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ぜんぶ、東京のせいにして良いですか

何者かにならなきゃと焦ってしまうのも、若いうちに成功するのが正しいと思ってしまうのも、とにかく何かしなきゃと気持ちが落ち着かないのも、全部、東京のせいにして良いのかな。

自分のペースで、自分らしく、自分の身の丈に合った生き方を、ただそうしていたいだけなのにうまくいかないのは、東京のせいにして良いのかな。

東京という“リアル”の中で生きているはずなのに、SNSのような、“one of them”の世界を生きている感覚だ。

「東京」という大きな世界の中で、何者でもない一人として、何事もなく消費されて終わっていくのだろうか。

朝目覚めて窓を開けても、そこには無機質な風景が広がっている。

気分転換をしようと少し喧騒から離れてみても、申し訳程度の、取ってつけたような自然がそこにあるだけだ。その度に、自分が生まれ育った町を思い出し、東京という街を嘆く。

ファストファッションに身を包んで、ファストコンテンツを適当に目と耳で流しながら、ファストフードで空腹を満たす。いつしか、“味わう”という感覚を忘れてしまった。消費するために消費することほど空虚な営みはない、と知った。

“東京で生きている自分”
“東京で揉まれて頑張っている自分”

少しは、何者かになれた気がした。

けれど、僕らが欲しかったのはステータスなんかじゃなかった。

〇〇社の社員、リーダー、課長、アラサー、妻、夫。

自分を一言で表せるものが、会社という看板ありきだったり、何かに依存していることを受け容れたくなかった。

東京に、何を探しに僕らはやってきたのだろうか。

探している何かがあって来たんじゃない、きっと何かを探したくて東京へ来たのだ。

何を探しているのか、自分でも分からない。

「自分は何者であるか」、その答えを探していることは間違いないけれど、自分が何者であるかを知るために東京へ来たわけじゃない。自分が憧れた東京は、そんな場所ではなかった。

理由なんてなくて、ただ行きたかった。東京でもがいてみたかった。それくらい直感的で衝動的だった。

いざ来てみたら、答えはなかった。

だから、答えはなかったから、まだ東京でもがくつもりだ。

東京は答え合わせをしに来る場所ではない。自分の中にまだ問いすらない、そんな状態で答えを探しに来る場所。

東京にいると焦ったりペースが乱されるのは、僕らと同じようにもがき苦しんでいる人が周りにたくさんいるからだ。隣のあの人も、心のどこかでメラメラとした何かを抱えているかもしれない。

「東京なんて来るんじゃなかった」

東京なんて嫌いだし、東京にいる自分はもっと嫌いだ。

だから、もし人生がうまくいかなかった時には、全部東京のせいにするつもりでいる。

そう思うと、不思議と気持ちが軽くなるんだよな。

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