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往きつ戻りつ

年々、自分の中での年末年始らしさが薄れていく。
年末らしさも、年越しらしさも、新年らしさもなく、他の一日と同じように時間が過ぎてしまう。
おせちも食べないし、年賀状は高校時代の友人から来た一通だけだった。
年賀状を送らなくなったので、むしろ返事をよこさないのに送り続けてくれる友人の奇特ぶりに感謝すべきだと思う。

年末年始にかぎらず、イベントごとには興味が薄い。
今年はYouTubeで年越し麻雀の動画を見ていたら年が明けていた。
「年越し」を冠しているので年末年始らしさがあるといえばあるのだけれど、毎年の恒例にしているわけでもないし、たまたま面白そうだから見ていただけだ。
初詣にはほぼ毎年行っているが、そもそも神社を好きなので参拝する良い機会にしているだけだと思う。
面倒くさいことをいうと、年の区切りは人間の都合で決められたものに過ぎない。
一年の長さは、地球の公転周期を指しているので自然現象としてリンクしているが、どこで一年を区切るかは任意である。
農作物の生産サイクルを基準に決めているのだろうけれど、それにしても太陰太陽暦と太陰暦とでは正月が一ヶ月以上ずれているので、寒い時期を新年にすること以上の条件は、自然現象とは関係がなく、任意に人間が決めたものだ。
年が明けた瞬間に、もう一年すぎてしまったとか、もう去年は返ってこないんだとか、新しい時間の始まりだとか、勝手に引いた線を巡って色々なことを思う。
これまでに積み上げてきたその先を考えるのは、人間が生き残ってきた中で得た能力だ。
記憶をもとに未来を予測し続ける。
過ぎ去った一年は記憶であり、過ごした年月は経験だ。
時間の区切り目は、それを意識するきっかけの一つだと思う。

過去と未来を分けて考えるそもそもの原因は、時間の不可逆性にある。
一度過ぎ去った時間は戻ってこず、ただ未来へと進んでいく。
空間は行ったり来たりできるのに、時間は一方向にしか進まない。
ものすごく当たり前だけれど、時間が不可逆な理由はよく分かっていないらしい。
熱力学の分野では、エントロピーが単調に増加することを指しているみたいだけれど、その理由には踏み込めていない。
時間逆行がずっとSFのテーマであるように、過去から未来にしか時間が進まない理由は、科学的にも感情的にも人間の興味を惹き続けている。
年越しの瞬間は、たとえそれが適当に決められたものであっても、越えてしまったら二度と戻れない時間の一方向性を思い出すきっかけになる。
自分の中でのもっとも年末年始らしい感覚は、この時間の不可逆性だ。
子供の頃は、もっと頻繁にこの奇妙な感覚があった。
遠足とかアニメの最終回とか、もう戻ってこないものに対して不思議に感じていた。
大人になるごとに微妙な感覚は薄れて、今では年に一度、ほんの数秒思い出すだけだ。

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