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予科練生の遺族のたより

                  4期 上野六十男 遺児
                           上野 紀子
                           上野 宏子

 父が第一次ブーゲンビル島沖海戦とかに、指揮官機の操縦員として散華した時、姉は1年10カ月、私はまだ母の胎内にあった。昭和23年、母が他界した時、姉は6才、私は4才であった。だから私には母のことならいくらか記憶に残っているが、父の姿は思い出しようもなく、ただ残された写真や日記帳で面影を偲ぶだけであった。
 相ついで父母を失った私たち姉妹は、祖父母、叔父、叔母の庇護の下に互いに援け合い、より添って心の暖をとりながら、小学校、中学校・高等学校を終え、奇しくも二人とも父にゆかりの自衛隊に職を奉じることになったのである。
 昭和41年5月27日、この日が生涯忘られない日になろうとは思いもかけなかった。正直にいって、祖母がはるばる札幌からやって来て、慰霊祭に出席しようと誘われた時、私たちはあまり気が進まなかった。というのは、通りいっぺんの慰霊祭にすぎないだろうと思い込んでしまっていたからであった。ところがあの晴れわたった青空の下で、除幕された像を仰ぎ、高松宮両殿下をはじめとする来賓の方々のお言葉をじっとかみしめていくうちに、父の死の意義もはっきりとうなづかれ、また、私たちと同じ運命を負った方たちが全国にこんなにも沢山いられることを知って力を得、心から慰められた。
 さらに、予科練習生であった父の同期の方々の会合に招かれて、私たちは今まで湧いたことのない感激を味わった。初対面の同期の方たちの話しが何故こんなに私たちの心を打ったのだろう。辛抱強く生きることにならされた私たち、めったに涙など出したことのない私たちは、何度か頬をぬらした。同じ時代の喜びと苦しみを経験し、思いを一つにして国のために戦って来られた方々の言葉の一つ一つに、筆舌につくしがたいものが感じられた。同期の方々の言葉で、私たちは生まれて初めて在りし日の父をはっきりと感じとることができた。この方々と生活を共にし、手をとり合い肩を組み合い、語り合って、父は生きていたのである。そう思うと、今にもあの豪快な父が現われそうな、そんな気がしてならなかった。でも、やはり、父はいないのだ……。
 会が終わり、寮に帰ってあの盛大だった大会を思い出す度に、なつかしさと淋しさがひとしお身を包むのである。
 戦いはもうこりごりだ。しかし戦ったその頃の人たちの心を思うとすばらしいと思う。私たちもその頃の父の年令に近いが、今のその年令の人たちはただ何事も自分本位にのみ考えて行動し勝ちだのに、あの頃の若い人たちは人を信じ、国を愛し、死の最後まで疑うことがなかったのである。そして遇然に生き残った人たちも昔と少しも変わらず、人を信じ戦友を愛し、二十年以上たった今日でも昔のように意気盛んで、仲よく純粋に生き続けているのである。
 天涯の孤児のようにひとり合点して、ひそひそ生きていた私たちは、同期の方々の励ましと父の面影の再生によって、急に世の中が明るくなり、広くなったような気がして、力強い思いに満たされている。

(海原会機関誌「予科練」第1号(昭和42年4月5日)より)



予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

 「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

 創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」

昭和四十一年五月二十七日

海軍飛行予科練習生出身生存者一同

撰文    海軍教授 倉町秋次


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