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分からなくてモヤモヤする。

一般向けに書かれた科学書を時々、読む。
ブルーバックスのようなものとか翻訳物とか種類は色々だけれど。

例えばロボットと生物の共通点について書かれた本は、わたしに馴染みのある生物側の知識を工学的に解説してくれるところや、ロボット工学の研究者達がロボットを作るときに何を考えながら作っているのか垣間見えて楽しかった。

しかし白状すると、そういった書籍を読み終えた時、常にモヤモヤした気持ちを抱えてしまう。
入り口や表面的な部分を分かりやすく紹介してくれる本は、スッと読める代わりに、本当に理解したような気持ちにはなれない。
きっと専門家の人から見えている世界は、わたしがこの本を読んで想像するのとは全然違うのだろうなと残念に思う。

わたしのような人向けに、専門的な概念をできるだけ分かりやすく一生懸命、解説してくれる本もある。
わたしが出会った最初の本はホーキング博士の本だと思う。
ブラックホールのことや理論物理学のことを数式を用いずに普通の言葉で話してくれている。
しかし今度は何を言っているのかさっぱり分からない。

例え話を交えたり、同じ概念を違う方法で説明したり、分かって貰おうと手を尽くしていると感じる。
例え話はそもそも、理解して欲しいことに似ている事例を挙げることによって、対象の理解を促す方法だ。
しかしこの場合、例え話は理解できても本論が全くピンとこない。
土台、初等数学も初等物理も勉強していないのにきちんと理解しようなどおこがましいにも程があるから当然だ。
それでも著者の語り口や、余りに直感や日常生活からかけ離れた宇宙論に触れるのが好きで、最後まで楽しく読む。
でもやっぱり理解できない不満は残ったままだ。

これが映画やアニメや小説だったら、苦にならない。
全てではないけれど、お話や登場人物の気持ちを理解できなくても面白いと感じる作品はたくさんある。
おそらく理解することを必ずしもわたし自身が求めていないからだと思う。
会話のテンポがいいとか、映像が綺麗だとか、他に楽しめる要素があればそれで十分だ。

翻ると、わたしは科学関係の話を聞いたり本を読んだりする時に、理解することこそいちばんの楽しみだと思っていることになる。
科学はそもそも、明晰に理性的に論理的に世界を理解しようという一種の思想だから、当たり前といえば当たり前かもしれない。
だから、易しい言葉や比喩による表面的な理解に諸手を挙げて賛成できない自分がいる。
自分の専門分野でもないかぎり易しい言葉に変換してくれないと理解できないにもかかわらず、ぼんやりと分かったような気にさせられるのが嫌だという、実に面倒な感情を抱いてしまう。
本を一冊読んだくらいで理解しようなどと不遜なことを考えているつもりはないのだけれど、やはり少しでいいので本当の意味で理解したいとどこかで思ってしまう。
いちから勉強する気力はないくせに、平易な説明に不満を抱いてしまう。

これではまるで、「仕事で成功する秘訣は何ですか、一言で教えてください」と真顔で質問する人と同じだ。

生命科学を一般向けに紹介した書籍を研究者が読んでわかりやすいと思ったとしても、もしかしたらそう思っているのは本人達だけかもしれない。
わたしが物理学の本を読む時に感じているようなモヤモヤを抱えたまま読み終わり、「まあでもそんなものだよな。何となく分かったような気がするし、話が面白かったからいいか」と思っているのではないか。

著者に何ひとつ文句はない。むしろとても尊敬している。
専門用語が使えない苦しさは理解できる。
用語はどんなジャンルにでも存在し、たいてい初心者にはピンとこない。
野球にはヒットとかホームランといった用語があるし、インフィールドフライ、タッチアップ、バスターといったもう少し難易度の言葉も存在する。
バスケットボールにはピックアンドロールという基本的な戦術があるのだが、さらに細かく分類されいちいち名称が付いていて全然、覚えられない。
用語やそれに伴う概念をいちいち説明したり、別の言葉に置き換えたりしながら説明するのはものすごく疲れる。
「もう分かってくれなくていいわ!」という気持ちになる。

科学本の著者は本業の合間を縫って、どうしたら分かりやすく、しかし本当の意味を失わずに伝えられるか、苦心しながら執筆されていると思う。
できるだけ前提となる知識がなくても理解できるようにしたつもりだけれど、無意識に専門的な説明になってしまっていないか見直されていると思う。

それでもわたしは、楽しく読みながらも常に不満を抱えている。
これは完璧な説明だと感じたことは一度もない。
不遜なことと思いつつそれよりも、人間はどうしてこんなに理解したり、理解した内容を伝えるのが難しいように設計されているのだろうと疑問に感じている。

文字が発明されてから知識が記録されるようになり、人類の知性は世代を越えてもリセットされずに積み重ねられるようになった。
口伝えの知恵もあるから文字がなかった時代にももちろん積み重ねはあったけれど、地層の厚みが飛躍的に増した。
そうして数千年が経って、ある限られた狭い場所に積み重ねられた知識や思考でさえも、吸収するのに多くの時間を費やさなければならなくなった。
そうして知識体系は複雑化し、ひとりの人間の処理能力を遙かにしのぐようになった。
そんなことは百も承知だ。
一方で、蓄積した知識体系を習得する速度はそんなに変わっていない。
つまり理解する能力というのは、生物進化的なとても長いスパンでしか変化しない純粋に生物学的能力なのだと思う。

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