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儚くない、春。

今年に入ってから日記を書くようになった。肩の力を抜いて書いた文章の頼りなさというか、とても自分の文章とは思えないくらい知性の欠片もなくて、たまに見返しては一人でニヤニヤしている。

〇〇が美味しかったとか、××にちょっと苛立ちを覚えたとか、△△さんのあの時のあの発言にモヤモヤしたとか、「日記」と表現するのも躊躇われるくらい、本当に何も考えず言葉を並べてみている。

こうして文章を書くときはやはり肩と指先に力が入ってしまう。いくらありのままを表現しようと思っても、ちょっとカッコつけたくなったり一捻り入れたくなる。飾らない自分でいようとする自分自身が、実はとても飾られている自分なのだ。

桜を「儚い」と思えるほどまだ寛容にはなれない。「どうして悪天候が続く日に満開になっちゃうわけ?」、「あと1週間でも良いから咲き続けてくれ」と思わずにはいられない。

桜のように、いつまでも、ずっと、そこにあるわけではない、そうと分かっていてもそこにあったら嬉しいし愛が溢れる。なくなったら「儚いね」なんて簡単な言葉では片付けられない。地球規模で見たら、人の一生も、人の夢も、誰かが紡いだ言葉もきっと儚い。けれど、当事者からしたら儚くない。

今年も、満開の桜は見れなかった。

日記を書くようになって、頭の中を埋め尽くす葛藤やモヤモヤのほとんどは、頭の中からそっと取り出してあげる、言葉にしてみるだけで多少和らぐと気づいた。日々、言語化するまでもないことが頭の中を埋め尽くしている。嬉しい、悲しい、美味しい、楽しい、怖い。輪郭を持たない、極めて感覚的な“何か”が頭の中に湧いてきたら、そこに名前をつけてみる。名前をつけられなかったら、感じたまま言葉にしてみる。中に置いたまま延々とモヤモヤし続けるよりも、外に出す方がヘルシーでいられる気がする。僕らが日々どれだけ言葉にしていないか・できていないか、日記を書けば書くほどそう気づかされる。

何だか余白のない日々が続いている。これを「充実」と解釈できる人はきっと幸せなのだと思う。充ちてはいるが充ちていない、そんな感覚。

「これがひと段落したら」と思うことを諦めた方がいいのかもしれない。いつかの時代のどこかの誰かが「時間」という概念を作り出し、時計というものを作ってしまったせいで、僕らは無自覚に「時間」に縛られ続けている。だから、過去を悔やみ未来を憂い、今この瞬間に目を向けられない。

やりたいことのほとんどはおそらくできない。それをやれる頃には時間が足りなくなっている場合もあれば、金銭的、能力的にできない場合もある。機会にも恵まれないかもしれない。やりたいことはいつか全てやれる、という前提を手放すことが「自由」の一丁目一番地なのかもしれない。

やりたいことはたくさんある。それらを自分なりの時間軸で、やれる範囲でやっていく。やれたらラッキー。やれなかったら仕方ない。それ以上でもそれ以下でもない。それが人生であり、そんな人生のことを「儚い」と言ったりもするらしい。

あいにく、人生を「儚い」と思えるほど、僕はまだ寛容にはなれない。


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