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リルケの詩「豹」―まなざしは疲れ

リルケの詩「豹」を訳してみた。

『豹』はリルケ中期の傑作として評価が高い。しかし、これまでどこがすばらしいのか、なかなかわからなかった。いや、その前にそもそもどんな詩なのかも理解できなかった。

時間が経って読み返してみると、少しわかるような気がしてきた。それで訳してみることにした。

リルケのドイツ語原詩

   Der Panther

                       Im Jardin des Plantes, Paris

Sein Blick ist vom Vorübergehn der Stäbe
so müd geworden, daß er nichts mehr hält.
Ihm ist, als ob es tausend Stäbe gäbe
und hinter tausend Stäben keine Welt.

Der weiche Gang geschmeidig starker Schritte,
der sich im allerkleinsten Kreise dreht,
ist wie ein Tanz von Kraft um eine Mitte,
in der betäubt ein großer Wille steht.

Nur manchmal schiebt der Vorhang der Pupille
sich lautlos auf — Dann geht ein Bild hinein,
geht durch der Glieder angespannte Stille —
und hört im Herzen auf zu sein.

ヨジロー訳

  豹

      パリの植物園にて

通りすぎる鉄棒にまなざしは疲れ
目にとどまるものはもう何もない
千もの棒があるようで
千もの棒の向こうに 世界はない

小さすぎる円を描いて回る
柔らかな歩み 一歩一歩のしなやかな強さ
中心をめぐる力の舞踏のよう
だが中心では 大いなる意志が麻痺している

ただときおり 瞳のヴェールが
音もなく押し上げられる――一つの映像が入り込み
四肢を静かな緊張が駆け上がり――
そして心臓に至って 消え去る

*植物園――「パリ植物園」には動物園が付属している。

解釈

▲第1連
豹の立場からの視点となっている。詩人は豹に同化し、豹の目で世界を眺める。

檻の中に入れられた豹が絶え間なく動き続ける。豹は鉄棒を見続けているので、「まなざしは疲れ」、自分が動いているのではなく、棒が通り過ぎていくように見えている。

動き続けることで、鉄棒は千もあるように見える。見えるのは目の前の棒だけで、その向こうの世界はもう見えていない。鉄棒までが豹の世界だ。

▲第2連
檻に入った豹を外から見ている詩人の視点。

豹は、柔らかだが力強い、しなやかな歩みをしている。詩人はその動きを「力の舞踏のよう」だと感じる。

しかし、「中心では 大いなる意志が麻痺している」と言われる。どういうことか。

豹を動かしている中心となる「意志」は、本来は豹を躍動させる。大自然の中ではそうだ。だが、動きが制限された檻の中ではその「意志」も力の振るいようがない。だから「麻痺」してしまう。「大いなる意志」はただ惰性で豹を円運動させるにすぎなくなっている。

▲第3連
詩人の外からの視点。それでも豹のまぶたが大きく持ち上がることがある。そして「一つの映像」が入り込む。

「一つの映像」とは何か。それはかつて疾駆していたアフリカの大草原の記憶だ。豹は「ときおり」それを見るように思う。すると体に力がみなぎってくる。

その映像は、地面を通じて足へ、そして体を駆け上がる。しかし、体の中心である「心臓」に達すると、すっと消えてしまう。

心臓で消えてしまうのは、そこに深い絶望があるからだ。もはやかつての日々は二度と戻ってくることはないという絶望が。豹が心を躍らせることはもうないのだ。

詩はこうしてまた第1連に戻る。豹はまた、檻の中で虚しい円運動を続けていくのだ。

この詩を書いた頃のリルケ

「豹」は、1907年刊行の『新詩集』に収められている。書かれたのは、1902年から1903年にかけての冬(★1)、パリでだ。

1902年の秋、リルケはロダン論を書くためにパリに出てきた。ロダンの彫刻制作を目の当たりにして、対象をじっくり見て徹底的に理解すること、そしてたゆみなく手仕事を繰り返すことの重要性を学んだ。

リルケは、ロダンが彫刻でしていることを言葉を通じて行おうとした。その成果が『新詩集』に収められた「事物詩」と呼ばれる詩だ。「事物詩」ではあるが、この「豹」のように、物だけでなく、動物も、また人間もここに含まれる。

自分の心情を表出することを優先させるのではなく、まず対象そのものになりきって、対象自体に自らを語らせるようとするのだ。

「豹」は「『新詩集』に収められた詩のうちで最も早く成立した詩」であり、リルケ自身、「ロダンによる厳しい修練の最初の成果」であると述べている(★2)。

おわりに

動物園で檻の中をぐるぐる回っている豹の姿を見ることはよくある。何でぐるぐる回り続けているんだろうか、と思うことがあっても、それで終わりだ。

リルケは、檻に入れられた豹になりきり、言葉を選び抜いて、その存在の形を浮き彫りにしている。本来「力の舞踏」を演じられるだけのエネルギーに満ちあふれたはずの存在が、檻の中で野生の感覚を麻痺させて生きている。

悲しい詩だ。

★1:富岡近雄によれば、「おそらく1902年11月5日ないし6日」。『新訳リルケ詩集』、328頁。
★2:同上。

補足:「鉄棒」について

豹の入っている檻についているのは、ドイツ語では"Stab"となっている。諸家の訳を見ると、これは「格子」と訳されたり、「鉄棒」と訳されたりしている。

"Stab"は基本的には「棒」という意味だが、複数形になれば、「格子」と訳せないこともない。独和辞典にも"die eiserne Stäbe des Käfigs"の例が載っており、「檻の鉄格子」と訳されている。ただ、和独辞典で「鉄格子」を引くと、"Gitter"(格子)が使われている。だから基本的には"Stab"は「棒」で、"Gitter"が「格子」だろう。

実際の檻はどうなっていたのだろうか。

Wikipediaの項目「パリ植物園」のフランス語版"Jardin des plantes de Paris"を見ると、次のような写真がある。1902年8月7日発行の雑誌"L'Illustration"に掲載されたもので、「20世紀初め、パリ植物園で写生する動物画家たち」という説明がある。

パリ植物園1902

1902年だから、ちょうどリルケが通った年だ。写真ではライオンと虎しか見えないが、豹もいたに違いない。檻は縦棒に横棒が一本張り渡されている。格子にしては横棒が少なすぎる気がするが、格子と言えないこともない。ただ、基本的には縦棒だ。そして、猛獣の目の高さに見えるのも主に縦棒だ。

それでここでは「鉄棒」と訳した。「通りすぎる格子」では詩のイメージに合わない気がした。

参考文献

岡田朝雄・リンケ珠子『ドイツ文学案内 増補改訂版』朝日出版社、2000富岡近雄訳・解説・注『新訳リルケ詩集』郁文堂、2003

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