【前-文学理論/文学を学ぶ前準備】ジョナサン・カラー『文学と文学理論』第9章「悪い文章と良い哲学」をひいて

はじめに

 文学理論へ入門することは難しい。非常に困難だと述べてもよい。大学によっては文学理論にほぼ触れずにコースを終えることも可能だ。たとえば筆者の通っていた大学において、日本・中国・英米・ドイツ・フランス文学のコースの学部レベルでは文学理論に関する講義はひとつしか存在しなかった。全く文学理論に触れず学部生を終える者もあれば、必要に応じ各論を拾う者もあり、やむを得ず読書会で補う者たちもあった。

 実のところ文学理論は文学研究において、特に学部レベルで必修かというとそんなことはない。上に挙げたコースを細分・具体化して述べよう。日本文学の中近世を学ぶならほかにもっと学部レベルで学ぶべきことがある。古典籍の史料(崩し字)を活字にする翻刻や、当時の辞書に触れる作業などだ。

 筆者は高校時代文学を志しており、オープンスクールで学部レベルを終えれば皆翻字本文を作れるようになると熱烈に勧誘を受けたことを覚えている。当時高校生だった私は既に翻字された古文を現代語訳することで受験と戦っていたから、それ以前の話である翻刻の話に心躍ったものだ。

 諸外国の文学を勉強するならば理論外の学部レベルの基礎知識が他にも必要になってくることは言うまでもない。英米の学部レベルならナボコフの「ロリータ」が採られることが少なくないだろう。

Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul.

 あまりに有名なこの文句をおさえるには音韻論・音声学を学ばざるを得ない。私の在した大学でこれらに関するテキストが英米で定評のあるそれの原書であったことは、言語学コースだけでなく(特に英米)文学コースにおいて有用だったことだろう。一部の日文の学徒たちが苦悶していた(ガチ勢は嬉々として挑んでいた。期末の考査の提出一番手を日文の同期に譲ってしまったときは悔しかったものだ。よくある60分以内なら提出後退室可のテストで、20分で解いたものの彼は15分で解いていたので(当然「秀」だったそうだ)負けた気分がずっと拭えない)姿は感慨深い。

 こうした状況下で文学理論に学部レベルで割くことのできる時間は限られており、通史を1コマ作るのが限界という大学も決して少なくないわけだ。

 日本近現代文学は? と思う方も少なくないかもしれない。特に近代では擬古文を含めた読解に若干の苦闘は人によってあるにせよ、他コースと比して時間に余裕があるようにみえる。しかし、この余裕は大量の同時代文献や社会・歴史の流れの理解にあてられることになる。射程とするコースに関するある程度の見取り図を持っておくと、後にどのような研究を行うにせよ必ず応用が利くからだ。対して文学理論の登用は任意である、使わずに研究することもできる。学部で時間を割きすぎるのはリスキーかもしれない。

 こうして自分の属する文学的なコースの理解を進めるなかで卒論に着手しようかとするころ、どうしても先行研究に目を遣る必要がある。その際、1コラムや読書感想文と何が違うのかわからない論文に多々あたることになり、一部の学生は厭悪を引き起こし、発狂し、文学理論に接近する。

 しかし学部レベルでは十分な学習ができないため、独習するか読書会に参加するほかない。筆者の大学の場合、耐えかねたM1の方が読書会を創設し、物好きな他コースの人間が参加することになった。

 特に独習の場合、理論の抑え方は悲惨になる。具体例を挙げるとある一作品の読解に「言語行為論」を採用し、卒論に仕上げる類だ。このときオースティンの「言語と行為」の文学理論上の副読本しかあたっていなかったため、中途発表の際教官や院生、最悪の場合出入りしていた哲学徒にボコボコにされるという類は枚挙に暇がない。

 オースティンは日常言語学派に属する。より詳細に歴史的な立ち位置を振り返るならば、少なくともホワイトヘッドとラッセルの「プリンキピア・マテマティカ」からの、つまりアリストテレスの「オルガノン」以降の「古典的な」論理学の流れや、前期ウィトゲンシュタイン――つまりおそらく岩波文庫で最も苦闘する青ラベルの哲学書の一つであろう「論理哲学論考」による論理実証主義の流れ、この「形式的」な在り方からの反省・カウンター的な流れから「日常」の言語実践に立ち戻ろうとする潮流を把握していなければならない。この流れには後期ウィトゲンシュタインが乗っていることは言うまでもない。なお、自然科学徒は「プリンキピア・マテマティカ」と聞いておそらく同名のタイトル、あるいは「自然哲学の数学的諸原理」、つまりニュートンを思い出すはずだが文学理論上はここまでおさえておく必要はない。援用する機会はほぼないだろう。

 オースティンを雑に拾う。これの何がまずいのか「ピンとこない」文学徒や非専門学徒は多いのではないだろうか。卒論レベルがどうしても浅くなってしまうのは仕方のないことだと。

 致命的なことは「先述の潮流は文学理論上の主流に『完全には』乗ってこない」ことである。『完全には』というのが厄介で、先に挙げたオースティン、あるいは後期ウィトゲンシュタインなどはある程度頻繁に文学的言辞において引き合いに出される。つまり文学をやっていると目に入ってくる機会がしばしばある。

 今回の場合よくなかったのは、一作品の読解にオースティンを援用しようとするとき、それを「言語の問題」としか捉えられていなかったことだ。つまり、その人はオースティンとソシュールでやろうとしたことの何が違うのかさえわかっていない。前駆分析哲学、初期言語哲学的なオースティンと構造主義の基礎付けとなったソシュールでは潮流があまりにも違う。そして、現代の文学理論においてソシュールらの構造主義は直接援用するにはやや古く、ポスト構造主義が援用するになぜ他潮流であるはずのオースティンや後期ウィトゲンシュタインが都合が良いのかをおさえられていないことだ。

 極めて残念なことだが、両者は文学研究をしていると頻繁に目にする。そして文学における学部レベルではその大きな潮流の違いさえ明晰に教えられないことがままある。つまり「シニフィアンとシニフィエ」「ラングとパロール」といったジャーゴンで読解を行うことと、「発話行為」「発話内行為」「発話媒介行為」といったジャーゴンで読解を行うことを単なる道具の違いとしか認識できていないことがままある。

 任意の文学理論を採用するとき、そこには本来それを採用すべき理由があるが、これが宙に浮いているのである。

 たとえばロラン・バルトのテクスト論で田山花袋の「蒲団論」をやるならば、本来であればバルトが「ラシーヌ論」でそうしたように射程範囲が明晰化される。つまり田山花袋などの自然主義文学を読むとき、当時自然主義を指してエロだと新聞で言われていたような社会的文脈は「敢えて」切除される。ゾライズム――日本に輸入される前のフランス本来の自然主義文学のやりたかったことも「敢えて」切除される。日本近現代で文学をやる人は「自然主義」と聞くと日本における文学上のそれを想起しがちだが、フランスのゾライズムが指す自然主義はむしろ分析哲学上の自然主義、物理主義のほうがまだ比較的近い。この場合、分析哲学上の自然主義は日本近現代文学上しばしば本質主義と言われるだろう。「テクスト論で読む」なら当時の時代性を排除し、先述した「物理主義/本質主義」から「蒲団」を読解することができる。こういった読解は「自然主義(文学)を(世界観における)物理主義と誤解している」という想定可能な浅すぎる批判に当然テクスト論によって応答できるわけだ。そのためにはテクスト論とはなにかを正確に理解している必要がある。

 つまり、文学的読解において文学理論を用いるとき、その文学理論が背後に持つ哲学的主張に必ずコミットメントを持つことになる。後に紹介するイーグルトンらのマルクス主義批評や、それ以外でもバトラーらの多大な影響を受けるジェンダー・クィア批評など、「明らかに」イズムが見える文学理論も存在する。だが、それ以外の読解、つまりソシュールやオースティンを用いたところで先のバルトでの田山花袋読解などのように「何をしようとしているのか、何故そうするのか、どうしてそれが正当化されるのか」は回答できねばならず、文学理論を用いて読解を行う際それは中立的ではなくむしろ逆で、読解が依って立つものへのコミットメントを強く主張するものになる(これは通常の読解/感想文が中立的であることを意味しない。文学理論に依って読解するならば、同時にそれを声高に主張していることになるのだという意味で読まれたい。つまり、感想文なら暗黙裏に何らかのイズムがあっても感想文なのだからそこに無反省なことはそれが批判に値するにせよしないにせよままあるという濃淡の問題だが、文学理論を用いる場合それに無批判・無理解であることは言語道断でありそこを掴めていなければそのこと自体が極めて致命的な指摘事項になる)。

 独習でジャーゴンだけ拾うとここが空洞化し「つまりなにがしたいのか、なぜそうするのか、その読解で拓かれる地平とはなにか」を欠くおそれがある。最悪の場合、それらしい術語を用いた単なる権威主義的感想文にしかならない。理論を援用したならば、理論を援用した理由を必ず説明できねばならない。場当たり的に採用してはならないのだ。

 ここまでが前提知識となる。

文学理論の通史的学習の困難性について

 以上、文学をやるに際して文学理論を援用するならば最低限理論の骨子、できればその理論がどのような潮流に置かれており、それが現代どのように受容されているのかまでおさえておきたいことを具体例を挙げつつ述べた。

 こうなると、先のオースティンの「言語と行為」(の副読本)からいきなり入るのではなく、「文学理論入門」などの本から入りたくなるものだ。大学の学部レベルの講義でも通史的に教授されることが多いだろう(通史的に教える意義は先述のとおりだ。しかし通史的に教授するがゆえに各論と応酬がどうしても深掘りできず、先の卒論のような名前が出た人を拾う悲劇に繋がる)。実際、そのような文学理論の入門書は幾つも存在する。

 しかし、「文学理論」とは文学の領域で独立完結した理論ではない。イーグルトンのマルクス主義批評がマルクス主義に紐付いていることは明らかだ。そしてマルクス主義を抑えるならカントまで遡らずともヘーゲルは絶対におさえなければならない。

 弁証法をおさえられずとも「二項対立」だけは哲学レベルでなく文学理論レベルでも「絶対に」把握しなければならない。なぜ「二項対立」だけは要るのか。それが基礎付け主義に援用され、これに反省的なポストモダニズムでもそれぞれの立場において様々な用法がなされるからだ。クリステヴァからバトラー、バトラーからデリダ、デリダからフッサール、と読んでいっても「二項対立」を避けて通れない。

 そして「二項対立」の使い方は読解に用いる文学理論――がよってたつ哲学的立場によって異なる。ヘーゲルやマルクス主義を用いるならばそれは弁証的な用法をされるであろうし、デリダによるならその発展的な基礎それ自体の揺るがせとなるだろう。

 つまり文学理論を適切に用いるならば哲学レベルのある程度の理解がどうしても要請される。クリステヴァの例ならバルトやラカンも読まねばならないだろう。そしてラカンを読むなら文学における精神分析が現代どのような立場にあるかを把握するための基礎として、近代的な議論であるフーコーをおさえなければならない。

 こういうと「やりすぎではないか」と思われるかもしれないが、残念ながら文学理論を用いた文学読解はこのレベルで理論をおさえているのが「普通」である。こういった編み目、複雑な織物の中でなされる営為が文学理論による文学的読解だ。これができて博識なのではなく、最低限この程度は読んでいなければならない。

 となるとやはり適した入門書が要るのであるが、大学生協にしばしば置いてある「一冊でわかる」シリーズの「文学理論」は著者の哲学的レベルの把握が浅薄すぎるため用に堪えない。

 「ここまでできて普通」とは言ったが、「普通のことができていない」レベルの著作は枚挙に暇がない。卒論のために先行研究を漁ると噴飯ものの論文が頻出すると述べたが、ジョナサン・カラーは論外である。どう論外か詳述する。

ジョナサン・カラーが哲学を理解できていないことについて

カラーの論旨について

 引用するのは入門レベルから更に一歩進み、本格的に文学を学ぶための著書である「文学と文学理論」だ。

 このうち9章の「悪い文章と良い哲学」に彼の全く不十分な哲学的理解が表出している。まず本著9章の概略を説明しよう。

 分析哲学者のデニス・ダットンが編集する雑誌「哲学と文学」は「悪文賞」を公表しているのだが、これに先述のジュディス・バトラーが受賞している。この「悪文賞」の審査基準のうちカラーが引用するなかで着目すべきは「学術書ないし論文中の1~2センテンスが参加資格」で目的が「醜い文章、文体的に不快な文章を見つけること」にある。

 Wikipediaの「分析哲学」のページに分析哲学のステレオタイプが記載されているがそこには明晰さの追求や晦渋さの排除が挙げられている。

 分析哲学者が晦渋さを回避し明晰さを追求しようとすることは、このように特段不思議なことではない。前駆分析哲学、エアが「言語・真理・論理」で「形而上学」全体に対してやっているように、カルナップが「言語の論理的分析による形而上学の克服」で特にハイデガーに対して行っているように、典型的とすら言える姿勢だろう。

 カラーはこれに対して、1~2センテンス独立で意味が明瞭であったり明晰に理解できたりしなければならないということはおかしいと述べており、また醜さや意味のわかりやすさも独立で判定するのはおかしい、そんなことが可能だとは考えたこともないと主張している。

 そこで彼は「世評が高い分析哲学者」であるロバート・ノージックの著作「考えることを考える」(「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか?」はきいたことがあるだろう。本著の第二章に掲載されている)を開き、ここに晦渋さがあることを見出した。

 また、ノージック自身が「読解不能な本を求めている」と最初に主張していることを強調した。ノージックの動機は読解不能性により通読が停止し、読むために格闘せざるを得ない状況に人が置かれることだ。

 そしてバトラーの「悪文賞」受賞を認めたダットンの評価について「完璧なゴミ」だとカラーは主張している。そして、このコメントに沿うならばオースティンの弟子でウィトゲンシュタインの影響を強く受けるカヴェルがもってこいだとカラーは述べ、彼の文章を挙げ、「悪文賞」の基準に当てはまるであろうと主張する。

 そしてカラーは概ねノージックに賛意を示しながら、1~2センテンス、あるいはそれ以上のセンテンスで読者の読解を停止させる文体はそれ自体で論難に値するものではない、むしろそういったセンテンスを含む哲学書全体としては読者の格闘を促しよい哲学的営為に導く可能性をみて好意的だ。もちろん、単に意味不明であることの神秘性を支持しているのではなく、悪文賞を受賞したバトラーも、そしてノージックもカヴェルも「ついていくのは大変だが、理解できないということはない。追っていける」として難しいが理解できるものとしてカラーは読んでいる。以上がカラーの悪文賞を巡る論旨だ。

カラーの哲学的不理解について(内-分析哲学的に)

 まずはっきりさせておくが、筆者の立場は分析哲学だ。そして分析哲学側として出しているダットンの「悪文賞」は完璧かどうかはともかくゴミだ。ここに異論がないからこそ、カラーがゴミなのだ。カラーが「悪文例」として挙げたセンテンスを本論では一度も挙げていない。それには意味がある。そこは議論する必要がないからだ。そこの是非にかかわらず、ダットンの悪文賞がゴミであるにもかかわらず、カラーの主張は端的にゴミである。

 カラーは最も単純な二項対立で哲学に二分法を行い、評価を下している。つまり、「分析哲学」と「大陸哲学」だ。

 このうち両者にダットンが言うところの「悪文」が見られ、かつその「悪文」と呼ばれるものは必ずしも哲学的に不要なものではなく時に読者に有用であるから、ダットンには与しない――というのがカラーの立場である。

 これの何がまずいのか? ごく穏当なことを言っているのでないか? 残念ながら「常識的にものを考える」「ごく穏当な」分析哲学徒はこのような飛躍した主張を全く認めない。

 要訣は「ダットンが悪文と呼ぶところのものがノージックやカヴェルにもあてはまり、バトラーを含めてそれらは読者に有用だ。よってダットンが悪文と呼ぶところのものは読者に有用でありうる」というカラーの主張だ。これを分析哲学徒は認めない。

 なぜ認めないのか。理由は2つある。

 1つはダットンがゴミだからだ。分析哲学徒のステレオタイプは先述のとおり、「徹底的な明晰さの追求」である。ダットンの評価基準は分析哲学の審判に照らしてあまりに蒙昧である。実験哲学的評価ではないから何らかの定義のもと実験し、そうしたければ再現実験を行えるものをなしたあとで評価したわけでもなく(その場合も実験設計や実験における「悪文」や「醜さ」や「可解性」の定義は明晰であらねばならず、おそらく簡単にコンセンサスは得られず議論になるだろう)、「悪文」や「醜さ」や「可解性」の評価をホモ・サピエンスとは独立にし、つまり実験によらない定義を行い機械的に判定したわけでもない(この場合も定義の議論はもちろんホモ・サピエンスと独立にしたことについて実験哲学側から非難がでるだろう)。

 ダットンがやっていることは明晰さを欠き蒙昧だ。つまりバトラーがどうして悪文賞に値するのか全くわからない。哲学者の用いる悪しき伝統「自明」を振り回しているに過ぎない。

 よって、ダットンがあまりにも蒙昧すぎるのでダットンの審判基準は不明であり、ノージックやカヴェルに関するカラーが取り出した1~2センテンスはダットンに照らして悪文である、悪文である可能性が高い、などとは言えないのである。

 「である」と言い切ることはダットンが機械的操作で悪文を判定しているわけではないことから不可能であり(つまりセンテンスを読み込み二値で判定を下すシステムを組んでいない)、「である可能性が高い」と蓋然性の高さに言及することも蓋然性を判定するための実験哲学設計を行っていないため検証不可能、つまり蓋然性の程度は出せないのである。科学に値しないというわけだ。

 つまり、ダットンがゴミであることを主張していながらカラーはゴミと同じ態度を採っている。もっとも、これは「アイロニー」であると擁護できるだろう。つまり、ダットンがやっていることは自分が今やったことと同じくらいバカげたことだという揶揄だ。これであれば1つ目の指摘は問題なくなる。同様にゴミだと言うなら問題ない。

 致命的なのは2つ目だ。バトラーもノージックもカヴェルも該当センテンスを読み解くことはできるし、これらは読者に有用であるというカラーの積極的主張だ。つまり、ダットンがゴミだと言ったものはよいものなのだというカラーの主張だ。これは擁護のしようもなく哲学的にゴミである。

 なぜゴミか。定義が明晰でなく論述が明晰でなくもちろんエビデンスもないからだ。

 まずカラーが述べている、少なくともカラーが挙げたバトラー、ノージック、カヴェルのセンテンスが独立に取り出さずきちんと全体を格闘すれば読めるということで何を言わんとしているのか不明瞭だ。読者は当該センテンスについて適切に読めているならばコンセンサスを得られる、外れた読みをしたものは誤読しているというなら根拠がない。重要なことは「実際に彼ら(彼女ら)の著作が一義的に読めるかどうか」「ではない」。

 カラーの操作ではそのセンテンスの読解についてきちんと読めばコンセンサスが得られることの証明ができていないと述べているのだ。結論の問題ではない。手続きの問題なのだ。つまり、数学において結論箇所が偶発的に正当と合致していても論証が成立していないならば論外であるのと同じことだ。

 カラーは自身が取り出したセンテンスについて、「読める」ことの証明を精密に行えていない。バトラーについてはなにやらやろうとしているが、これがカラーの解釈でなくコンセンサスを得られる読みであることの証明を一切行っていないし、ノージックやカヴェルについてはさらにおざなりだ。繰り返しになるが、当該センテンスについて実際にコンセンサスが得られるかどうかは問題ではない。カラーが適切な手続きをとっていないことが問題なのだ。古代の哲人が現代の科学的見地から成り立つ世界観に反さない言及をしていたからといって、彼らに科学的発見における先見性があるとはそのテキストからは当然には言えないことと同様である。更に理解の補助線として述べるが、たとえば気象予報士が高い確率で晴天を予報したにもかかわらず、実際には雨天であったことからは当然には気象予報士は責を負わない。雨が降ったか降らなかったかではなく導出が問題なのだ。

 コンセンサスが得られるかどうかの点で長々と述べたから同じ事を詳述しないが、カラーが挙げた各センテンスから読者がそれにより哲学的著作の正当化に足る類のフィードバックを得られる蓋然性の高さもカラーの不明瞭な主張により正当化されていない。

 何度も何度も繰り返しになるがこれはカラーの主張が偽であることを意味しない。カラーの主張は蒙昧であるから検証不能であると述べているのだ。何を言っているのかわからない文章は検証のしようがない。カラーはバトラーもノージックもカヴェルも格闘すれば読めると述べ、彼らの著作で通読が度々止まることは哲学的に是認しうると述べているが、少なくともカラーの9章におけるこの主張は検証に着手できる程度の明晰さを欠いている。何を言っているのかわからなければ実験設計ができないのだ。言語の定義が不明瞭なので何について検証すればカラーの主張に関する検証を行ったことになるのかわからない。カラーが何を言っているのかわからないので、カラーの主張が正しいのか誤っているのかもわからないのだ。

 この2つ目の指摘はダットンと対蹠的であるため(ダットンは悪文を拒絶し、カラーは場合によって積極的に認める)1つ目の指摘のように「アイロニー」であると擁護することはできない。結局この2つ目の指摘により、カラーは分析哲学者にとってダットンと同じ穴に落ちる。蒙昧である。どちらも等しくゴミだ。

カラーの哲学的不理解について(内外-分析哲学的に)

 カラーの9章における態度そのものを擁護することはできる。上の指摘はカラーの主張を分析哲学的に読んだ場合の非難だ。カラーの立場は彼が擁護しようとしたバトラーと同じく大陸側である。特にバトラーはデリダの影響を受け、デリダの導入した幾つかの術語(語と呼ぶことすらデリダに照らせば不適切であろう)は当面的な定義すらできないものが含まれている。

 分析哲学的にこれについての見解を述べることはできるが、この小項目の主点はそこではない。大陸哲学、特にカラーが擁護しようとするバトラーらのポストモダニズムは無反省なドグマの内面化を瓦解させることにひとつの意義がある(もちろんほかにも様々な意義・立場がある)。典型的には脱構築と呼ばれるものだ。

 分析哲学者であるダットンの悪文賞のシステムは分析哲学に照らして不適当に蒙昧である――このような(私の与する)主張がダットンの営みを揺るがせ、さらに(私の与しない)そうはいっても自明な悪文に牽制的であることは蒙昧主義から哲学の最低限度の明晰さを守るために必要であり、こういった営為はやむを得ないといった擁護もあり得る。私が行った営み自体が脱構築的、大陸哲学的であるわけだ。つまりダットンに対し分析哲学的に大陸哲学的なことをやったのが前の小項目だ。ただし、個人ないし一雑誌の主張に対し脱構築的な主張を行うことは全体に対する脱構築的機能を有するとは限らないことに注意されたい。ダットンを揺るがしたからといって分析哲学を揺るがしたことには必ずしもならないのだ。

 ポストモダニズム全体が脱構築的営為に強いコミットメントを持つかどうかはともかく(デリダから積極的に距離を置こうとする派閥も多い)、バトラーは彼の流れを強くくんでいる。というよりも、彼女の主著「ジェンダー・トラブル」は文字通り当時のフェミニズムそのものに対してさえ攪乱的な脱構築的営為だ。

 カラーの9章におけるバトラー擁護ではこの自身がコミットメントを持つ立場が全く相対化されない。分析哲学を大陸哲学と相対化し分析哲学的なイズムを瓦解させようとする彼の立場そのものがポストモダニズムにコミットメントを持っており、こちらの相対化ができていない。

 具体的にはカラーの述べるところの分析哲学と大陸哲学の共通点、つまりある種の悪文(どの種の悪文なのか私にはさっぱりわからないが)について、カラーは分析哲学と大陸哲学に共通するものとして肯定的に捉えている。

 しかしながら、分析哲学で照らせばそれは大陸哲学的に瓦解させられるのであり、カラーの肯定の手法は大陸哲学・ポストモダニズムの伝統(のうちの一部においてもしかしたら)認められるかもしれないものに過ぎない。

 にもかかわらず彼は潮流横断的な「哲学」におけるこれはよいものなのだ、「ダットンが悪文というものを含むよい哲学」があるのだと主張しているのだ。これが9章の「悪い文章と良い哲学」のカラー的な態度だ。

 つまり、彼はバトラーを悪文賞から救うとともに、ダットン的に見れば同様に悪文に見える幾人かの分析哲学者の記述をも救い、よって哲学全体についてある種の悪文(わたしはどの種の……もうよいだろう)を容認しようとしているのだが、それによりポストモダニズムという基礎付け主義への反省からなる潮流から構造主義へと時代的に逆行した営為を行っている。

 通底する要素を認めそれを肯定文で扱い批判的に取り扱わない、つまり動的な概念として扱わず静的にそのままにしておくこと、これはデリダ、ひいてはバトラー的な態度に反する。

 読者を揺るがしながら悪文を認めるならば、大陸哲学において彼はテクニカルな手法、つまり悪文を当面的な定義すらできないものとしてデリダ的に呈示し取り扱うべきだった。つまり彼は分析哲学の潮流をまともに理解できていないどころか大陸哲学におけるバトラーの在する立場についてすらまともに理解できていない。分析・大陸の両面に照らして論外である。

結びに

 哲学者の言辞の一部が破綻しているからといって、全体を棄却する必要はない。これはカラー自身が9章で述べており、私も肯定するところだ。しかしながら、カラーはかように分析・大陸両面ともに最低限の理解すらできていないので、入門書として取り扱うには危険に過ぎる。一冊でわかるシリーズの出来にはムラがあるが少なくともカラーの文学理論は私は推奨しない。

 入門書として扱うには古すぎ、現代的な議論には追いつけないがイーグルトンの「文学とは何か」という定評のある名著があるため「一冊でわかる」より厚いがこちらを採るべきである。私の時代は大判しかなかったが、幸いにして岩波文庫が電子でも読めるものとして提出している。当時と同じ大橋訳なので訳出にも定評がある。

 イーグルトンの「文学とは何か」の入門としての好適点は、各種文学理論を説明しながら、それへの疑義も同時に付していくところにある。つまり、どういった立場であり、どういった疑義を付されうるのかという点を掴みながら読み進めることができ、任意の文学理論で読解を試みようとした際に注意点を思い出す助けになる。

 これは彼がマルクス主義批評の立場にあることの美点だろう。さらに良い点は、イーグルトンはマルクス主義批評にコミットメントを持つという点で、マルクス主義にコミットメントを持たない初学者はある程度距離を持ちながら読むことが期待できる点だ。さらにさらによい点は、マルクス主義批評の立場に立ちながら、イーグルトンは必ずしも各種議論を弁証法的には語らない。つまりある立場とある立場がぶつかり合い、その結果としてこのような立場が生じ、それは学術的に一歩前進である、といった態度を安易に採らない。これも誤読防止のため役に立つ。

 また、「岩波文庫」から出ているという点である程度の歴史的著作なのだということも掴めるだろう。岩波文庫は定評のある学術書等を手軽・安価に入手できるようにとの試みで動いているものだ。岩波の訳出は一部悪名高いが(本著については心配せずともよい)、比較的モダンなイーグルトンが文庫化されているということも一定の信頼がある。また、岩波文庫化されているということ、定評があるということから現代の最前線的議論「ではない」ことも理解できる。ここから次に踏み出せるわけだ。

 筒井康隆の「文学部唯野教授」の下敷きになっているとも言われるが、これについては私がサブテキスト含め未読のためなんともいえない。

 イーグルトンが入門によいというのは、各種議論が飲み込めるからというより、安易に飲み込まないよう釘を刺しつつ紹介するからだと言える。つまり、権威主義的というよりもむしろ、懐疑的な態度を誘発するためイーグルトンは入門に好著だ。気になった立場の各種議論を追いやすくなっている。

 ただし、文学的に精細であるものの哲学的に込み入った話まで含めての理解とするには「文学とは何か」だけではどうしても足りない。

 絶対にこれを読んで終わりにしないことを条件に(深入りしないなら読まない方が良い)、ナツメ社の図解雑学「哲学」が「ふせん」として役に立つだろう。

 図解雑学の名のとおり非常にコンパクトに各種哲学者・議論が紹介されており、「文学理論を用いようとする」→「下敷きになった哲学者を思い出そうとする」→「本書でインパクトだけ得る」→「原著か入門・副読本を買う」の流れで用いると勉強を進めやすい……と思う。

 文学理論上で名前が出てきて「なんだこれは、わからんぞ」となったときに本著を取り出して「こういうやつか」と暗礁から乗り上げて哲学書に一歩進むための勇気を与えるために役立つかもしれない。また、図解雑学と言いながらも時代を追っているため幾つかの筋はかろうじて掴むことができるかもしれない。

 いずれにせよ図解雑学という平明さを代償に精細な情報を欠いているのでこの一冊で安心しない人向けのいわば「碇/アンカー」としては役に立つと期待する。この一冊では扱えていない流れや筋も当然あるが、そういった点に注意できるなら有用だろう。

 イーグルトンと違いやや鵜呑みにしてしまうおそれがある、浅薄な理解で収まってしまうおそれがあるので万人に勧められるわけではないが、距離を置こうと努力するならきっと書架に置いて無駄にならない。ある程度理解が深まると手に取る機会も減っていくが、それもまた補助輪としての役目だろう。

 文学理論は特に構造主義・ポスト構造主義と大陸哲学の潮流をくむことが多いため、その試みに逆行してどうしても「哲学」の姿を大陸的に内面化するリスクが伴う。前-入門的に分析哲学を注射しておけばその大陸的立ち位置をも動的に揺るがしうるものとして反省しながら入門していけるだろうという思いで、文学理論の前-入門書として本noteを作成した次第だ。文学理論に興味のある非専門の人や文学徒の参考になれば幸いである。

 なお、分析哲学の手法を用いて文学を取り扱うといったことも可能であるし、実際にそのような営為を行っている著作もあるが、そちらに興味があるならば本を買うというより専門誌である「フィルカル」を購読するのもありだろう。フィルカル、つまりPHILOSOPHY&CULTUREの名のとおり、「分析哲学と文学」というよりも「分析哲学と文化」を取り扱っているのでたとえばゲームや動画、Vtuberなども対象になる。もしかしたらこちらの方がより興味深く思う人もいるかもしれない。大陸系の文学理論で行くという人も、大陸系の理論はその射程に同じく文化を含むのであちらの潮流はどうなっているのか気にする意味でも拾ってみて面白いかもしれない。なお、フィルカルについても価値中立的な専門誌とは私は思わないので、フィルカルにのみ染まって終わるのは危険であろうとも忠告する。内面化の最も危険な点のひとつは、対立軸があるものについて中立的、異論はないものとして視野狭窄に陥るところにある。気に入った類ばかり読んでいると不随意にそれに染まり、内面化の性質上それに気づくことすらできないおそれがあるから、やや負担が大きいがある程度の濫読は推奨したい。その場合多くの地雷を踏むことになるのだが、案外地雷を踏むことも役に立つ。カラーの「文学と文学理論」の9章は私にとって地雷であったが、このように前-文学理論的な整理に役立つようにだ(カラーが悪文をよしとしたこととこの主張の何が違うのか、何も違わないのではないか、と疑義をもって読み返すのも面白いだろう。この露骨な皮肉に気づけたならセンスがあろう――ここまでが皮肉である)。なお、私の紹介が中立的だと思って読んでしまったならまだまだ哲学的特訓が足りない。私は特に意識して物理主義・還元主義的にカラーを批判した。一方で代替の呈示の正当化はこのレベルで行っていない。重要なことは私が想定する読者と効果が実態に即しているかではない。これについての手続きを私が踏んでいないことだ。このことに気づけ、他の読解が可能であることに至ったならば(私はぱっと思いつくだけでその他2,3の読み方ができ、その全てでカラーを棄却する。かつ最も穏当には何も代替に推薦しないだろう。この何もできなさに問題を覚えるならば哲学における「直観」の問題に踏み入ることになる)ある程度の哲学的慎重さを身に付けたと思ってよいだろう。

 本noteは自己言及的である。本noteの批判的立ち位置からは本noteによる代替的な紹介の手続きは認められない。そしてこの立場を弱めるならば、つまりある程度の「直観」を認めるならば、たとえば本noteによる紹介のレベルの無根拠さを認めるならば「どの程度弱めるのか、それはなぜか、その弱めた程度がそれより強くも弱くもなくなぜその程度なのか、全て正当化せよ」という問題が立ち現れる。その問題自体を実験的に扱うのが実験哲学の一分野である。これはその問題をエビデンスベースドで解決しようとするわけだ。そして、分析・大陸問わずエビデンスに依らない解決を模索する向きもある。入門書への論難はいくらでも厳密性をあげて行えるので容易だが、代替の提案は代替案の呈示手続きを含む正当化を要し、しばしば困難な仕事である。このnoteではそれに成功していない。だからこそとりあえずえいやで突っ込んでみて後々振り返って反省的に知見を深めていけばよいのである――といった結論もまた本noteの批判的立ち位置からは当然には正当化されないのである。

 ――といった議論をみるとそもそも分析的な筆者が大陸的な文学理論の入門書を推奨できるのか、実は筆者は大陸的な任意の文学理論のいずれにも何らかの否定的見解を持つのではないか、と推察した人は炯眼の持ち主であろう。

 上は分析的に首尾一貫して本noteを読んだ場合の本noteの瓦解であり、もうひとつ本noteの別の読み方としては分析・大陸両面からカラーを拒絶しつつ方法的に大陸に寄った上で大陸的な入門書として好適なものはどれか、という議論で結びを読むこともできるかもしれない。つまり、分析的にカラーを否定し、大陸的にカラーを否定し、大陸的に代替書を挙げ、その正当性を分析的に疑義に付し、大陸的に認容しうるか――? と眺めているのが今の段落だ。分析的には明白に本noteは破綻しているので認容し得ないが、大陸的に認容しうるかは立場によって回答が異なろう。ちなみに筆者はあまり与しない読み方だ。代替案の提示が具体的にどの大陸的立場に立脚しているか自明でなく、かつそれを正当化する大陸的な何らかのテクニックにもあまりコミットメントを持たないためだ。しかし、大陸を採るならばこのテキストを筆者と「敢えて」切断し、筆者と独立にテクストを読むこともできる。いいようにしてくれてかまわない。つまり、このnoteはそれ自体が任意の文学理論を応用して読む応用学習の素材にできるようにも作っている。破綻させてもよいし、何らかのやり方で救ってみせてもよい。破綻のさせ方にも種類があるだろう。あえてクィアでやってみせる苦行を採ってみてもよいわけだ。いやまさにそれと独立であるかのように見せかけているこのテクストをクィアで読むことはいっそ暴露的意義があるのかもしれない。そもそもどのようなテクストも任意の文学理論を適用して(文学理論上は)よいわけだが(外部からは時折論難がある)、このnoteは素朴に読むと明らかに破綻しているため、まさにその点に読解テクニックを効かせやすい。かつ、大陸的な伝統にある程度身を浸しているなら、代替案の破綻箇所ではなくまさにこの自己言及的な連なりにこそ注意を向けるべきであるかもしれない。この長大な自己言及はまさに大陸的に指摘するために作ってある。

 文学理論ならびに関連大陸哲学書を読むと稀にこうしてどうすればよいかわからない状況に放り出され途方に暮れることになるかもしれない。

 もしかするとこの苦境を悪文同様「哲学的だ」と高評価する者もあるかもしれない。私にとってそれは単なる現象であり好悪の対象にはなっても是非の対象にはならない。

 もしこの苦境を「哲学的に高評価」するならば、基本的にはカラーの悪文に対してやったことと同じ理路で私はそれを拒否するだろう。ただし、この問題を自然化し――つまり物理に還元し実証的に学習効果として検証するならばその限りではない。

 ただし、それを「(実験)哲学的に高評価」であると言うべきかどうかは微妙なところだ。現象・効果を単に記述しているのではなくそれを評価しているのであるから、何らかの人文的要素は少なからずあるわけだが、哲学的というより教育学的と言った方がよいかもしれない。教育学的高評価の基礎付けに「教育学の哲学」的要素があるにせよ、それをもってこれは哲学の問題だというのはいささか乱暴だろう。生物学にも数学にも「~の哲学」はあるが、それをもってこれも哲学! あれも哲学! となんでもかんでも哲学と言うにはやや慎重であるのが穏当と思料する。

 この迷境において相対的態度を採り続け、途方に暮れながら格闘する者もいれば、何らかの主義を採用し決断的に評価を出力する者もおり、こうした類が入り混じるのも個人的には読書会が「面白い」(好悪の対象になっており、是非の俎上にはあがらない)理由のひとつだ(たとえば当時B4だった私はM2の先輩と共に決断的にこれも駄目あれも駄目と駄目出しをしまくり(決断的態度がそれぞれ違うので駄目出しをする理由で相争ったりもした)、くだんの読書会の立役者、まさに探究の途上にある慎み深く知的で穏やかなM1の先輩を困らせていた)。

 決断的態度と非決断的態度の是非はいったん脇に置き、それへの議論は読書会では行わないことにしなければ(読書会を午前に行い、そういった話はランチでするとよい。読書会を午後、アフターをディナーにすると話がダラダラ無限に長引きかねないので3限や4限を理由に緊張的に時間を区切れる午前-ランチの組み合わせが個人的にはおすすめである。なお、読書会後は燃え上がっている者と完全に燃え尽きて灰になっている者で濃淡が激しいので、特に先輩から後輩へのランチへの誘いは慎重を極めねばなるまい(なぜ特に先輩から後輩へのそれを明示したのか? 後輩から先輩への熱烈な誘いも割と断りにくいのではないか? 敢えてそこを強調することは本当に正当か? このようなことを問うてみてもよい)。こいつの話をぜひ聞きたい、こいつと知見を深めたいと思う相手はどうしてもできがちだが、灰になっている場合ぐっと我慢してそっとしておいてあげてほしい)、どの本を読んでも毎度同じ話になってしまうおそれはあるが。

 文学理論は難しいが、文学理論は面白いぞ!
(そしてこの末文が本noteの末文として相応しいか懐疑的な読者は読書会の適性が高いかもしれない。これはその人にとって適しているというだけでなく、こういった筋を追ってそれはおかしいのではないかと言いうる存在は参加者全員にとって「自明」を「懐疑」に押し上げる効果が期待でき、一人か二人そういう類がいると便利――かもしれない。そもそもなぜここに「他のもっと以前の場所ではなく」フィルカルへのリンクが置いてあるのか。この問いはまさに大陸的な読解を待ち「開かれて」いる。そして、このわざとらしすぎる無意味な目眩まし(これは二重に目眩ましである。フィルカルへのリンクの置き方が目眩ましであると暴露しながら、そこを問うのは無意味であると目眩ましを行っている。そしてこう言及すると三重になる。つまり有限の回数自己言及に自己言及してもそれを目眩ましだとさらにメタで言及し、その視座から読める。このかっこで用いられた目眩ましというワード自体が目眩ましであると気づけたならば鋭敏であろう。こうして、「目眩まし」のような自己言及に通底する基礎をそれ自体から揺るがす営為も脱構築的営みであろう――というステレオタイプを指摘し、更にそれを――これが大陸思想が静的ではなく動的だということの感覚である)に負けず他の箇所を切り拓いてみせるのもまた、大陸的な読解テクニックの力であろう。筆者の指摘事項や自己言及はある意味「確信的」だ。その確信的部分の是非ではなく、他の箇所や全体を貫く無批判な内面的態度を暴露し揺るがせることができれば――それは古典的・ステレオタイプなポスト構造主義、このテクストが当然とみなしている静的ななにがしかの揺るがせ、構造の根本、基礎の不動の打破であり一つの大陸的達成だろう。そして、その方法には様々あり、この哲学的文学理論紹介(ここだ、この「哲学的」を所与として破壊してよい!(これが目眩ましである!))を敢えて「文学理論」で読むのが「文学理論」で「文学をする」楽しさのひとつである――かもしれない。それは想定していなかった、だがその立場でそう読めば確かにそう言うこともできる――そんな読みが開かれるときにテクスト読解、文学理論的な文学読解の楽しみがある――かもしれない。当然この頻用される「かもしれない」は読み解かれるのを待っているテクストであり、目眩ましでもある)

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