの作品はものすごく新しそうに見えて、実は王道を行く――言い方をわざと拗らせるならば、伝統的なエッセンスを持った作品なのである。

 インペルダウンからエースの死まで、辿り着きそうでなかなか辿り着かない、独特の手法――私はこれを講談や浪曲の「ちょうど時間になりました」的なものと呼びたいと考えている――は、良くも悪くもワンピースの特徴である。

 アンチは「時間稼ぎ」などと批判しているようであるが、その時間稼ぎと言うべき作風が皮肉にも歌舞伎と合うのだから不思議である。いや、逆に話をずらしにずらし、うまくすれ違えさせるようにしている所に価値があるというべきか。このうまい話の切り方は、古来からのやり方であり、我々日本人が長い間楽しみにしてきた、一つのテクニックである。

 そして、このすれ違いこそがワンピースと歌舞伎の接点なのかも知れない。歌舞伎もまたどうしてそこでそうなるの、というようなすれ違いだらけである。中には、些細なすれ違いが故に悲劇がもたらされる事も多々ある。

 話せば長い高輪の――になるのは嫌なのでいちいち説明はしないが、不仲が故に殺す必要もない相手を殺してしまう妹背山の『吉野川』や、すれ違いで殺人を犯してしまい、自分が死ぬ羽目となる『御所五郎蔵』などは、その代表例であろう。それ以外にも暗闇の中ですれ違ったり、中々解決に辿り着かないというシーンは腐るほどある。

 さらに、猿之助が好演したルフィや坂東巳之助の怪演(?)ボンクレーといったキャラクターの構造も見逃す事もできない。あのキャラクター造形も、一見奇抜そうに見えるが、これも、日本人がこれまで愛してきた作品や芸能との共通点というような所を持っている。

 ルフィは荒事、ボンクレーは道化役、白ひげは捌き役、海軍たちは敵役と少し無理やりではあるけれども、このキャラクターたちを歌舞伎に変換しようとすると、一応は置き換えられる。特にボンクレーのあの姿なぞは歌舞伎の道化役そのものである。あの顔貌で大真面目なことをやるから面白いし、感動もする。

 猿之助がルフィの姿で六方を踏んだのが話題となったが、歌舞伎の技法からすればその六方は何もおかしいことではない。六方の根源となる演技、荒事には以下のような口伝があるからだ。

「七、八歳の子供の心で演ずるべし」

 この言葉を元にルフィのキャラクター像を分析すると、流石に七歳とまでは行かぬにせよ、感情的になりやすく、わんぱくで怖いもの知らず、食べることと寝ることが大好きで何事にも興味津々――というのは、まさしく子供そのものである。

 この単純明快なルフィだからこそ、六方を踏んでみても後見を使ってゴムゴムの某を再現しても面白く見えるのは、荒事的な心得と合致する所があるから、と推測するのはすべて的外れというわけではないだろう。

 そして何よりもワンピースが歌舞伎にしやすく、受けたのは、海賊と海軍と言う二元論がしっかりしているからである。

 原作のワンピースでは、海賊同士で喧嘩したり、騒動を起こしたりしているが、この頂上戦争に限って言えば、海軍の総戦力と海賊の親玉の白ひげ海賊団、ルフィ一味という、見事な二元論的な構造になっている。

 ワンピースはそのような構造と歌舞伎のエッセンス、それに猿之助をはじめとする多くの協力者を得たからこそ成功した、と言えるであろう。

 話が遠回りになってしまったが、本題の風の谷のナウシカである。
 残念ながら、この風の谷のナウシカは、ワンピースのように単純な二元論ではない。序で記したように、自然と人間との対立は無論の事、国家同士の喧嘩もあれば、過去と未来との確執もある。

 舞台化が、映画版のみならば、まぁまぁ出来なくはなさそうであるが、漫画版――こんなに複雑なテーマを基にどのような世界観を構築するのか、全く予想できないのである。

 歌舞伎にも第三勢力が出てくる話がないとは言わないーー有名な本朝廿四孝などは、上杉謙信VS武田信玄の対決を描くふりをして、実は叛逆者、斎藤道三を倒すためでした、という筋である。だが、歌舞伎の表現はこれが限界で、主人公たちとある敵対勢力がいがみ合っている間、第三勢力がある野望をかけてウヤムヤ――というような話なんざ歌舞伎でできるのだろうか、と僕が聞きたいくらいである。

 やる前からこんな事言うのもなんだが、相当うまくやらないと単にあらすじを追っただけ、という可能性になりかねない。

 そもそも、あの風の谷のナウシカの幽玄的な自然観や末法的な世界を、人工の賜物というべき歌舞伎の舞台でどのように表現するのだろうか。

 アニメや漫画ならばいくらでも色が使えるし、補筆も補完もする事ができる。コマ割りだって作者の思うがままだ。だが、歌舞伎はそういうわけには行かない。結局、無理して色付けをすることとなる。

 いくつか心配な点を上げてみよう。

 この稿の一番はじめに、王蟲の足という戯画をあげたが、王蟲や蟲たちをどうやって表すというのだろう。ワンピースならば、顔貌はアレでも殆どが人間なので何とでもなるが、ナウシカの場合は異型の物が多数出てくる。特に王蟲や巨神兵という類のものを、どう扱うのか。まさか、下回りの役者に黒衣を着せて、歌舞伎の馬や猪の如くやらせるというのか。

 ルフィのゴムゴムの実ならば黒衣が後ろで構えて、あの伸びる腕を再現しても、ご愛嬌になろうが(実際に歌舞伎でも手裏剣や武器が飛んでいくさまをうまく見せる技術が存在する)、巨神兵や王蟲が黒衣を着た面々が操っていたら、はてさてである。逆に市川中車辺りが、例の虫の着ぐるみを着てやったらそれはそれで愛嬌になるかも知れないが、然しそうすると王蟲の怖さ、自然の脅威みたいなものが途端になくなってしまう。

 生半可な王蟲が出てきたら、式亭三馬『忠臣蔵変痴機論』という本を用いて笑い飛ばしてしまえ。

「世にありふれし猪とは形少しく異なり。首小さく前足二本はぶらりぶらさがりたるのみにて、後足二本にてかけ出せり。この後足、人の足にはなはだ近し。そのあるくに従って、おのづから『テンテレツクてんてれつく』の音あり。何猪とかいうて猪の種類なるべきか。獣屋に問へども、本草家もつまびらかならずという。何にせよ形ははなはだ、おか猪、追って考うべし」

 曰く、歌舞伎に出てくる猪の姿はおかしい、多分この猪は「おかしし」というのだろう、と洒落ている。このヘンチキ論の類は、一種の洒落であり、洒落を実行する者ほど愚か者はいない、というような前提条件がある。

 だが、それが洒落になるのは長い蓄積があるからで、巨神兵や王蟲をそんな事でやったら興醒めも良い所である。それこそ数百の足は宙ぶらりんで、下で黒足袋を履いた四足がゴソゴソ動いている、などと書かれる始末である。

 これを歌舞伎のエッセンス――などと能書きを垂らすならば、エッセンスそのものを履き違えている可能性がある。嘆かわしい事である。

 更に心配な点は、ただ筋を追うだけの役者の無駄遣いになりかねない所である。もうこうなったら救いようがない。役者稼業は仕事があってナンボであるので、仕事が無いよりある方がいいけれども、わざわざそれを歌舞伎でやる必要があるのか、と。筋が多くて喜ぶのはおでん屋や居酒屋の牛スジだけで、観客からすればとんでもない迷惑である。

 単に王蟲と巨神兵が暴れるだけの芝居ならば、やらないほうが賢明である。ましてや現在発表されているキャストを見るとみんな若手ばかりだ。そんな事をやるならば踊りの一つでも攫うのが歌舞伎役者の使命ではないのか。そして、ナウシカという一つの傑作を歌舞伎で汚す必要はあるのか。

 と、まあ、ずいぶんナウシカを貶してきたが、何もこれはナウシカにはじまったことではない。

 今日の新作歌舞伎の多くの弱点は、西洋演劇やら漫画やらアニメの影響で、やたらと深い世界観を描こうとする点にある。しかし、河竹黙阿弥の如き天才ならばまだしも、その大半は筋を追うだけのものか、他愛ないものか、収束のつかないものとなり果てている事が多い。

 ひどいものは歌舞伎のエッセンスを履き違えているものが多い。ガバガバな芝居などを誰が見るものか。愛嬌と勘違いしている無愛想ほど面白くないものはない。

 丸い鍵穴に四角い鍵を入れることができるか――とは、禅問答的な話であるが、歌舞伎とアニメ、あるいは漫画はそれくらいかけ離れた領域にある事が多い。曰く、構造的にそもそも無理なのである。

 置かれた場所で咲きなさい――と喩えるのも変な話であるが、歌舞伎には歌舞伎の領域があって、それを犯してまで何か現代的なものをやろうという必要なんかないのである。それなら別に歌舞伎を名乗る必要もないし、歌舞伎役者がやる必要もない。「劇団四季」がやろうとも「劇団☆新感線」がやろうとも、それはそれで『風の谷のナウシカ』になる。歌舞伎の看板をわざわざつける必要があるのか。

 そこは、多くの識者にも役者にも考えてほしいことである。曰く、プロの領域を自覚せよ、と。関係者は原作をリスペクトし、何とかモノにしてやろうという気があるそうだし、菊之助の事だからまあ真面目にやることだろうけれども、それでもやはり風の谷のナウシカの歌舞伎化は、一つの博打のように感じられないこともないのだ。

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