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「論理」と「情緒」の間

映画『万引き家族』を観た後、この映画についてぼんやりと考えていたら、かれこれ10年近く前に読んだ『国家の品格』という本を思い出した。

『国家の品格』は、数学者の藤原正彦さんが著した250万部超えのベストセラー本。そのなかに、「パン泥棒にどう向き合うか」という項がある。

1週間何も食べていない男性がいたとして、思わずパンを奪って食べて逃げてしまうというたとえ話だ。

ある人は、この光景を目撃してこう思う。「日本は法治国家である。法治国家においては、法律を遵守しなければいけない。他人の物を黙って盗るということは、窃盗罪に値する。したがって法律に則り処罰されなければならない。そのために警察に突き出そう」。
ところが別の人は同じ光景を見ていてこう思う。「ああ、可哀想。確かにこの男は人の物を盗んだ。しかしこの男は、今このパンを食べないと死んでしまったかも知れない。人間の命は一片の法律よりも重い場合もある。だから今は見て見ぬフリをして通り過ぎよう」。

『万引き家族』では、このたとえ話のような話が、今の日本で現実として起きている、あるいは起きてもおかしくないということが描かれている。

その描かれ方として、「万引きをしないと生きてけない」という緊迫感はない。より静的な描写に「リアル」を感じさせる。

『国家の品格』を思い出したのは、たとえ話そのものではない。著者の藤原さんは数学者ならではの視点から、「論理とは何か?」について説明していて、これはこれでとても面白いので、冗長になるけど書いてみる。

論理を単純化して考えれば、AならばB、BならばC、CならばD…という形で、最終的にZにたどりつく。

出発点がAで結論がZ。それぞれのアルファベットの間をつなぐ「ならば」が論理にあたる。これらが飛躍することなく、AからZにたどりつければ「論理的である」と言える。

ところが、この説明の中で一つだけ「論理的ではない」箇所がある。それが、出発点となるAだ。すなわち、このAは仮説でしかありえず、この仮説を立てるのは論理ではなく情緒になる。

その情緒とは、論理以前のその人がそれまでに培ってきた経験やそれに伴って形成される価値観によるものだと、藤原さんは書いている。

「パン泥棒にどう向き合うか」という項は、この「論理には出発点が必要」という一つの例として用いられている。

引用した箇所はどちらも論理が通っている。結論が違うのは出発点が違うためであり、論理は大事だけど、情緒によって出発点を選ぶことはそれ以上に決定的なものなのだという説明だ。

で、『万引き家族』に話を戻すと、映画の後半では家族がしてきたことを「論理」で捉えようとする社会が描かれている。「犯罪は絶対悪である」を出発点にして。一方で、映画を観ている人たちは、そこに違和感を覚える。

論理立てを書くと映画のネタバレになってしまうけど、その違和感とは、劇中で家族が解体されていくまでに、その暮らしぶりをまざまざと観てきた前提があるからこそ感じるもので、それは情緒と言えるのかもしれない。

そしておそらく多くの人がこの家族に対して「ああ、可哀想」という感情を抱く。もちろんそれは、映画という作品としての恣意性が強く投影されているためでもあるのだけど。

でも現実は、映画で描かれている社会のほうだ。この家族が実は家族ではなかった。そこには……と「犯罪は絶対悪である」をある意味では絶対的な出発点にして、論理で捉えようとする様がありありと思い浮かぶ。

この映画を観た人でも、数年後に同じような家族についての報道があったとして、果たしてどのくらいの人がその内実にあったことを想像をするか、できるか、しようとするかさえ疑わしい。

こんな家族がいたとして、その善悪は別にしても、その内実にあるものが「見えるか」「見えないか」という違いで、映画というフィクションと現実とに太い境界線が引かれることになる。

藤原さんが書いたように、情緒が「それまでに培ってきた経験やそれに伴って形成される価値観によるもの」だとすれば、映画を観た人は「犯罪は絶対悪である」を論理の出発点にはしない。

2時間の視聴体験を経て、それを出発点にするにはあまりに不条理な現実ではないかという価値観を有している可能性が高いからだ。しかし、現実でもそう思えるとは限らない。

『万引き家族』で描かれているのは日本の現実の断片であることには、もはや疑いはない。

日々の報道という「情報」ではなく、映画という「表現」によって一つの現実が描かれることで、人は情感を喚起され、想像の発露になる。

人が想像することには限界があり、そもそも何かしらのきっかけがない限り、想像をすることすらない。その意味では、この映画が世界的にも評価されているのは日本社会の現実を直視するために、意義深いことだと思う。

『万引き家族』は日本にある貧困に直面する、あるいは貧困に直面しそうなギリギリの現実を「社会問題」として描いている。それは、そんな現実が「見えない」社会に対して突き付けられた「問い」であるようにも思える。

そこに、論理よりも情緒が必要であることは間違いないし、しばらくの間は映画に描かれ切れなかったこと、つまり想像することでしか見えない現実にも想像を巡らせていきたい。

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