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【サイケデリック学探究記】11784-11791:2024年1月7日(日)

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タイトル一覧

11784. 今朝方の夢

11785. 今朝方の夢の続き

11786. リアルを知覚させる脳/学術研究及び趣味としてのサイケデリック実践

11787. 今朝方の夢を改めて振り返って

11788. 「この世の全ては幻想である」という主張に対して

11789. 量子力学とサイケデリック体験

11790. 宇宙の縁を知覚するサイケデリック体験を振り返って/瞑想を積極的に取り入れること

11791. 新年最初の書籍の一括注文を終えて/瞑想実践の効果を改めて感じて

11784. 今朝方の夢

時刻は午前4時を迎えた。昨日から感じていたことではあるが、やはり最高気温でさえもが0度近くになってくると、いくら暖房をかけているとはいえ、室内の気温も低くなってしまい、寒さを感じるようになった。厳しい寒さを望んでいたのは確かだが、外気がマイナスになってくるとここまで室温が下がるということを忘れていた。事実昨日は、室温の低下を受けて、日中にも湯たんぽを使う必要があったほどで、お湯も2回変える必要があるぐらいに継続して湯たんぽを使っていた。どうやら今日もそのような1日になる予感がしている。というのも今の気温はマイナス2度で、ここから昼にかけてさらに気温が下がり、マイナス3度になるからである。さらに日中の最高気温もマイナス1度なので、こうした気温の時には湯たんぽのお世話にならざるを得ない。ここから4日間は最高気温でさえもがマイナスの日が続く。ここからしばらくは天気が良いことはせめてもの救いである。

今朝方はいくつかの夢を見ていた。早速それらについて覚えているものから順番に振り返っていきたい。

夢の中で私は、デロイト時代のメンバーと一緒に昼食を食べに出かけていた。場所はオフィスの近くなのだが、その店に行くのは初めてだったので、どのような店なのか楽しみだった。その店は鉄板料理がうまいということが評判だったし、自分で鉄板料理を作れるというアクティビティ性も高評価の店だった。店に到着し、10人ほどのメンバーが一緒の席を囲んだ。そこで自然と仕事の話になったのだが、中途入社をして来たゲイの男性社員に対して、自分よりも少し年上の女性社員が指示の出し方がきついと述べた。その女性はとても優秀で、人柄も大変よく、それでいて物怖じをせずに素直に何でも口に出す性格があった。指示の出し方がきついと指摘を受けた男性は、「あなたの指示の出し方もきついですよ」と含み笑いをしながら反論した。2人とも思ったことは伝えるという性格なので、陰険な雰囲気にならず、建設的に議論をし始め、どうすればより気持ちよく働けるかについて話し合っていた。私は2人の話をずっと黙って聞いていた。すると鉄板料理の具材が到着した。そこで今から、その女性社員が大きな鉄板の上に乗って、鉄板料理を作って披露することになった。何やら全世界へテレビ中継およびインターネットライブ中継されるらしく、その女性は張り切っていた。「それにしても大きな鉄板だな」と私は思った。その女性は小柄だったため、尚更鉄板が大きく見えたこともあるが、事実その鉄板は畳4畳分ぐらいの大きさだった。いざその女性が鉄板料理を作ろうとした際に、まずは大きなボールに入った卵を鉄板に敷こうとした。すでにメンバー全員で各自卵を割ってそのボールに入れていたのだが、どうも誰かが割った卵は割り方が下手で、ボールの中に殻がたくさん入ってしまっているようだった。なのでその女性はまずは卵の殻を取り除くことから始めた。その様子から全世界に中継されていて、おそらく中継を見ている人は、早く鉄板の上で料理を作る姿を見たいのだろうなと想像していた。いざ料理を作る段になると、ある1人の上司が非常に冷静に仕事上の資料を眺めていて、私たちの会話に入ることもなく、また料理の過程を眺めることもなく、ひとり黙々と仕事をしている姿が目に入った。上司のそうした姿に気づくと、鉄板からジュ~という良い音が聞こえて来て、いよいよ料理が始まったのだと思った。そのような場面があった。フローニンゲン:2024/1/7(日)04:33

11785. 今朝方の夢の続き

今日はやはり相当に冷え込んでいるので、これから早速湯たんぽを使いたいと思うし、身体の内側から温めるためにアニマルフローの実践も早期に行いたい。また日中も探究活動の最中にも立って読書をするなど、同じ姿勢で座りっぱなしにならないようにして、身体を動かしながら探究活動をするようにしたいと思う。そうすれば寒さも少しは和らぐだろうし、血流も良くなって健康的かと思う。

先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、その他にもまだ覚えている夢があるのでそれらについても振り返っておきたい。

夢の中で私は、見慣れない家の洗面所で洗濯機を回していた。いつもと同じように洗濯機に洗濯物を入れ、モードの設定をしたはずなのだが、どういうわけか洗濯機から水が漏れ始めた。何か設定でも間違えたかと思ったが、いつもと同じモード設定だったので、どうしたものかと思った。何が問題なのかよくわからなかったので、とりあえず洗濯機を回すのを一旦止めて、設定のモードを一番緩やかな手洗いモードにしたところ、水の漏れは止まった。それを確認して、大学に向かった。大学に自転車で向かっている最中にふと、近所の玩具屋に行って荷物を受け取ってこようと思った。そこは行きつけの玩具屋で、玩具をそこで購入するとか、そこに置かれているゲームを遊ぶとかで行きつけだったのではなく、そこの店員数名と知り合いで、時間がある時には彼らと話をすることが自分にとって楽しみの1つだった。店に到着すると、ちょうど開店の時間と重なり、早速いつもの店員の男性の1人と少し言葉を交わした。そこでふと、今から大学で授業を受けてくる必要があることを思い出し、またすぐに店に戻ってくるのでジャケットを店に置いたままにしておいていいかを確認した。するとその店員の男性は快諾してくれ、2枚重ねて着ていたジャケットのうち、一番上の分厚いジャケットを脱いでソファに置いて大学に再び向かおうと思った。すると、店の外に何やら聞いたことのある声がした。店はすでに開いているが、まだカーテンがしまっているような状態でもあったので、外で待っている客がいるのだろうと最初は思い、同時にその声の主は自分の友人たちではないかと思った。そのことを店員に告げると、であればカーテンをすぐさま開けてくれと言われたので、カーテンを開けた。するとやはり外には私の友人が数人いて、そこで開店を待ちながら駄弁っていた。私はすぐさま彼らを店の中に案内した。すると、彼ら以外にも数人の子供も一緒についてきて、彼らもまた店に入った。その時に私はなぜか、先ほど友人たちが想像世界の中の建物の窓の外の窓枠に立っている姿が想像された。窓枠はわずか数センチほどしかなく、その上に4人の友人たちが1列になって立っていて、何も恐怖心を抱くことなく平然に会話をしていた姿が印象的だった。彼らが立っていたのはマンション10階ぐらいの高さであり、手すりもなく、そこから落ちたら確実に死んでしまうぐらいの高さだったので、よくあんな狭い足場で平然として立って話がしていられるなと感心してしまった。そのような場面があった。フローニンゲン:2024/1/7(日)04:51

11786. リアルを知覚させる脳/学術研究及び趣味としてのサイケデリック実践  

アニマルフローの実践をして体が随分と暖かくなった。それに加えて、アニマルフロー後にいつも飲んでいるカカオ・ヘンプドリンクが温かいので、その温かさにホッと一息ついている。足元からどうも冷えるようなので、今日から下のヒートテックを2枚重ねることにした。これで足元は随分と暖かくなった。

先ほどふと、意識の受信機としての脳がなぜこうもリアリティを認識したがるのだろうかと思った。脳は置かれた環境に順応する形で、そこで知覚される世界をリアルなものだと私たちに思い込ませる働きをする。サイケデリック体験においては身体が環境と切り離される感覚に陥ることもしばしばあるのだが、そうした場合においても、脳は常に私たちに何かしらのリアルを開示させてくる。そうしたリアルがいっときのもので、多様なリアルがあることを知り、かりそめのリアルに囚われることは幻想に捉われることに等しいという認識を持って、多様なリアルに目覚めることは悟りの1つの要件かと思うが、いずれにせよ、脳がこうも私たちに絶えずリアル感を与えてくるのは興味深いことである。夢を見ない深い睡眠中には、私たちの認知は何もリアル性を感じないかもしれないが、実際のところは脳はその状態においても働き続けており、脳は脳自らに対してリアル感を与え続けているのかもしれない。そうなってくると脳と脳を持つ人間は、とことんまでに何かしらのリアルを感じないと生きていけない生き物なのかもしれないと思った。同時に、このリアリティが、あるいは宇宙が常に無限のリアルを持っていて、その無限なリアルから私たちは逃れられないという見方もできるかもしれない。仮に1つのリアル世界から抜け出したとしても、即また別のリアル世界に引き込まれるという現象がどうやらあるように思える。これも宇宙の無限のリアル性と脳がそれを受信することを本質的な機能としていることに由来するのだろうか。そのようなことを考えていた。

それ以外には、サイケデリック実践は、自分にとって学術研究の一環だけではなく、独自性のある趣味になっているのではないかという考えも芽生えた。ウェブ2.0の時代の終焉を迎えようとしている現在、独自性のないコンテンツを発信することも消費することもますます価値がなくなって来ている。ここからはウェブ3.0の時代に突入していくと言われるが、そうした時代において重要なことは兎にも角にもユニークな直接体験をいかに積んでいるかにかかっているのではないかと思う。そうしたユニークな直接体験からユニークな知識を獲得していくことが、とりわけ情報発信側に求められる時代になるのではないだろうか。そのようなことを考えながら、学術研究と趣味が一体化した実践としてサイケデリクスの摂取があることは、自分にユニークな直接体験をもたらし、ユニークな知識を獲得していく最良の機会になっていることに感謝をした。学術研究及び趣味としてのサイケデリック実践に引き続き没頭邁進していこうと改めて思った次第である。フローニンゲン:2024/1/7(日)05:35

11787. 今朝方の夢を改めて振り返って

温かいモーニングコーヒー。その優しさと美味さに感謝の念が溢れ出す季節になった。早朝に引き続き暖房が自動でせっせと働いてくれている。コーヒーにせよ、暖房にせよ、そうした数多くの生命・非生命の助けを借りながら自分は毎日自らのライフワークに従事できている。彼らの助けと支援があって自らのライフワークが成り立っていることを決して忘れてはならない。

コーヒーの良い香りに誘われながら、今朝方の夢に関してまた1つ思い出した場面があった。その夢では自分の正義感を発揮するような場面があった。

夢の中で私は、小中高時代の親友(HO)と一緒に、2対2の室内サッカーの大会に出場していた。それはフットサルよりも人数もコートの大きさも小さく、ゴールもまた非常に小さい競技だった。その大会で使われていたゴールは参加者が持参した書籍をもとに作ったものだった。より具体的には、持参した2冊の書籍をゴールポストに見立て、その間を通せば得点になるというものだった。受付でエントリーを済ませ、いざ自分たちが呼ばれて試合会場に案内されるのを静かに待っていると、2人の名前が呼ばれたので指定されたコートに向かった。コートと言っても室内のフローリングに書籍をゴールに見立てただけの場所なので、これまでサッカーをしてきた環境とは随分違うなと改めて思った。

試合開始前に、ゴールポストを作るための書籍をまずは審判に見せた。審判は若い女性だった。彼女は私が持参した2冊の書籍にケチをつけ始めた。ルールではどんな本を持って来ても良いということだったので、自分は内容が面白い分厚めの学術書を持参していた。審判の彼女曰く、一般人に馴染みのある書籍でないとダメだということを言われ、そのようなことは事前に伝えられておらず、どんな本を持って来てもいいということだったのではないかと抗議した。しかし彼女はその抗議を認めず、私たちの試合への参加を頑なに拒んだ。そもそも一般人に馴染みのあるかどうかなどどうやって判断するのかということを彼女に問うた。相手チームが持参した書籍は確かに一般書の形態を取っていたが、タイトルも中身も明らかに多くの一般人が手に取るようなものではなく、一般人に馴染みがあるとは言えないものだった。それについても指摘して抗議を続けたが、こちらの抗議を受け取る姿勢は最初から一切ないようで、私たちは不参加扱いにされそうになった。すると、別の審判の男性がやって来て、私たちの間に入って仲裁し、最終的にはこちらの言い分を擁護してくれ、晴れて試合に参加できることになった。それは嬉しかったが、その女性の審判が自分たちの審判を務めるのは嫌だったので、その男性の審判に代わってもらうことも併せて要求した。その要求も運営側に汲んでもらい、ようやく試合ができる状態になった。親友の彼とは昔から以心伝心の息の合ったプレーができるので、初戦は難なく突破し、かなりいいところまで勝ち上がることができるのではないかと期待された。とにかくどの試合もとことん楽しんで、創造性を発揮しながらプレーしようとお互いに誓い、キックオフの笛が鳴るのを待った。

夢の振り返りも落ち着いたところで、これから早朝の読書に取り掛かろうと思う。今日は午後に仮眠を取り終えたら、新年最初の書籍の一括注文をしようと思う。意識・宇宙・サイケデリクスの探究において、サイケデリクスに関する学術書は世の中に出回っているもののほぼ全てを購入し、再読まで終えているが、意識と宇宙に関する研究を前に進めていくためには、今この瞬間においてももう少し必要な学術書がある。こうして少しずつ必要な研究書を揃えていき、研究を着実に前に進めていきたい。フローニンゲン:2024/1/7(日)06:21

11788. 「この世の全ては幻想である」という主張に対して 

先ほど洗濯物を干しながら、「この世の全ては幻想である」という主張に対して考えていた。過去の自分は確かにその主張に賛同していたが、その時の自分には意識やリアリティの性質に関する知識も理解も乏しく、考察に欠けていた。今はその主張に与しない自分がいる。確かにこの世の全ては千変万化し、かりそめの形で存在する。しかしながら、未来永劫とまでは言わないまでも、長大な時間に耐えうる真理や法則といったものがこの世に存在しているのは確かだろうし、「この世の全ては幻想である」という主張そのものが幻想である可能性もある。そうしたことを考えながら、その主張の問題は認識論的にも存在論的にも存在しており、あえてここではそうした細かなことに入っていかないが、存在論的な問題は非常に重要なので、参照するべき哲学者の仕事に軽く触れておくと、ロイ・バスカーの批判的実在論やグラハム・ハーマンのオブジェクト指向存在論は必ず参照しなければならない存在論と言えるだろう。そうした存在論を踏まえた上で、果たして何人の人が「この世の全ては幻想である」という主張を軽々しくできるだろうか。おそらくそうした主張をする人たちの大抵が、存在とは何かということについて存在論をベースにして考察を深めたことがないのだろうし、そもそも幻想というのは世界を知ることに関するものでもあるので、認識論をベースに考察を深めたこともないのだろう。そして何よりも自分が問題視するのは、「この世の全ては幻想である」という主張は私たちから生きる意味を剥奪したり、責任を希薄化させたり、虚無主義に陥れたりする危険性があるということである。「この世の全ては幻想である」という主張は、仏教やヒンドゥー教でよく指摘されることではあるが、結局そうした主張をする人たちは仏教やヒンドゥー教の教典を深く勉強することもなく、そして認識論や存在論に関する哲学の勉強をすることもなく、単に聞き齧った言葉としてそのような主張をしているに過ぎない場合がほとんどなのではないだろうか。

そのようなことを考えながら、自分の立場は心の哲学者のデイヴィッド・チャマーズの発想と同じく、この世の全てにかりそめ性を認めながらも、この世の全てはリアルであるという立場を取る。この立場はバスカーやハーマンたちの存在論とも合致する。チャマーズが述べるように、私たちは無数のリアルの世界の中に生きている。ヴァーチャルリアリティの中であったとしても、それはそれとしてまたある種のリアルなのである。夢の世界もまた、それはそれとしてある種のリアルがそこにあるのである。おそらく人間の脳は複数のリアルを同時に受信することができず、無限のリアルのうちのどれか1つを選び出し、それにチューニングするようにできているのだろう。逆に言えば、脳はいかなる種類のリアルにもチューニングする機能を持つとも言える。おそらく、「この世の全ては幻想である」と主張する人たちは、無数のリアルに気づいておらず、それら1つ1つがその瞬間においてリアルなものだということを受け入れることができず、全てを乱暴にひっくるめて幻想と片付けてしまっているのではないかと思う。もちろん無数のリアルが入れ替わり立ち替わり変化していく様子から、それを幻想と言いたくなるのはわかるが、幻想と述べてしまうと上記のように、リアルな世界での虚無的態度や暴走の引き金になってしまう。極端な話、全てが幻想ならその場で人を殺害しても何にも問題ないはずであるし、その他ありとあらゆる非倫理的・非道徳的行為が肯定されてしまう。そうした事柄を肯定しないためにも、そしてその瞬間瞬間のリアルを責任感を持って十全に生きるためにも、「この世の全てはリアルである」という主張に従って生きることの方が個人にとって、社会にとってより有意義なことなのではないかと思う。自らの命や人生に対する責任、他者や社会に果たす責任感がますます薄れていく社会の中にあって、そしてテクノロジーの発達によってさらに無数のリアルの世界に放り投げ出されるようになったこの時代において、「この世の全てはリアルである」という主張の重要性が自ずから浮かび上がってくる。フローニンゲン:2024/1/7(日)06:56

11789. 量子力学とサイケデリック体験

心の哲学の先端的な考え方に触れることや、量子力学の考え方に触れることは、自分のリアリティ認識に伴う感覚を磨くことにつながっているように思う。例えば、かつては地球は平坦なものだと考えられていたし、地動説ではなく天動説が当たり前だと考えられていた時代がある。それらの時代の人たちと今の時代の人たちでは随分とリアリティ認識の感覚が違うのではないかと思う。もちろん現代においても、いまだに地球が平坦だと信じている人はアメリカなどには結構いるのだが、先端的な科学や哲学の仕事に触れていると、人間の進化とは、宇宙の本質をより一層感知できるようになっていくことと定義してみても良いのではないかと思い始めている。これまで発達心理学の枠組みで意識の発達を研究して来たが、意識の発達というのも突き詰めてみれば、自己や世界の本質を捉えられるようになって来ることに他ならないことが見えて来る。私たちは意識の発達を通じて、宇宙の本質をより感覚的に理解できるようになっていくと捉えてみることができそうである。今自分が心の哲学の前衛的な議論に対して好んで探究の触手を伸ばし、量子力学の種々の考え方や先端的な議論に首を突っ込んでいるのも、自らのリアリティ認識に伴う感覚をさらに磨いていくためという意味もあることがわかって来た。量子力学の研究では、普通に生きていたら全く考えもしないような事柄を扱っているし、そこでの発見事項は極小の量子の世界の話でもあるので、現実世界で生きる感覚をそのまま持って理解しようとすると違和感がしばしば生じることがある。逆に言えば、現実世界でこれまで当たり前だと思っていた自分の感覚を脱構築し、より精度の高い感覚を育んでいくきっかけを提供してくれているとも言える。こうしたことから引き続き量子力学の探究にも力を入れていきたいと思う。

そのようなことを考えながら、興味深いのはサイケデリクスを通じた深い変性意識状態においては、量子力学で述べられていることが手に取るようにわかるような知覚体験をいくつもすることについて考えていた。まさにサイケデリック体験では、意識が微細なものを知覚できるようにどんどんと深まっていくことから、サトルやコーザルの意識状態では尚更に量子力学の世界を直接体験を通じて理解しやすいのだと思う。サイケデリクスを摂取する形で量子の世界を探究することは量子物理学者であれば積極的に試みてほしいことであり、実際に世界の中ではサイケデリクスによる深い変性意識状態を活用して量子の世界を研究している量子物理学者はたくさんいるだろう。自分のようにこの分野の門外漢であっても、サイケデリック体験によって量子の世界を知覚し、何かしらの洞察を持ち帰ることができるのだから、専門知識が豊富な量子物理学者であれば一体どれだけの洞察を得られるのだろうかと想像してしまう。いずれにせよ、自分がやるべきことは量子力学の生粋の学術書を読みながら、そこで得られた概念や発見事項を自らのサイケデリック体験に照応させていくことである。そうすれば、量子力学そのものへの理解と量子の世界への理解が深まり、量子的感覚の醸成が実現されていくであろう。フローニンゲン:2024/1/7(日)07:22

11790. 宇宙の縁を知覚するサイケデリック体験を振り返って/

瞑想を積極的に取り入れること

前回のシロシビン・セッションから早くも1週間が経った。前々回のセッション辺りでは、宇宙の縁を知覚する体験があったが、宇宙の端だと思っていたそれは、あくまでも自分が属する宇宙の端に過ぎず、また別の宇宙の観点からみればそれは端でもなんでもないことがわかって来た。同時にあの知覚体験は、自分の認識上の光が届く範囲で捉えられた縁なのであって、その光を伸ばせば、さらに奥に広がる宇宙が知覚できていた可能性もあることを念頭に置いておかなければならないとも思う。結局のところ、無限個の宇宙と無限個の宇宙の次元があるとする立場を採用すれば、自分が知覚できた宇宙の縁などは非常に限定的なものであることがわかって来る。しかしながら、宇宙の縁を知覚する体験を自分の認識の光が及ぶ範囲だと捉えてみれば、それは今後のサイケデリック実践の試金石になるかもしれない。すなわち、これから自分が意識をより拡張させていくことを通じて、認識の光の届く範囲を伸ばしていけば、これまで見えていなかった宇宙の世界が知覚されるかもしれないということである。ゆえにどこまでの範囲で自分が宇宙を知覚できるのかは、自らの意識の拡張度合いを測る試金石になると思ったのである。

気がつけば時刻は午前10時半を迎えていた。窓の外を眺めると、一面雪景色で驚いた。今の外気はマイナス3度であり、最高気温もマイナス1度であるから、この雪はしばらく溶けそうにない。

先ほど書籍を読む手を止めて、休憩がてらヨガマットの上で足を組んで瞑想をしていた。いつも夜寝る前にだけ集中的に瞑想をしているのだが、こうして学術研究の合間に瞑想をして脳を休めるのはいいものだと改めて思った。日中に集中力が落ち始めたなと感じたら、集中力が完全に落ちてしまう前に休憩を挟み、その時にしばし瞑想に浸ろうと思う。これはサイケデリック・セッションを定期的に課している自分にとって、セッションで得られた脳の可塑性をより高めることにもつながるだろうし、瞑想を通じて脳がリラックスし、しばらくはまた深い集中力を発揮して読書に励むことができるだろう。瞑想を日中にもより意識して取り入れていくことを今日の午後からもまた意識したいと思う。それを通じて学習の質にどのような変化が見られたかもつぶさに観察していく。フローニンゲン:2024/1/7(日)10:45

11791. 新年最初の書籍の一括注文を終えて/瞑想実践の効果を改めて感じて

時刻は午後4時半を迎えようとしている。今日はずっとマイナスの気温が続いていたので、暖房をつけていても室温が下がり、足下から冷える1日だった。雲ひとつない快晴の空は見事だったので、それを眺める楽しさに耽ることができたことには感謝しなければならない。こんな寒い世界の中でも今小鳥たちが鳴き声を上げていて、心を安らかにさせてくれている。雪の積もった屋根の上を歩く猫もそうだが、動物たちはこの寒さの中で本当に逞しく生きているなと感服する。

先ほど、新年最初の書籍の一括注文を終えた。購入予定リストに入れていた50冊超の書籍を1冊1冊改めて中身検索をしていき、今の自分の研究にどれだけ必要かを再度吟味していった。リストの中にあった日本思想の書籍はほぼ全て購入することになり、オックスフォード大学出版から出版されている物理学の種々のトピックに関する入門書も全て購入することにした。それ以外のトピックについては厳選して学術書を購入することにし、結果として33冊ほどの書籍を今回注文することにした。ここから2024年の初旬にかけては、それら新しい書籍の初読を進めていくことと、手持ちの書籍の再読を進めていくことに専念したい。

午後に仮眠を取ろうと思ってベッドに横たわったら、すぐに強烈な白い光を知覚する体験がったことをふと思い出した。今日は早朝から読書に熱を入れていて、知恵熱のようなものが生じたのだろうか。こうした白い光を知覚する体験は、サイケデリック体験中の知覚体験と瓜二つである。それは別にフラッシュバック症候群ではなく、脳内が活性化されていることの現れだろう。この現象についてもさらに科学論文などを通じて調査したいと思う。

今日は午前中に1度瞑想の実践をした。それが大変心地良く、脳が蘇るような感じがして、そこから正午にかけての読書がすこぶる捗った。ここからは就寝前だけではなく、午前と午後に休憩がてら瞑想実践を取り入れてみることによって、脳疲労の回復効果や集中力の向上効果だけではなく、サイケデリック体験の深まりへの影響も観察してみようと思う。午後の仮眠は脳が本当にスッキリするのでかれこれ20年近く続けているのだが、仮眠を取るのと同じぐらいの効果が数分の瞑想にもあるような体感を午前中に得られたので、これを活かさない手はないと思う。就寝前だけではなく、午前中に少なくとも1度、夕方に1度の瞑想を取り入れてみよう。その時間は長いものである必要はなく、自分の脳と身体が必要とし、それらが心地良いと感じる時間だけ瞑想をしてみよう。フローニンゲン:2024/1/7(日)16:38

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