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努力が全て(じゃない)

中高生の頃、「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。」という王貞治さんの言葉が大好きだった。このストイックさがとにかくカッコいいと思った。ももクロの5人が笑顔を絶やさずに、全力で歌って踊る姿に元気をもらった。硬式テニス部と運動会で、スポ根精神あふれる男子校生活を送った自分にとって、「努力」の二文字は絶対的な存在だった。「甘えるな、妥協するな、まだまだできるはずだ。」そう自分に鞭打って頑張ることがすべてだと思っていた。

アメリカの大学に入学して、「努力」の二文字を呪った。それぞれの授業にリーディングの課題がたくさん出て、平日も週末も夜中の1時まで図書館詰めの日々が続いた。その上エッセイやレポートも加わるといよいよキャパオーバーで、徹夜も何度もしたし、締め切りを伸ばしてもらってなんとか終わらせるような始末。それでも「自分の意思でアメリカの大学に進むって決めたんだろ。こんなところで弱音吐いてちゃだめだ。自分が甘いだけ。言い訳しないでもっと努力しないと」としがみついた。

人の2倍、3倍努力して成功を手にする話は聞く。けれど人の2倍、3倍の努力をしても「普通」に及ばない人の話は誰もしない。それが僕だった。読むのも書くのもアメリカ人の3倍の時間はかかるのに、理解度も意見のクオリティも彼らに及ばない。成績自体は平均よりは上だったと思うけど、常に底辺にいるような感覚だった。

時間が経てばいつか「普通」になれるという淡い期待を胸に、入学当初に比べれば成長しているなんて言い聞かせたけれど、2年次が終わる頃にはやる気が出なくなり、燃え尽き症候群や軽いウツのような状態になっていた。努力信仰は呪うべき相手であり、自分を追い詰める呪いそのものだった。

結局、自分の頑張り次第ではどうにもならない、環境を変えなければ、と考えて別の大学に転校することにした。色々な要素が重なっているが、今の大学では自分が努力すればある程度は結果として現れる、と感じられている。努力がすべてだと思うことも、努力しても無駄だと思うこともない。ちょうどいいバランスが取れているように思う。

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この「努力すればした分だけ返ってくる。怠けたらそれなりの代償を払わなければいけない。」というのはもっともな考え方だと思う。そもそも努力信仰は日本特有のものではない。むしろアメリカこそAmerican Dreamに代表されるように、「どんな国や階級の出身でも、努力さえすれば自分の夢を実現できる」という考えがある。もちろん現実とはかけ離れている。一握りの黒人アスリートやアーティストが活躍しているとしても、その後ろにいる大勢が全員ヒーローになれるわけではない。

アメリカに行って初めて、社会はアンフェアなものだと学んだ。白人でも英語ネイティブでもないマイノリティの僕は、自分にとって不利なレースに参加して初めて、社会の構造を意識した。そもそものスタート地点も、評価システムも違うのに、「努力」とか「実力」なんて言葉でごまかされる。白人には生まれながらのアドバンテージが与えられているのに、そのことに気づかず「黒人は怠け者だ」なんて言ったりする。

日本だってもちろんアンフェアだ。そのことを意識しなくて良かったのは、自分が無知な若者だったことに加えて、自分にとって有利に仕組まれたレースに参加していたからだと思う。ハッキリという。フェアなレースではなく、自分にとって有利なレースに参加していた。

ここからはあまり多くの人が公の場で書かないような、そして自分で認めるのも少し勇気の要るようなことを書く。サラリーマンの父と専業主婦の母、3歳上の姉と僕の4人家族。小4までは千葉・松戸市のマンション、小5からは東京・江戸川区の一軒家。小学校は公立校だったけれど、小4から塾に通い始めて中学受験。開成に合格し、中高6年間を過ごす。学校内外で「エリート」という言葉をよく耳にした。

裕福な家庭に生まれたこと、男であること、東京周辺に住んでいたこと、私立の進学校で過ごしたこと、日本人であること、健康な体を持っていること、両親共に大学を卒業していること、ストレート(異性愛者)であることなど、全ていい条件でレースに参加していた。むしろそんな条件があることすら意識していなかった。だから努力だけが唯一の変数のように感じていた。頑張れば結果につながると、無邪気に信じることができた。そして特権を失って初めて、社会の不公平さに気づいた。

特権を持っている間はそれに気づく必要もないし、自分が悪者にならないように社会を見ようとする。自分は努力したからこの学校に入れたとか、こんなに頑張っているんだから、当然の待遇だとか。激務の高給取りが「自分は恵まれた環境で生まれ育ったので、こんなに給料受け取れません」なんて言わないと思う。でもみんながそうやって自分の正当性だけを主張していたら、不公平は続くどころか、どんどん強い者に有利になっていく。

だからこそ、持っている特権(privilege)を意識することは特別な意味を持つ。わざわざ、「自分は男だ」、「裕福な家庭で育った」、「ストレートでシスジェンダーだ」と認識することは、より平等な世界へ近づく一歩となる。

この間、友達と"Non-racist is not enough. We have to be anti-racist"という話をした。自分が差別的な態度を取らないだけじゃなく、ハッキリと、人種差別はなくなるべきだ、というスタンスを取らないといけない。自分の特権を認識することは、その第一歩だ。誰もがフェアなレースに参加できる日を願って。

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