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#迷い #選択 #決断

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迷える子羊。
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始まりはいつも、憂鬱な月曜日だった

憂鬱から始まった月曜日、淡い期待を抱いた火曜日、期待は幻想だった水曜日、振り出しに戻った木曜日、何とか乗り切れた金曜日、可もなく不可もない一週間、平均点をキープする一年間、まんざらでもない人生。 いつだって、始まりは憂鬱な月曜日だった。 週末の余韻から抜け出せなかった学生時代の月曜日、定例の会議が怖かった社会人時代の月曜日、仕事も何もせず未来が見えなかった時の月曜日。 これまでの人生、月曜日の思い出はほとんど憂鬱とともにある。 「朝目覚めたら体調不良になってないかな」

「嫌いじゃない」ではなく、好きなら「好き」と言わないと。

「どちらかといえばそう」 「嫌いじゃない」 そんな言葉ばかり使っていると、だんだん自分の本心が分からなくなっていく。 好きなものには「好き」と言っておかないと、「これは好きなものだ」という仕分けをしておかないと、自分が本当に好きなものが何か、分からなくなる。 僕らは大人になるにつれて、誰かを傷つけないための言葉、言い回しを覚えていく。 好きか嫌いか、白黒はっきりさせてしまえば都合が悪くなる。だから、「どちらかといえば」という前置きをして予防線を張ってみたり、「どっちも

外堀から埋める、みたいな考え方が好き

「幸せを感じる」とか「自分で自分の機嫌を取る」とか、その考え方自体はシンプルなのだけれど、いざ実践したり実感するとなるとそう簡単にはいかない。 考え方や思考の癖を変えるのは非常に難易度が高い。 ただ、僕らの悩みのほとんども、実際のところ、考え方や思考の癖によるものだったりする。 「じゃあ、考え方を変えよう」 と口では言えても、いきなり変えられるわけでもないし、変わるわけでもない。それができていたら、たいていの悩みはすでに解決しているはずだ。 例えば、ネガティブな人が

生き方だけが、洗練されない

年齢を重ねるにつれて、自分に合った服の着こなしや暮らし、人付き合い、何となく掴めてきたような、洗練されてきたような感じがするけれど、生き方はいまだ洗練されない。 ・シンプル ・スタイリッシュ ・垢抜け 「洗練」と聞くと、そんなイメージが真っ先に思い浮かぶけれど、シンプルな生き方もスタイリッシュな生き方も、それが正解というわけではない。 シンプルな着こなしが、必ずしも「洗練されたファッション」というわけではないのと同じように。 そう考えると、洗練とは、“自分に合うものを

路線図見るのが好きだけど、これって仕事になるのかな

「好きなことで生きていく」 「好きなことを仕事にする」 この「こと」というのが、実はけっこう難しい。 「こと」の解釈を間違えてしまったり、ピュア過ぎるあまりこれらの言葉を真に受けてしまうと、好きなことで生きていけないどころか、“好きなこと”なはずなのに「あれ、楽しくないぞ…?」、「何か違うな…?」と違和感を覚えてしまうかもしれない。 例えば、僕は電車の中に貼ってある路線図を見るのが好きだ。 人にはあまり理解されない気がして自分からは言わないけれど、一緒に電車に乗った人

保守的でいるために、挑戦し続ける

「10年後、自分は何を考えているんだろう」 たまにふと考えてみたりするけれど、いつも何も思い浮かばない。 ただ、自分に残された時間が少なくなればなるほど「何かを作りたい」という気持ちよりも、「何かを残したい」という気持ちの方が強くなるのかな、なんて漠然と思っている。 こうして文章を書くことも、日々働くことも、「作りたい」、「生み出したい」という気持ちが原動力になっている。 だから、自分にできるかどうかよりも、やりたいかどうかを大切にしている。 それは、自分に残された

可能性は無限大かもしれないけれど

「可能性は無限だから」という言葉よりも、「限界までやってみよう」という言葉の方が好きだ。 無限にある可能性を信じて、「誰でも何者かになれる」と信じて、手当たり次第何でも挑戦してみたらどうなるのだろうか。 体力も気力も時間も、限りがある。 たとえ可能性は無限大だったとしても、体力も気力も時間も限られているのなら、その“限り”の中でいかに自分の人生を全うするか、真面目に考える必要がある。 限りがあるからこそ、肩の力は抜いていたい。 無理して、背伸びして、そんな自分を我慢

刺激もワクワクも、どれも自分次第なんだよね

2022年に目を向けたいはずなのに、そんな時に限って、2021年の心残りや去年の自分への物申したさが湧き上がってくる。 「刺激が欲しいんだよね」 「ワクワクすることがしたいんだよね」 刺激的な体験、ワクワクするプロジェクト、そのいずれも残念ながら存在しない。決して、自分を待ち受けてくれたりはしない。 仕事も趣味も人間関係も、初めからそれ自体に色がついているわけではない。初めから、刺激もワクワクもあるわけではない。 自分の関わり方や考え方次第で、最高にも最低にもなり得る

“感じたものが何だったか”を、振り返らないと

流行りの曲や映画、コンテンツ、流行っているものには流行るだけの「理由」が必ずある。 どんな理由であれ、流行るということは「良い」ということなのだろう。 みんなが「良い」と思うものを消費しようと思ったら、消費する前から「これはきっと良いものだ」と思い込んでしまう。 たとえそれが微妙なものだったとしても、何となくしっくりこなかったとしても、「いや、これは良いもののはずだ」と、どこか自分自身を納得させようとしてしまう場合さえある。 それを「良い」と思えない自分が嫌だからなの

「仕事楽しい?」にパッと答えられない時点で

「仕事楽しい?」 「人生、充実してる?満足してる?」 「順調に進んでる?」 こういう質問に対して、 「“楽しい”って、そもそもどういう状態だ?」 「“充実”の定義って何だろう」 なんて少しでも考えてしまうようなら、きっと満たされない何かがある。 本当に充実していたら、満足していたら、楽しかったら、己の直感が即座に働くはずで、「うん、充実しているよ!」なんて言葉がパッと出てくるのだろう。 いつだって、言葉の定義や解釈、普段難しく考えないようなことを難しく考え出す時は、

好きな仕事とやりたいこと、いずれかしか選べないとしたら

「人は一日の中で、何千・何万回と選択している」なんてよく言われる話だけれど、そういう選択はたいてい選択している実感すらない。 僕らがいつも「選択」と表現するのは、決まって人生に関する選択だ。 キャリアやライフイベントといった進路。 とりわけ、夢を追うか・諦めるかの選択を迫られる。 日常で何気なくしている選択みたいに、流れるように、躊躇いもなく選択できたら良いのだけれど、そういうわけにはいかない。 水回りの頑固な汚れのごとく、頭の中にこびりついて離れようとしない。

考えれば考えるほど、「やってみなきゃ分からん」となるけれど

動いている時間よりも考えている時間の方が長い時、「結局やってみないと分かんないよな」と意外と楽観的になれたりする。 ただ、考えている時間よりも動いている時間の方が長い時、「本当にこれで良いのかな」とか「もっとちゃんと考えた方がいいかな」なんて、あれこれ考えてしまう。 この塩梅だけは、年齢を重ねてもいまだに掴めない。 「やると決めたら信じてやり抜く」、これが難しい。 考えるのも動くのも、いずれも中途半端になってしまう。 「やる」の認識が甘すぎるのかもしれない。 少し

手軽になって失ったもの

パソコンでnoteの文章を読んでいてハッとした。 久しぶりに、じっくり文章を読んでいる気がする 普段、他のクリエイターさんの文章を読む時はスマホを使うことがほとんどだから気づかなかったけれど、最近自分の中で「読む」がただの消費活動になっていた。 何となくさっと読んで、読んだ気になって、気に入ればスキをつける。 その一連の作業、消費活動を、親指だけで惰性で行っていく。 元々それがしたくて文章を読んでいるわけではないのに。 - 様々なモノ・コトが手軽になった。 食

仕事も、やりたいことも、生き方も、変わっていく

何かを選択する時、例えば仕事を探す時、 ・一生続けられるのだろうか ・これが自分の天職なのだろうか なんて考えたりしてしまう。 さも、これから選択するものが“最後の選択”になるかのごとく。 けれど、実際そう思って選択をしても、蓋を開けてみればあっさり転職していたり、「あの時、どうしてあんなに迷ったんだろう」とさえ思うこともある。 仕事に限らず、やりたいことだって、生き方だって、自分自身だって、そのうち変わっていく。 たくさん経験して、刺激を受けて、挫折して、その繰