国語「現代文」の解き方ならびに、「国語的読解」概念を取り巻く「文学」的諸状況について(幾つかの例題とともに)

はじめに

 国語――つまり小学校~高校で習う国語の現代文を解くとはどういうことかをまず簡単に概説する。「国語のテストは何を解かせようとしているか」を示すと共に「国語のテストは何を解かせようとしていないか」もあわせて示す。「テストが出題し答えさせようとしていること」とそれに対応するための「国語的読解」の輪郭を明らかにすることは、単純に高校レベルまでの国語の現代文の点数を上げることに寄与するだろう。必要となるスキルも具体的な例題と回答解説とあわせて明示するつもりだ。また、本noteでは国語的読解というスキルは具体的にどのような場面で取り出されるべきかについても示す。そして、研究においても日常生活においてもテキストに対し自身は今国語的読解を行っているか非国語的読解を行っているか意識することの重要性も併せて示す。ここにおいて「なぜしばしば大学において国語の読みはいったん忘れなさいと教えられるのか」を解説することになる。つまり、単に点数を上げたいならばこのnoteは有用であろうし、国語的読解というテキストに向き合う一つの姿勢を現在オンにしているかオフにしているかを常時認識することはベネフィットがあることを示す。


1.要請される最低限度のスキル

1-1.日本語の辞書的な理解

 当たり前の話だが、日本語が読めなければ国語は解けない。なんといっても"国"語であるからだ。例題を挙げよう。

問1-1-1.以下の文から急報を受けて退社するまでの「彼」の心情の説明として最も適切と考えられるものを次の選択肢①~③より選択せよ

【文】
病院から突然の急報を受けた彼はスマートフォンを胸ポケットにしまうとやおら立ち上がった。動揺している上司に彼は母が危篤であるため早退して構わないか訊ねた。上司は焦燥の中彼とチームが抱えている喫緊のタスクについて一瞬考えたが、首を大きく左右し「早く帰ってやんなさい!」と彼を促した。彼は机上の機密書類を金庫に入れて施錠し、迅速に指差し確認をしてパソコンが起動したままであることに気づくと即座にシャットダウンを行い、電源が落ちたことを確認した瞬間、駆けるように退社し、母のもとへ急行した。

【選択肢】
①「彼」は突然の急報に動揺しており、母のもとへ駆けつけることで頭がいっぱいだった
②「彼」は突然の急報を受けて病床の母のもとへ一刻も早く辿り着けるよう迅速に思考・行動した
③「彼」は突然の急報に対しても職務について努めて冷静に対処しようと思った

 おそらく誰もが①については瞬時に消せただろう。動揺しているのは上司だと書かれている。「彼」は機密書類やパソコンのシャットダウンなどをしっかり行ってから退社しており、視野狭窄には陥っていない。明らかに①は排除してよい。

 ②と③はどうだろうか。迷うだろうか。正解は③ではある。

 まず消極的な理由だ。問1-1-1.が問うているのは彼の「心情」である。だが②が説明しているのは「思考ならびに行動」だ。思考と心情は関連することはあるにせよ思考とは心情に完全に包含される概念ではないし、行動は完全に心情とは別概念だ。この時点で既に怪しい。

 だが②はもっと早い段階で、①より早く一瞬で消せる。「彼」はやおら席を立っている。やおらとは「落ち着いてゆっくりと動作を始める様子」を指す。「おもむろに」とも換言できる。つまり、日本語が読めていれば文の一文目の段階で②は消える。なぜならば彼は「落ち着いてゆっくりと」席を立ち上がったのであり、このとき「迅速に行動」していないからだ。指差し確認が迅速だったことから引っかかってはいけない。選択肢は「最も適切」と考えられるものを選ばなければならない。一部行動は迅速だったが②に矛盾する迅速とは真逆の行動が文中には存在している。

 ③はこのやおらと整合的である。やおらとは「落ち着いてゆっくりと」だ。彼は急報を受けた瞬間まず「落ち着いて」ゆっくり立ち上がり、それから上司に報告を行い許可を求め、所定の退勤のための処理を済ませて退社したのである。「彼が職務についてどう思っていたか」の明言は文中に一切存在しない。ここには様々な解釈があり得る。だが、③には明らかに文中と矛盾していると明言できる箇所がない。①は論外、②は矛盾がある、ならば「最も適切」なのは「妥当な解釈」が成立する③なのである。

 これが要求される最低限度のスキル、日本語を辞書的にきちんきちんと把握する技術である。普段日常使っている言語感覚をパージし、フィーリングではなく機械的に辞書的に把握し矛盾や破綻を排除する。言葉の意味をしっかり掴めという国語教師の指導の意味の半分はこれである。

1-2.論理構造を掴むスキル

 日本語の単語や熟語、故事成語の意味をきちんと掴むことと同じく論理を追うことも大切である。残念ながらここで言う論理を追うとはロジカルシンキングのことではない。論理学的な意味での論理構造を把握せよという主張である。だが、安心してほしい。国語のレベルで求められるのは現代の数理論理学、記号論理学のレベルではない。古代ギリシャの時代に整理されていたレベルのうち更にごくごく単純な論理の追い方しか国語では求められない。

 ここでも例題を挙げよう。

問1-2-1
ある論証の前提が全て真であれば、結論も必ず真となる論証は妥当である。このとき、妥当な論証は【論証1】と【論証2】のいずれか答えよ。

【論証1】
前提1:魚類は脊椎動物である
前提2:クジラは魚類である
結論:クジラは脊椎動物である

【論証2】
前提1:ソクラテスは死んだ
前提2:プラトンは死んだ
結論:全ての古代ギリシャの哲学者は死んだ

 正解は【論証1】である。何をバカな! と思った人は生物学ではなく最も初歩的な論理すら理解できていない。当たり前の話だがクジラは哺乳類である。つまり【論証1】の前提2は偽だ。結論である「クジラは脊椎動物である」は真だが、それは偶然魚類も哺乳類も脊椎動物であったからに過ぎない。このことをもっとわかりやすく表現してみよう。

【論証1a】
前提1:魚類は無脊椎動物である
前提2:クジラは魚類である
結論:クジラは無脊椎動物である

 【論証1a】は前提1も前提2も結論も偽である。かつ妥当である。問題文を思い出してほしい。「ある論証の前提が全て真であれば、結論も必ず真となる論証」が妥当なのである。つまり、前提が真であろうが偽であろうが論証の妥当性には全く関係ない。【論証1】も【論証1a】も妥当である。納得できない人は記号になおして確認してみればよい。記号に任意の語を入れて諸前提を真とし、かつ結論が偽になる論証を導けるか確認してみよう。それはできないとわかるはずだ。

【論証1,1aの記号化】
前提1::MならばPである
前提2:SならばMである
結論:SならばPである

 前提1と2を真にしてしまうと結論はどうあがいても真であることを避けられない、偽になれない。これが論証が妥当だということの意味だ。

 逆に【論証2】は妥当ではない。【論証2】の前提は全て正しく、結論も正しいのになぜ! と言う人がいるかもしれない。残念ながら【論証2】は論理学が言うところの「妥当」の条件を満たしていない。もちろん古代ギリシャの哲学者ソクラテスもプラトンも、その他全ての古代ギリシャの哲学者は死没している。だが、論証は妥当ではない。それどころかこの論証には「早まった一般化」という形式的誤謬としての名がつけられている。

 前提3にアリストテレスを付け加えても前提4にエピクロスを付け加えても、ゼノンをつけくわえてもピュロンを付け加えても妥当にはならない。ではどのようにすれば妥当になるだろうか。

【前提2の妥当版】
前提1:古代ギリシャの哲学者とはソクラテスとプラトンの2人であり、その2人に限る
前提2:ソクラテスは死んだ
前提3:プラトンは死んだ
結論:全ての古代ギリシャの哲学者は死んだ

 これで論証は妥当である。

 とてもモヤモヤする人がいるはずである。「現実空間の話をしていない」という気分になるかもしれない。その感覚は正しい。論理学が扱っているのは現実空間の物事ではない。思い出して欲しい、論証の妥当性は前提の真偽に依存しない。つまり論理の妥当性判断のレベルでは現実を見ていないのだ。しかし、逆に論理の妥当性に現実は拘束される。思い出して欲しい、論証の諸前提が真である妥当な論証は、結論が偽であることができない。これが国語の武器に論理学が使える理由だ。

 具体的に問1-1-1を改造して話そう。※太字で追記を行っている。

問1-1-1a.以下の文から急報を受けて退社するまでの「彼」の心情の説明として最も適切と考えられるものを次の選択肢①~③より選択せよ

【文】病院から突然の急報を受けた彼はスマートフォンを胸ポケットにしまうとやおら(※)立ち上がった。動揺している上司に彼は母が危篤であるため早退して構わないか訊ねた。上司は焦燥の中彼とチームが抱えている喫緊のタスクについて一瞬考えたが、首を大きく左右し「早く帰ってやんなさい!」と彼を促した。彼は机上の機密書類を金庫に入れて施錠し、迅速に指差し確認をしてパソコンが起動したままであることに気づくと即座にシャットダウンを行い、電源が落ちたことを確認した瞬間、駆けるように退社し、母のもとへ急行した。

(※)やおら……落ち着いてゆっくりと動作を始める様子

【選択肢】
①「彼」は突然の急報に動揺しており、母のもとへ駆けつけることで頭がいっぱいだった
②「彼」は突然の急報を受けて病床の母のもとへ一刻も早く辿り着けるよう迅速に思考・行動した
③「彼」は突然の急報に対しても職務について努めて冷静に対処しようと思った

 かなり解きやすくなったはずだ。なぜか。論理学のおかげである。具体的には以下のように解くことになる。

前提1:彼はやおら立ち上がった
前提2:やおらとは落ち着いてゆっくりと動作を始める様子を示す
結論:彼は落ち着いてゆっくりと立ち上がった

この論証の形式は妥当でありこの論証に従う限り結論は偽であることができず、得られた結論は論理上の絶対の真理である。

①は「彼」が動揺していると述べているが少なくとも立ち上がるときの「彼」は落ち着いており、この部分に関して心情の説明は文と矛盾している。
②は「彼」が迅速に思考・行動したとあるが「彼」は少なくとも立ち上がるとき落ち着いてゆっくりと行動しており、この部分に関して行動と文に矛盾がある。
③は指摘すべき矛盾は見当たらず整合的に読むことができる

 もちろん実際の国語問題ではここまで露骨にわかりやすく結論を導出するための諸前提を教えて貰えることはない。ではどう探しにいくのか。問いから文を検索するのだ。①ならば彼の心情である「動揺」の実証か反証の素材を探す。②ならば「迅速」の実証か反証を探す。今回の場合どちらも「やおら」が使えるわけだが、実際のテストでは判断の素材は各選択肢で別の箇所から拾うことになるだろう。また、問1-1-1aのようにご丁寧にも回答に関わる箇所で語の意味が示されていることはないことが多く、問1-1-1のように辞書的な知識に照らして妥当な論証を成立させるのが基本技だ。つまり、辞書的な知識と論理操作スキル。この二刀流が国語を解くための初等スキルなわけである。多読家はこのうち語彙力が豊富な傾向にあるので(そして更に言えば「センス」がある。たとえば彼らは作者・筆者を超えて問題用紙作成者の作問意図を問題文や選択肢というごく少量の文章からメタ読みする、どう誤答させようとしているのか暴く、くらいのことは平然と理屈ではなく「センス」でやってのける)素のパワーを振り回して国語である程度の高得点を弾き出していけるわけだ。だがおそらくおよそ8割~10割の範囲で点数に振れ幅が出、たまに8割を割りフィーリングだけで9割以上を概ね安定させることは国語の各問の一問ごとの配点が高く部分点が数学のように貰えないことも手伝って難しいはずだ。そこで9割以上を安定していこうとするとよほど飛び抜けた天稟でもない限り国語読解独特のスキルが要請されるわけである。

 さて、最後に論理のモヤモヤを解消しよう。妥当性の話をしたが論理には他にもたくさんの重要な知るべきことがあり、そのひとつが健全性だ。論証が健全であるとは、妥当な論証の前提が全て真であることを意味する。つまり【論証1】――クジラを魚類だと言っているあの論証は妥当だが健全ではないのである。かなりモヤモヤがすっきりしたのではないだろうか。それでは【論証2】は前提が全て真なので妥当ではないが健全なのか――と思ったあなたは国語に向き合うにあたって特に論理の力を磨くことに力点を置いた方が良い。論証が健全であるとは論証が妥当でありかつ前提が全て真である必要がある。つまり妥当ではないが健全な論証は存在しない。これは論理上の絶対の真理だ。この世に絶対の真理はないとはよく言われるが、それは実証科学において100%と0%はあり得ないという意見であって、論理と数学の場において絶対は幾らでも見出すことができる。もちろんどのような公理を採用するかは任意だが、それは公理の上において絶対が存在することを否定できない。なお科学の非絶対性にピンとこない人は斉一性原理に触れてみると少し感覚が掴めるかもしれない。

 もし面白いと思ったならば、論理実証主義や反証主義など、科学哲学の流れを追ってみるのも楽しいだろう。いきなりエアやらカルナップやらポパー、ラカトシュ、クーンなどと格闘を始めると苦しむであろうから、ラッセルの哲学入門あたりからはじめてみるのがよいだろう。原文はインターネット上に公開されているが、苦痛であれば邦訳で触れても問題はない。

 もっとも、科哲を掴んだところで国語の点は劇的に伸びないはずだ。興味があるが余裕はないならそういう本があるとだけおさえておき、国語力を鍛えて大学に入ってから読むとよいだろう。一回生~二回生頃、一般教養をおさえているときに科哲をある程度踏まえていると専攻に関わらずおいしい場面はあるはずだ。

2.「国語」的に読むということについて

2-1.概略

 辞書的な知識と論理学。初等のスキルとして二刀を示したが、「国語」的に読むためには別の力も要る。この大項目2ではもう少しテクニカルな対処法を扱う。この2まで洗練しておけば少なくとも共通テストレベルの現代文で9割~をかなりの高率で狙っていけるようになる。一問の比重が大きいので、ほぼミスは生じなくなると言えるだろう。特に評論文では満点をほぼ確実にとっていけるようになるはずだ。この国語的読解は特に文学理論を用いる一部潮流から蛇蝎のように嫌われ「いったん忘れなさい」とまで言われることすらあるのだが、この力がどういったもので、なぜそれを特に国語力が高いだろう文学徒に関し「いったん忘れなさい」などと指導されることがあるのか、身に付けた国語的読解を実用としてどのように扱うのが相当なのかについては次の大項目3で敷衍していく。

2-2.「国語」的に読むとは

 国語的読解のためには、しばしば言葉についての辞書的な知識を脇に置かねばならないことがある。筆者・作者が特有の文脈を乗せて言葉を使った際にそれは顕著にあらわれる。「傍線部の解釈として最も適切なものを選べ」などといった問題としてそれは頻出することになる。

問2-2-1 以下の文を読み、筆者による太字部分「理不尽」の解釈として最も適切なものを選べ

【文】
 私は彼を哲学的ゾンビのようだと思った。私たちはリンゴを見たときにありありとした「赤い感じ」を感知する。人は赤色を脳で処理するという物理的な装置であるだけでなく、この鮮やかな感触を同時に感知しているのだ。色、音、匂い、味、熱さ、冷たさ……そういったものの「感覚」を。彼は確かに笑ったり泣いたり、私たちと同じように振る舞っているのに、その「感覚」が抜け落ちているように見えてならなかった。私たちの物理的側面を一切損なうことなくその「感覚」だけを排除したもの、それが哲学的ゾンビだ。どれだけ行動を見ても、解剖して脳を調べてみても、物理的には私たちと同じなのだからそのゾンビと私たちの区別は決してつかない。だが、私は彼におぞましさと恐怖を覚え、理不尽にも彼を哲学的ゾンビのようだと思うのだ。

【選択肢】
①:彼は私にとってヒトとは違う物理的構造を持つ理外の存在であるため理不尽だということ
②:ヒトから「感覚」を奪い去ることはおぞましく彼は私にとってヒトの通常の枠組みから外れているように感じられるということ
③:彼を「感覚」を持たない者だと思うことは理に適っていないということ
④:彼を哲学的ゾンビのように思うことは差別的なひとでなし扱いだということ

 正答は③である。この問題は実はかなりトリッキーだ。初等編で述べたものと異なり本noteの流れも含め意地が悪い問題だと言っても良い。まずは③以外が誤答である理由を解説していこう。

 ①は誤答である。そもそもこれを選ぶ人はおそらくいないはずだ。文中に哲学的ゾンビの特徴として「物理的側面を一切損なうことなく」や「物理的には~区別は決してつかない」と明示されている。「私」は「彼」を哲学的ゾンビのようだと思っているのだから、物的構造が異なるとは思っていない。よって誤答である。

 ②は誤答である。もしかしたら②を選ぶ人は少数あるかもしれない。文中に「私」のそのような思いが滲み出ているフィーリングがあるからだ。だが、国語的読解にフィーリングを用いては絶対にならない。問われているのは「哲学的ゾンビ一般に関する私のフィーリング」ではない。問いは太字の「理不尽」が何を指しているのかということである。重要なのは「理不尽」の後に続く「にも」である。これは「だが」と換言できる。末文が言っているのは「私は理不尽だが彼を哲学的ゾンビだと思ってしまう」ということだ。つまり、「私」は「彼」を哲学的ゾンビのように扱うことを理不尽だと言っており、そのことを正当化していないのだ。回答はこの部分を説明せねばならない。だが②は文全体に滲み出る「私」の気分を説明してしまっている。「ここで言われている理不尽さとは何なのか」を全く語っていないのだ。ミスリードを誘う点は「私」は哲学的ゾンビという存在そのものをおぞましい理外の存在のようにみなしているようなフィーリングが全体に漂っていることだ。だが、哲学的ゾンビに関する「私」のフィーリングかもしれない「理外」と問題が指す「理不尽」の対象は違う。とにかくフィーリングは殺すことだ。機械になったつもりで解けば②は簡単に潰せる。

 ④は誤答である。これが一番難しい。なぜなら④は本文と矛盾しないからだ。言い換えると④は本文と整合的に解釈することができる。私が理不尽を指して④と思っている可能性はあるのである。④が誤答であるためには③を参照せねばならない。

 ③は正答である。「感覚」を持たない者とは文が指す所の哲学的ゾンビであり、「私」が「彼」をそう思うところのものである。「理に適っていないということ」とは実は「理不尽」の辞書的な意味である。そして、もちろん本文と整合的である。

 ③と④は実は包含関係にある。さあ論理の話だ。③の「理に適っていない」の中に④の「差別的取扱」は包含されている。「差別的取扱だよね」を「理に適わない取扱だよね」と言うことはできる。だが逆に「理に適わない取扱だよね」を「差別的取扱だよね」と言えるかどうかはわからない。

 つまり、④は正しい可能性がある。30%か60%か80%かそれはわからない。だがとにかく0ではない何らかの可能性を持っている読みだ。

 だが③は違う。③は100%正しい。「感覚」を持たない者は哲学的ゾンビと同値の概念であり、「理不尽」は「理に適っていないということ」と同値の概念である。つまり③は前者については文中の説明でイコールのものを言い換えただけであり、後者については辞書的な意味でイコールに言い換えただけなのだ。ゆえに100%、絶対に間違いようがない読解だ。

 問題文が求めているのは「最も適切」な選択肢だ。④の可能性もあるじゃないかでは③に勝てないのだ。③は100%正しいので100%未満の蓋然的な可能な解釈の一例に過ぎない④は「最も適切」に照らして棄却されなければならない。ちなみにだが、③は100%適切な換言だということから③はトートロジーだと言うこともできる。「犬は犬だよ」や「1=1」と言っているようなものだということである。トートロジーとはこういうものなので、恒真と呼ばれながら、同時に最も単純なトートロジーでは有意味な知識は一切増えないなどとも言われる。つまり③は100%正しいが何も言っていないようなものである。この問いでは文中の何がイコールで結ばれるか、理不尽の辞書的な意味は何か、というA=Bという最も単純な論理と日本語の辞書的知識の有無が問われているのである。

 「理不尽」という言葉にはなにか非道なフィーリングがある。特に対人関係を語る文で「理不尽」が現れたならそのフィーリングに飛びつきたくなる。だが文中に明確な根拠がなければ「理不尽」にそのような色づけをしてはならない。そのような色づけで語られている可能性はあるが、それは可能性に過ぎない。つまり、他の選択肢が全て矛盾、0%であったときにはじめて可能であるに過ぎない選択肢は採択を許される。「理不尽」とは本来文字通り「理を尽くさず」でしかないのである。

 なお、本noteには関係ないがこの問題における「私」と私は哲学的ゾンビに纏わる問題に関する主義が違う。私は分析哲学における心の哲学上の心身問題、いわゆるクオリアを巡る問いについてそのような立場に立っていないということは念のため注記するものとする。興味があれば以下を参照されたい。

 以上のように、国語の問題は文中の言葉や辞書的な意味を論理で繋げていくことで「正答」に行き着けるように作問されている。過去問を多々解いてる人はたまに悪問に出会うかもしれない、「正答」を絞れない問題というものがまれに存在するのだ。論理を使うなどとかっこいいことを言っても実際用いているのは自然言語である。形式的に記号論理を操作しているわけではない。どうしても不確かなふわふわした部分がある。

 だからこそ、国語の作問は厳密に作られる。つまり、問1-1-1のように正答以外の選択肢の可能性が0であったり、問2-2-1のように正答の選択肢が100%完全に正しかったりという操作をする。87%と72%で最も適切なものはどちらか、などと問わせる問題はあってはならないのである。そのような定量的な判定をしなければならない問題は悉く悪問である。もし出会った場合、それはあなたが悪いのではなく問題が悪い。そのような問題は国語の作問上存在してはならない。

 そのような約束と信頼のもと問題に向かい、一義的な正解へと辿り着く。それが国語的読解であり、その力が国語力なわけである。

3.大学以後の国語的読解力について

3-1.なぜ国語的読解が一部の文学者に嫌われるのか

 以上で概観したように、国語的読解力とはテキスト内部と辞書と論理を支えに一義的な正解に辿り着く力である。これがなぜ一部の文学者に嫌われるのかについては、彼らのくむ理論を知らねばならない。ここで主に念頭に置かれているのは構造主義やポスト構造主義、大陸哲学、フランス現代思想の流れをくむ文学理論を用いる人たちである。

 まず、「文学」の話として一義的な正解にアプローチしようという試みへの激しい抵抗の流れを知らねばならない。

 特に古典においては当時の言葉の用例を集めて当時における一般の意味を理解していき、さらに作者独自の用法を集積して作品の読みを確定していこうという研究法が今も生きている。日本で言うならば、崩し字で書かれた古典を翻字本文にしてデータ化することはこういった研究にとても有効だ。

 「今の価値観で読むなよ」とは、文学に限らず古いサブカルチャーを読む人に対してたまに投げかけられる忠告であろう。

 しかしながら、真っ向からこれに対立する者が現れたのである。有名なロラン・バルトの「ラシーヌ論」だ。

 彼は当時の価値観ではなく、ロラン・バルトが活動しているまさにその時期の価値観でどう読めるかを論じた。「当時の価値観」を尊重する派閥からは勿論猛烈な批判があり、極めて激しい論争が巻き起こった。

 その論争の中で強烈に宣言されたのが「作者の死」である。以下に邦訳論文が収載されている。

 こうした運動の中で立ち上がった文学理論が「テクスト論」だ。国語の話題でよくストローマンにされる「作者の意図」など死ねという読み方である。文章は作者の意図などに支配されておらず、いったん提出されてしまえば多様な読みを許される「テクスト」となる。

 この理論はたとえば近年有名なソーシャルゲーム「ブルーアーカイブ」のメインシナリオライターであるisakusanが強いコミットメントを持つ立場であり、インタビューで常々作者からの回答はしない、一つの読みではなく多義的な論争がなされるべきだと繰り返しており、アカデミズムの中だけでなく身近なところにも「テクスト論」は棲んでいるかもしれないわけだ。

 「国語の問題を筆者が誤答する話」はしばしば面白おかしく、時に真剣に語られるわけだが、国語的読解もまたテキストと作者を切断しているわけである。思い出して欲しい、現代文における国語的読解に使うのは内部テキストと辞書的知識と論理だ。作者は不要なのである。ただし、国語的読解はテクストという広がりに対して部分的な一義的固定を与える。最も強い主張としてはそのようなアンカーの打ち込みを許さないとする学派があり、国語的読解によるアンカーの打ち込みは妥当な読みだと認める穏健な立場であっても「国語的読解によって作品全体の読みにも一つの正解があるのだ」と拡大解釈されると大学でテクスト論を教え込むのに苦労するのでいったん忘れなさいとする、というものがある。国語的読解によるアンカーの打ち込みを嫌う「最も強い主張」というとラディカルに見えるかもしれないが、必ずしもそうではない。彼らの代表的な立場は「作者」でも「テクスト」でもなく「読者の受容」を焦点化するというものだ。つまり、このような学派にとっては国語的読解によれば正解は一義だが(つまり悪問にはなっていないが)正答率が著しく低い問題は、まさにそここそがどのように読者に受容されているのか興味深い研究題材の一つなのである。読者が持つ知識であったり、あるいは欠いている知識であったり、あるいは期待や偏見、それらによるテクストの受容、そういったものに研究の価値があるとする立場からすれば「悪問ではない、かつ正答率が著しく低い」箇所の読みは興味深いのであり、国語的読解という特権的立場からそれを排除するのではなく中立的に研究対象として取り扱おうとするわけである。これが「文学側」の話だ。

 実のところこの文学理論の流れは大陸哲学という哲学の大流波の流れもくんでおり、先に挙げたロラン・バルトも「テクスト論」という文学理論のみに照らすのではなく構造主義という哲学の潮流の中にいる彼、という見方も覚えておく必要がある。

 構造主義、ポスト構造主義、フランス現代思想――このような「(大陸)哲学」の側から見るとまた違った話になるのかというと、当然なるのである。国語的読解力を唯一の読み方として学んで来た学徒たちはこの立場をくむ文学理論からの苛烈な洗礼を受けることになる。

 この方面で照らすと国語的読解教育の「よくない」点はふたつある。ひとつはその読み方しか教わらず、またこの読み方が歴史的文脈などから切断されて読み方だけ教えられていることである。ふたつは「テーマ読解」である。評論文の最後などでよく「この評論の趣旨」を問われることがあるはずだ。当然配点は高く外すと痛い絶対に点を取っておきたいところである。そしてこの2点は同じ理由で嫌われている。

 この哲学的潮流による「読み」は大雑把に言うと「基礎付け主義」と「基礎の反省」からなる。具体的な話をしよう。ウラジミール・プロップという学者は昔話の形態を徹底的に分析解体して、任意の昔話を取り出して「この昔話aはこれらの要素から構成される」と説明できるような分類を作成しようとした。

 精読する必要はないが、以下のWikipediaの当人のページを10秒くらいで上からざっと眺めてみてほしい。やろうとしたことの気分が掴めるはずだ。

 これが先駆構造主義的な仕事である。作者でも作品でもなく、その基礎にある構造を見ようとしたわけだ。

 さらにこの「構造」は安定したものではない、「構造それ自体」も流動的なものとして反省されなければならないとして構造主義は反省的にポスト構造主義へと進むことになる。

 こうなると、安定した基盤がなく何もかもが不安になりはしないかという懸念を抱く人がいるだろう。そのとおり、「プラトン以来のドグマ、確固たるものを前提としそれを発見できるなどというのは神話だ」と強く主張し、そのような静的な自惚れを揺さぶることが一つの哲学の仕事となり得ると主張したジャック・デリダがいる。

 彼の仕事は数多いが、その「安定のしなさ」を直覚的に把握するには彼の造語である「差延」を知るのがいいだろう。

 一読して意味がわからなかったはずだ。「差延」とはそもそも「そういう概念」として作られている。つまり、「差延」という語に確定的・固定的な辞書的意味づけを行うことはできない。「当面どういった意味であるか」と言うことすらできない。

 デリダの思想に強く関連する人々をデリディアンと呼ぶが、デリディアン各々の著述で「差延」の使われる意味はもちろん違う。これは分析哲学における「直観」が研究者によって使われる意味が違う、などということとは全く別のレベルの事例だ。分析哲学における「直観」は研究者によって使われる意味は違っても明晰に定義しうるか、あるいは明晰に定義できないのであればそのこと自体が批判対象となる。デリディアンによる「差延」の用い方は、統一感がないこと、そもそも当人による使い方すら一義的に確定したものと捉えることができないものだ。このことから、デリダとそれに連なるものをオブスキュランティズム、つまりは蒙昧主義だと痛烈に非難する哲学・科学上の立場も少なくない。たとえば「徹底的な論述と明晰さの追究」を性質としてあげられがちな分析哲学徒の一派がそうだ。ケンブリッジ大学のデリダへの名誉博士号授与に対してクワインが反対署名を行っていることは有名だ。

"In the eyes of philosophers, and certainly among those working in leading departments of philosophy throughout the world, M. Derrida's work does not meet accepted standards of clarity and rigour."

"Many French philosophers see in M. Derrida only cause for silent embarrassment, his antics having contributed significantly to the widespread impression that contemporary French philosophy is little more than an object of ridicule."

 痛烈である。以下で全文を確認できる。

 デリダ以前にもそのような「意味の掴みがたさ」とその非難はあった。というよりも一般に知られる「哲学」とは「そういうもの」だろう。晦渋な言葉で何やら深そうなことを言っているのが哲学だと思っている人は多いはずだ。たとえばハイデガーの「存在と時間」における「無が無化する」などの言明をカルナップは論文「言語の論理的分析による形而上学の克服」で痛罵している。

 他にもエアなどで知られるこの先駆分析哲学的立場、論理実証主義は「死んでいる」と表現してよいほどだが(たとえば彼らが始末しようとした形而上学は分析哲学上生きているし、その一部である存在論は情報科学と学際関係にある)、いずれにせよかなり強い火花がかつては散っていたのだ(今は協調しているというわけではない。むしろ熱い時代を経て今は冷淡な関係だとさえいえるかもしれない)。

 脱線が過ぎた。いずれにせよこのデリダらの影響は凄まじく、文学の場にも影響を与えている。セジウィックの「男同士の絆」で普及した概念である「ホモソーシャル」などは好例だ。

 特に[ 英米の、と付すかどうか悩むところだ。おそらく付さないべきだと言われるだろう ]体育会系などで顕著に見られる緊密な男同士の絆にはミソジニー(女性蔑視)やホモフォビア(同性愛嫌悪)が伴い、つまりは男同士の絆には強制的(強迫的とすら言えるかもしれない)に異性愛とその対象としての女性が要求されるのだ――という語りについてはもちろん「ジェンダー・トラブル」であまりに有名なジュディス・バトラーを忘れるわけにはいかないが、このホモソーシャルの概念単体をとっても、ジュディス・バトラーというジェンダー・クィアの潮流の中にいる大人物をとってもデリダという人物(そして彼のたとえば「脱構築」という二項対立へのもちろん非ヘーゲル的取り組み)の影響が見てとれるのであり、大陸哲学とある種の文学理論は切っても切れない関係にある。

 他にもサイードに代表されるような「普遍の価値」の普遍性を(特にヨーロッパ的な)植民地主義や帝国主義の文化として相対化し、静的なカテゴリーとしての基盤を揺るがそうとするポストコロニアル批評が文学研究の一手法として存在している。

 長々と具体的に語ってきたので感覚的にもう掴めてきたのではないだろうか、彼らの「文脈」から切り離された静的な「国語的読解」への厭悪と、テクストの趣旨までを読んでそれでおしまいとし、テクストの背後にある構造の静性に疑いを投げかけるどころか構造を見すらしない国語の設問で育ってきた学生たちに「まずはいったん捨てなさい」とする態度の意味が。これら大陸的潮流にあっては「国語的読解」そのものがその静性を常に脅かされているべきであるし(そして彼らに言わせれば、本noteで国語の設問は一義的に解けるようになっていると書いてきたこととは真逆のことになるが実際に「国語的読解」とはそのような静的なものではないとするだろう。そもそも国語の設問は一義的に解けるようになっている、という見方にイデオロギー、ドグマを見て検討してみようという意欲に駆られるはずだ)、本を読んでおしまいではなくそれを成り立たせるものでありながら常に揺らぎ脅かされている構造をこそ捉えなければならない。

 ――とは言っても徒手空拳でいきなりそういった怒濤のような潮流に飛び込むのはあまりにも無謀、自殺行為であるから「当面の型」として「国語的読解」を身に付けるのはやむなし、といったところだろう。その「当面の型」が「普通の(こんなことを言っては彼らが嬉々として普通性を揺らがそうと飛びかかってくるだろう)読み方」と解されかねないことに、彼らは勿論警鐘を鳴らすのであるが。

3-2.「国語的読解」をどう扱うべきか

 現代文を9割取れるようになって大学に入ったら少しずつ知識を身に付けながら捨てる。「国語的読解」はそのような補助輪である――という立場に私は立たない。おそらく読者は理解しているものと思うが筆者は大陸哲学の潮流ではなく分析哲学の潮流にいる人間だ。一部の文学徒が覚える「国語的読解」への危惧や厭悪はよく理解できるが、補助輪にしたあと捨てるべきではないと考えている。つまり、「国語的読解」が有用な場面があり得ると考える。

 具体的に話そう。「パスカルの賭け」という有名な問題が存在する。哲学者パスカルがそのおそらく最も有名な書籍であろう「パンセ」で語ったものだ。「パンセ」を読んだことはなくとも考える葦のくだりくらいは聞いたことがあるはずだ。

 パスカルの賭けは主に人生哲学と神の信仰に賭けるかどうかの二点で語ることができるが、後者を要約すれば以下になる。

「神が存在することに賭けて信仰することで死後神が存在しなかったとしても貴方が失うものは何もない。しかも、神が存在したならば無限のものに賭けたことになる。神が存在する確率がどれだけ低かろうとも、存在した場合得られるものは無限であるから信仰する方に賭けるべきである」

 これがパスカルの賭けにおける死後の報いについてのプラグマティックな主張だ。「上のテキスト」(パスカルの「パンセ」全体ではなく「上のテキスト」についてだ)について「国語的読解」ができると何が嬉しいか。「国語的読解」は書かれていることを真正面から精密に読み取る能力だ。それ以外のことはしない。何の背後も探らない。辞書を片手に目の前のテキストを見て論理で追うだけだ。

 これが適切にできるのとできないのとではパスカルの賭けの読みの精密性が大きく異なる。パスカルの賭けは「信じないこととその結果」や「地獄」については全く言及していないのである。つまり、上のテキストを精密に読めていれば以下のように理解することができる。

①:神を信じ神が存在した場合に得られる効用:無限
②:神を信じ神が存在しなかった場合に失う効用:0
③:神を信じず神が存在した場合に得られる/または失う効用:不明
④:神を信じず神が存在しない場合に得られる/または失う効用:不明

 「国語的読解」で出来るのは辞書的な把握と論理を使って本文を読むことだけだ。

 ①は書いてある。無限の効用が得られる。
 ②も書いてある。失うものはなにもない。
 ③は書いていない。よってわからない。聖書やあるいはダンテの「神曲」を思い出し、地獄や詩人ヴェルギリウスが置かれた辺獄を想定することはできない。何も書いていないからだ。
 ④も書いていない。死んだ後神が存在しないから0ではないかと思うかもしれないが、書いていないのだ。神を信じ神が存在しなかった場合失うものは何もないとは書いてある。だがそのことから論理操作のみをもって神を信じず神が存在しない場合に得られる、または失う効用について導出することはできない。神を信じず神が存在しないにもかかわらず無限の効用を獲得することは上記の記載と論理的には無矛盾に可能であるし、逆に神がいないにも関わらず地獄に堕ちて無限の苦しみを受ける状況も論理的には無矛盾に可能である。「神が存在しない場合あなたが死後陥る状況は無である」と前提すれば④は0になるがそんなことは上記テキストのどこにも書いていない。

 「国語的読解」とはこのように行われるものである。上記のとおりパスカルの賭けとは死後の効用に関わる意志決定についての賭けだ。正確に読まなければ賛同するにせよ反論するにせよ道を踏み外すおそれがある。つまり、パスカルの賭けが「言っていない」ことに食ってかかったり逆に期待したりする可能性があるわけである。

 こういった「一度とにかくテキストを額面通り正確に読む」力は補助輪として投げ捨てるにはあまりにも惜しい。これの利点は「テキストに書いてあることを額面通り読んだ場合の情報が明白にわかる」だけではない。逆の利益もある。「テキストからだけでは何言ってるか全然わかんないですね」と堂々と断言することも場合によってはできるのである。

 それの何がそんなにおいしいのかと思うかも知れないが、大学で研究を行っていれば読書会と称して難解だが重要な大著を複数人で読み解く機会がある。このとき、テキストを精読して「わからないですね」と断言することは大いに利益がある。わからない箇所が外部テキストや他の研究者の文脈から理解できることが示される可能性があることは勿論、議論を尽くした結果「どう読んでもここは全くわからん」としてマーカーを引くことができるのである。その場合、このマーカーを引いた箇所が論理的に後の記載と連関する場合、その後の記載も場合によっては「わからん」とサクサク線を引いていけるわけだ。大著にはわけのわからない部分が特に人文系はしばしばあるので、わからないことに無駄な時間をかけることを削減しながら、「ここはわからない」としてマーカーが引かれたことで後々まで「やっぱりここわかるんじゃなかろうか」とすぐに再考に取りかかれるわけである。私が読書会で読んだ初めてのデリダ、「声と現象」はフッサールの「イデーン」等事前情報を把握し、副読解説本も駆使したにもかかわらず今なおマーカーだらけである。ちなみに「声と現象」はデリダの中ではまだ読みやすい方だ。

 「パスカルの賭け」に反駁することは容易だ。たとえば「神を信じ神が存在した場合、得られる効用は無限だという主張には根拠がない。有限かもしれないし、0かもしれないし、有限のマイナスかもしれないし、得られるのは無限の苦痛かもしれない」と簡単に言ってしまえる。

 だが、これは「パスカルの賭け」への反駁であって「パスカルへの反駁」ではないという擁護がある。「パンセ」が対象にしている読者は「キリスト教的な神が存在するか、またはそういったものが何も存在しないか」という二択でものを考えている特殊な読者であって、上のような人はそもそも想定読者ではないというものだ。上を読めばわかるとおり徹底的に精密に記載しようとすると明晰さの代償にとっつきやすさが減る。当時の市井の人たちに話すにはこれで十分じゃないか、というわけである。古い漫画を読むときにたまに言われる「当時の時代性とかを考えてね」という擁護である。

 これをロラン・バルトのテクスト論に照らせば一つの読みは先述のとおり「そんなこと知るか、現代的感覚で読む。雑でバカげた賭けだ、網羅性がなく想定が浅すぎる」ということになるだろう。重要なことはこの読みの一例は「パスカルという人の想定は浅く、パスカルという人は雑な考えをするバカだ」という主張ではない。テクストと作者は切断されている。これは「パンセというテクストの想定が浅くバカげている」という主張なのだ。これも本noteを「国語的読解」で適切に読めていればわざわざ注釈はいらないはずである(この読みに新規性はない。アカデミズムに身を置くまでもなく誰もがすぐにそんなことには気づく)。

 もちろん、このキリスト教的な記載に「静的なドグマ」を見出して仏教などと対置させながらこの静性を崩す読みをしてもいい。まさにデリダが言うところのロゴス中心主義への揺るがし的な読みになるだろう(この読みにも新規性はない。とっくにやり尽くされている)。

 このようにして、様々な読みと併存するものとして、またその様々な読みを時にフォローするものとして「国語的読解」が役に立つことがわかるだろう。言った言わないはたとえば契約書を作る時も大切である。つまり国語力があるということは「上手いこと書いてあるように思わせてきているが実のところ口頭で話し合った大切なあの事項が契約書に明記されていないぞ」などと気づくためにも養っておいた方がいいわけである。もちろん国語力だけあればいいわけではない。国語力にそのような万能性を私は認めない。たとえば契約書についてそのような慎重な姿勢で読むためには法や前例の実務等の広範な知識が不可欠である。

 だが「なにがしかの自然言語で書かれたもの」を読むとき「国語的読解」の力は適切に使用すれば有用である。「なにがしかの自然言語で書かれたもの」を読む機会は広範にわたるため、「国語的読解」の力は万能ではないが広範に活用でき、養っておくだけの価値がある、というわけだ。

 たとえば本noteを通読した人なら下の三位一体の盾を一見してすぐに理解するだろう。「あっこれ論理通んないやつだな。論理の話してないな」と。

 念のため解説しておこう。DEUSはPATERである。DEUSはFILIUSである。DEUSはSPIRITUS SANCTUSである。この「EST」は包含関係ではない。「矢印」などが出ていないことに注目してほしい。この関係は「イコール、同値」を示している。つまりDEUSを脊椎動物とし、PATERを両生類、FILIUSを爬虫類、SPIRITUS SANCTUSを魚類とするような関係ではないということだ。にもかかわらずPATERとFILIUSとSPIRITUS SANCTUSは同値ではない。「NON EST」である。記号にしよう。

a=b
a=c
a=d
かつb≠c≠d

 これが上図の記号化だ。論理的な矛盾がすぐに了解されるだろう。頭の柔らかい人ならすぐに解決策を思いつくかもしれない。「神学的な真理」と「論理的な真理」は別に存在するのだと。素晴らしい発想だ。

 おめでとう、あなたは度重なる異端宣告を受けた立場に足を踏み入れたのである。「わけわかんねえ!」という気分と同時になんだか楽しくなってきたならあなたは神学を追う素養があるだろう。「なぜこんな論理の通らないことをしなければならなかったのか」にはきちんと理由がある。興味が湧いてきてしまったならあなたは神学沼に足を踏み入れている。

 さて、このように「国語的読解」の限定的有用性を主張したい私ではあるのだが、国語教育では「国語的読解」をどのような道具としてどのような場面で使用すべきであるかとか、「国語的読解」の他にも読み方はあり、視野狭窄に陥らないように、などといった処方はまずなされない。

 そもそも「国語」の授業で「国語的読解」を教わらない人も多いのではないだろうか。ただ評論や小説を順番に音読し、問題を解くよう指示されて釈然としないままマルバツがよくわからない根拠で返ってくる――そんな授業時間を過ごすことを余儀なくされている人も少なくないはずだ。本noteの大項目1~2はそのような人のためになればとの思いもあってのものである。

 このことにより、国語教育が悪いと断言したいわけではない。授業にかけられる時間は有限だ。「徹底的にやる」のはあまりにも難しい。そもそも国語教育のねらいは「国語的読解」力の涵養だけではない。現代文に限ってもやるべきことは多岐にわたる。どうしても「それだけをやる」わけにはいかないところがある。また、「国語的読解」はテクニカルな概念だ。数学において基礎論から始めるのではなく「1+1」から始めるように、いつ「国語的読解」概念を明晰化させて教示すべきかというのはタイミングがなかなか難しい。

 こういった都合から、「国語的読解」が徹底的に、そして注意深く教えられないことも、また大学において一部の人々が「いったん忘れなさい」と仰ることも、どちらもやむを得ない部分・言い分があると歯がゆいながら現状追認をしているのが私の今の立場だ。

 そんな中で、「もし高校2年の冬頃、教科書を離れひたすら過去問や模試と戦い続ける日々を迎えた直後の時期の私が読んだらきっと喜んだだろう」と思う記事をこうして書いた。

 今現在小~高校生である人にも、国語を教えている人にも、文学を学びまたは教えている人にも、国語からも文学からも離れてしまった人にも、「国語的読解」をとりまく難しいながら面白い状況を少しでも楽しんでもらえたらとの記事である。

 この記事が点数の向上に繋がるかどうか、「国語的読解」を取り巻く諸状況の理解に少しでも繋がる内容としてわかりやすくなっているか、大きな自信がないものの、せめて楽しく読めるものになっていればと思う次第である。

 この記事は「国語的読解」をされることを前提に書かれたものだが、その意図を離れて多様に読まれることを期待する。

 最後に多くの文学徒が大好きな本を置いて終わりとしよう。われわれはどのようにしてテクストを楽しむか。科学的姿勢ともイデオロギー的分析とも道を別ち、しかも文学の娯楽化とも袂を分かつ。テクストの快楽とは、どうしても「国語的読解」と反発してしまう面があり、長々と理路を語ってはきたものの、幾人かの文学徒が「国語的読解」を嫌うのはこのテクストの快楽を愛するがためであるところも、また少々あるのではないかと当事者の一人としては思うのである。そして、特に現代ではなく古典文学を精密に研究する文学者たちはまた、そのような酔っ払いたちにやれやれと溜息を吐いているわけである。ロラン・バルトが「ラシーヌ論」を著したあの頃から、相も変わらず。


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