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リルケの詩「秋の日」―主よ 時間です

リルケの詩「秋の日」を訳してみた。「秋」と同じく『形象詩集』に収められた詩だ。「秋」よりは難しいが、まだリルケの詩の中ではわかりやすい方だ。

「秋」の詩もいいが、僕はこちらのほうが好きだ。

リルケのドイツ語原詩

   Herbsttag

                     Rainer Maria Rilke

Herr: es ist Zeit. Der Sommer war sehr groß.
Leg deinen Schatten auf die Sonnenuhren,
und auf den Fluren laß die Winde los.

Befiel den letzten Früchten voll zu sein;
gieb ihnen noch zwei südlichere Tage,
dränge sie zur Vollendung hin und jage
die letzte Süße in den schweren Wein.

Wer jetzt kein Haus hat, baut sich keines mehr.
Wer jetzt allein ist, wird es lange bleiben,
wird wachen, lesen, lange Briefe schreiben
und wird in den Alleen hin und her
unruhig wandern, wenn die Blätter treiben.

ヨジロー訳

  秋の日

      ライナー・マリーア・リルケ

主よ 時間です 夏はとても偉大でした
あなたの影を日時計の上にお置きください
そして野に風をお放ちください

最後の果実に満ちるようにお命じください
もう二日南国の日ざしをお与えになり
完成へと促してください
そして最後の甘みをたわわなブドウの房にお入れください

いま家を持たぬ者は もう家を建てることはありません
いま一人でいる者は ずっと一人のままでしょう
夜も眠らず 本を読み 長い手紙を書くでしょう
そして並木道をあちこちと 落ちつきなく
さまよい歩くでしょう 落ち葉が舞い散るときに

解釈

▲第1連
「主よ 時間です」と神に向かって呼びかけている。何の時間なのか。それは最後まで読めばわかってくる。

夏から秋に向かう季節を歌っている。夏が終わってこれから秋が来る、という自然の移りゆきを単純に表現するのではなく、神に向かって、あなたは夏に「偉大な」仕事をなさった、しかし、これからは夏を秋へと進めてください、とお願いしている。

「あなたの影を日時計の上にお置きください」は、秋には影が長く伸びることを、「野に風をお放ちください」は、秋風が吹きわたることを踏まえている。

「野」は"Flur"で、「畑、耕作地」とも訳せる。ここでは広々としたブドウ畑をイメージすればよいだろう。

詩人は小高いところから、黄色に色づきつつあるブドウ畑を見渡している。

▲第2連
「最後の果実」――ブドウのこと。ヨーロッパで最後に実る果実ということだろう。神に、ブドウを甘く実らせてください、とお願いしている。

「完成へと促してください」――ブドウが熟すように願っている。同じように自分も成熟させてくださいと祈っている。

このあたりでわかってくる。第1連の「時間です」は自分も成熟していく時間だということが。

▲第3連
第1連と第2連は目の前のブドウ畑という自然を歌っていたのに、第3連は一変する。

いったい誰のことを語っているのだろうと一瞬思う。家も持たず、ずっと一人のままで、夜中に起きている。そして、落葉の中を不安のままにうろついている。わびしい生活だ。ヴェルレーヌの「落葉」の終わりを思い出す。

だが、ヴェルレーヌとはまったく違う。

「いま家を持たぬ者」「いま一人でいる者」とは詩人自身のことだ。ここで詩人は自分の未来の姿を想像している。そして自分の覚悟を語っているのだ。

「いま家を持たぬ者は もう家を建てることはありません」――家を建てるということは、どこかに定住して、その地域の中で、人々と交わって生きていくということだ。それは普通の市民になることを意味している。

詩人は、「もう家を建てることはありません」と断言している。普通の市民生活を自分は送ることはしない、という決意だ。一個所に定住せず、世界をさすらっていく、そのような人生をこれから送るのだ、と自分に強く言い聞かせている。

「いま一人でいる者は ずっと一人のままでしょう」――誰かと結婚し、子供を育てていく、そういう家庭生活を送ることはもうない、と言っている。詩はそのような人生からはずれたところからしか、つまり孤独の中からしか生まれないものだと、詩人は確信している。

「夜も眠らず 本を読み 長い手紙を書くでしょう」――孤独な詩人の生活だ。「長い手紙」を書くのは、孤独だからだ。

「並木道をあちこちと 落ちつきなく/さまよい歩くでしょう 落ち葉が舞い散るときに」――不安は詩人としての生きる以上、やむを得ないものだ。これこそが詩人の生き方だ。そういう人生を自分は送ることになるのだ、と厳しい未来を想像して、詩人は決意を新たにしている。

今こそ、詩を書くという自分の本来の仕事に向かう「時間」だと確認し、詩人としての円熟を願っている。そして、そのためならどのような孤独も不安も引き受けようとしている。この詩はそのような強い覚悟を示す詩だ。

この詩を書いた頃のリルケ

1901年4月、リルケは、北ドイツの芸術家村ヴォルプスヴェーデで知り合った彫刻家のクララ・ヴェストホフと結婚し、12月には娘も生まれていた。しかし、貧窮もあって、別れることになる。

1902年の8月末、リルケはロダン論を書くためにドイツを離れ、大都市パリに向かう。「秋」が9月11日に、それから10日後の21日にこの詩が書かれる。

当時のリルケは26歳――青春を終えて、人生の次の段階に向かうべき年齢だったのだ。

おわりに

初めてこの詩をドイツ語の教科書で見たとき、"Herr: es ist Zeit"がどういう意味なのか、さっぱりわからなかった。

「主よ 時間です」という訳を見て、なんだ、言われてみれば確かにそうだ、文法的には単純だったのだと納得すると同時に、この一文から詩を始めるリルケに、「すごい!」と感激した覚えがある。

詩人が自分の決意を語る詩にはいいものがある。その後のリルケの、まさに第3連のように、放浪しつつ、詩作にすべてを捧げた人生を思えば、この詩はいっそう感慨深い。

参考文献

森泉朋子『ドイツ詩を読む愉しみ』鳥影社、2010

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