人生哲学をいかに検討すべきか/トマス・ネーゲルの「The Absurd」をひいて

本論は山口尚先生のnote「人生の意味の哲学はどのようなものであるべきか――ダンカン・プリチャードとトマス・ネーゲル」に多く助けられています。当該noteがなければ私は本当に途方に暮れて何をどう読んでよいかわからなかったことと思います。深くお礼申し上げます。先生の論述はきっと参考になると思いますので拙論は措いても先生の論述はぜひぜひ一読くださいませ。

 「人生哲学」は哲学的問題としてさほど興味をそそられないと度々述べているが、今回は実務上の要請により概観することとした。私は物書き、特にカップリングという人間関係を取り扱う類を好む一次・二次創作者であるため、キャラクターの性格をとらえることをどうしても要請される。そこで、二次創作上のキャラクター把握や一次創作上のキャラクター設定の一助となればという道具としての要請から「人生哲学」を概観することとした。

 なお、以上の動機にもかかわらず本noteは「人生哲学」の検討に終始し、創作への応用論には一切アプローチしないことに注意されたい。

 ただし、先哲の「人生哲学」を頭の隅に入れておくとキャラクター把握や創造の際になにがしかの役には立つ――かもしれない。あるいは「人生」を創作上のテーマに据えようと考えるのであれば、本論はその検討の一助として有用となる――かもしれない。

はじめに・本著の最も有名な論文を扱わないことについて

 本論は人生哲学の扱いについて分析哲学者であるトマス・ネーゲルの小論文「The Absurd」(邦訳:「人生の無意味さ」)を補助輪として概観する。なお、本論文の邦訳は以下の単行本に収載されており、本noteはこれに依る。

 一度別のnoteでクオリア問題を取り扱ったことのある者であるにも関わらず、「What is it like to be a bat?」ではなく「The Absurd」を扱うことには特段の理由がある。取り扱うに値しないためだ。興味があれば以下を一読されたい。

 興味のない人のために端的に記載する。「What is it like to be a bat?」は「物理主義的にアプローチできない意識の主観的側面」についての難問を取り扱う小論文である。物意主義者からの応答は次だ。

「物理主義的にアプローチできない意識の主観的側面などというものが仮にあるというならば、まずはそれが存在することが確からしいことを明証せよ」

 たびたび引用しているが、科学の営為において何らかの仮説を主張したい場合、その立証責任は主張側が負うのであって、受ける側は検証するに過ぎず、反証責任すら存在しない。物理主義者の指摘は、随伴現象説でも相互作用二元論でもいいが、いずれも立証責任を果たしていないというものである。「p-zombie」も「What is it like to be a bat?」も全く同様の理由で考慮に値しない。「物理主義者は意識の主観的側面を無視している」というのは典型的な批判だが、むしろ直視せざるを得ない状況に追い込んでもらいたいものである。

 そもそも21世紀に入ってからの実験哲学が激しく攻撃しているように「哲学的ゾンビ」であるとか「コウモリであるとはどのようなことか」などといった(あるいは「ゲティア問題」でも「トロッコ問題」でもいいだろう)「思考実験」つまり「事例の方法」で「直観」に訴える方法が適切であるのか、批判的に反省されるべきである。以上のような問題意識は分析哲学の伝統への「否定的プログラム」として検討を受けており、以下が日本語で読める入門書としては好著であろう。

 以上の理由で「What is it like to be a bat?」は本論では取り扱わず、代わりに「The Absurd」を検討する。

人生哲学が大人気というわけではないことについて


 少なくとも20世紀のはじめ頃には論理実証主義の勃興とともに無意味な形而上学、似非哲学の排斥運動が哲学界の一部で巻き起こり、いわゆる「人生哲学」もまた似非哲学扱いの誹りから逃れられなかったように見える。

 形而上学、まさに第一哲学である「存在論」は論理実証主義者の企図とは異なり、情報科学上のオントロジーと手を取り合って有用性を示すなど華々しい活躍を披露しているが、(たとえば以下が概説として好著であろう)

「人生哲学」についてはそこまでの華やかさを見せていないようだ。あるいはこれは「人生哲学」をあまりに狭義に捉えすぎているためかもしれないが、私はそもそも「人生哲学」とは何かを理解できていない。これは後述することになる、

 「人生哲学」の少なくともその一分野であろう「どう生きるべきかについて」 、その一例を「The Absurd」からは得ることができよう。

「The Absurd」が述べていないことについて

 まず、輪郭を明白にしておくべき点は「The Absurd」は分析哲学的論考であるという点である。ネーゲルはこの小論文の第一の仕事として、一般的に見られるという「人生の無意味さ」の論拠について複数概観して棄却している。
 つまり「この膨大な時の流れの中において人間の数十年など無意味だ」といった日本人なら織田信長でも思い出しそうな態度や「宇宙のこの膨大さ」に比べてみれば人間の生などちっぽけなものだという金言のような態度について一蹴している。
 その一蹴の仕方はまとめれば次だ。「宇宙以上の大きさを持つ不老不死の知的存在になることができれば人生の無意味さから逃れられるとでもいうのか?」とネーゲルは問い、そのような存在者になることで「人生の無意味さ」を回避できると判断できる根拠はないと指摘する。ゆえに、ネーゲルはこのような感傷に浸っているのではない。では「The Absurd」は何を論考しているのか?

「The Absurd」が述べていることについて

 「The Absurd」では認識論との対比により、「人生の無意味さ」を感じている人がそこから根本的に逃れることの困難について指摘している。ヒュームの指摘でもミュンヒハウゼンのトリレンマでもよいが、知を得ようとする際の窮極の基礎付けは得られないというのはもはや常識である。たとえば先述したエアやムーアなどの論理実証主義者たちは感覚与件、あるいはセンスデータと呼ばれるものを基礎に検証を重ねていこうと考えていたようだが、

 これはセラーズにより「所与の神話」に過ぎないとして痛撃を受け、それ以上の正当化を要さないような信頼できる絶対の基礎付けではないと棄却されている。

 「The Absurd」においても認識論と同様に「窮極の基礎付けに立脚して人生哲学を構築することはできない」ことが了解されている。そのうえで、「生きる上でどうしても直面してくる人生の無意味さに困っている人」がこれをどう処理すべきか検討を加えている。

 ひとつは「神や国家や政治や科学といった諸領域への熱烈な献身」を挙げ、これはうまい逃避ではないとされる。認識論および人生の無意味さそのものの検証と同じ論証過程を辿って献身の基礎が揺らいでしまうためだ。

 他には、この懐疑論的な一歩を拒否することを処方箋として検討している。しかし、これもよろしくないと述べる。なぜなら、この懐疑論を知ってしまったならば、意識しないように意識してしまうためだ。ゆえに、対処としてはこれをそもそも知らないか、完全に忘却することが要求される。これは少なくともこの懐疑論に一度でも立ってしまった者は意志の力によっては実践困難なことなのでやはり望ましい方途ではなかろうとネーゲルは考える。ここで東洋思想に少し目を向けているのはショーペンハウエルを思い出し興味深かった。

 次に検討したのが自殺だ。これは少なくとも物理主義者にとっては(死後の世界やら輪廻転生やらを信奉しない[ なぜならばそのような仮説は述べる側が立証責任を果たしておらず確からしい知見ではないので ]私のような人間にとっては)根本的解決策として完璧である。脳が機能しなければ「人生の無意味さ」に直面することもない。これ以上に完璧な方法はない。だが、ネーゲルはこれを性急な解決策とする。そもそも「人生の無意味さ」がそんなに重要な問題なのか? と問うのである。

 次にネーゲルが挙げたのはカミュの「反逆と嘲笑」だ。絶対の基礎付けを要請する我々に耳を貸さない世界に拳をふるわせ、それでも生き続けることで尊厳を救う――これは「人生の無意味さ」を消し去ることはできないが、われわれの生にある種の高貴さを与えはするかもしれないと述べている。

 ただ、ネーゲルはこれにも首肯しない。われわれの「生の無意味さ」はそのような「反逆と嘲笑」を正当化しないためである。「高貴さ」への強い拘りをカミュは回避できていない。

 ネーゲルの主張は次である。

永遠の相の下で何ものも重要であると信じるべき理由がないのであれば、それはまた事実重要でもないのであり、われわれは自分の無意味な人生に、英雄的勇敢さや絶望によってではなく、アイロニーをもって取りくめばよいのである。

「The Absurd」

 以上が「The Absurd」の概要だ。


「The Absurd」への懐疑について

 以上を概観して真っ先に思い至るのが「自殺」へのネーゲルの態度への疑問だ。アスピリンで頭痛を抑える日常について、標準医療を信じるという自分の物差しをアイロニックに見つめながら歩んでいくことをネーゲルは肯定するだろう。

 そして、本小論文を読破した上で「人生の無意味さ」を感じる自分をその問題すら本当は必死に取り組むべき価値のある重要な難問ではないのだとアイロニックに見つめながら「自殺」することをネーゲルは否定できていないか、あるいはしていない。

 ただ「人生の無意味さ」が実のところ問題としてはたいしたものではないことを知る前に「自殺」するのは「性急」だとは断言している。この「性急」性に言及するための物差しは正当化を要さない所与ではあり得ない。これは「ネーゲル自身がアイロニックに見つめている"確からしい知識に基づいて物事を判断実行すべきである"というような物差し」から出てきた主張だ。

 このとき、次のように言える。

「人生は無意味なのに要指導医薬品は薬剤師の対面指導の上、正しい知識を得てから購入せねばならぬとはばかばかしい。いいから薬をよこせという」
「全くだ。人生の無意味性がたいした問題ではないことをきちんと論証し把握してアイロニックに眺めた上で自殺せねば性急であるとはばかばかしい。検討する余裕なんぞない、よくも性急だなどと死ぬほど苦しい俺に言えたな。今俺は苦しくてかなわんのだ。もう俺は逝く」

 「p-zombie」や「What is it like to be a bat?」と同様の「事例の方法」をいくらでも生み出すことができる。「ああいえばこう言う」を幾らでも好きなようにやることができる。ある仮説に対して「それはおかしくないか?」という「直観」を抱かせる「事例の方法」を構築し、これをもって議論を行う。この営為に私は辟易している。「上のような人は「The Absurd」の手を伸ばす対象ではない」と言ってしまえばさらに悲惨なことになる。「事例」を示される度に「対象外」と言えばそれで済む。これは何か。「隙間の神」と何も違わない。

 「The Absurd」が行っているのは「ひとつの提案」である。「人生とはどのようなものか」とか「人生に生きるべき価値はあるか」とかではなく「人生ってこう生きると知的に整合的だし気も楽になるんじゃないかな」という提案だ。

 この「ひとつの提案」はどう捉えるべきだろうか。「人生の無意味さ」同様、アイロニックに見つめてみればその提案の重みが自分にとってどの程度に感じられるのかを一歩ひいた場所から把握することはできるだろう。

 そして、私は私自身がアイロニックに見つめる自分の物差しを使ってみたところ「The Absurd」の提案にさして興味を抱けない。それは「人生哲学」一般に興味を惹かれない理由と同一だ。形式的に、どのような形であれば「人生哲学」に興味を持つことができるか考えてみたが、雑感だが以下のような形で「The Absurd」が論考されていたならば興味深く読んだことだろう。

①「人生の無意味さ」や「それによって感じる精神的重苦」の程度を一定の集団に質問紙調査等によって事前確認する
"確からしい知識に基づいて物事を判断実行すべきである"という本論の所与の前提を開示した上で「The Absurd」を読破させる
③「The Absurd」の理解度テストを4択等の選択式で行い理解度をはかる
④「The Absurd」によって「人生の無意味さ」や「それによって感じる精神的重苦」の程度がどの程度変じたか読破直後の反応を質問紙調査等によって事後確認する。理解度と変動量の相関にも注目する。
⑤一定期間をおいて「The Absurd」の理解度テストおよび「人生の無意味さ」や「それによって感じる精神的重苦」の程度をまた質問紙調査等し「The Absurd」の説得的効果の持続程度や「The Absurd」の理解度との関係を観察する
※「The Absurd」を読まない対照群をとり、比較も行う

 上はざっと考えてみたものだが、真剣に取り組むならこんな粗雑なやり方ではなく、厳密な設定が必要だろう。実験心理学では定説の再現性が次々と疑義に付され、10年以上前に「再現性危機」と呼ばれる状況に陥っている。また、「追試における状況の差異により再現性が損なわれているのだ」という反論から「そもそもマニアックな差異で結果が大きく変わるならば実験心理学上の仮説に一般性がないのではないか? 我々は極めて限定された状況下における反応を過度に一般化してはいないか?」という一般化可能性危機にまで陥った。

 3分程度で読めるものなら以下がわかりやすくまとまっていて好適である。

 より詳しく問題を概観したいならば以下が参考になるだろう。

 もちろん、そもそもこのような実験は「The Absurd」の目的に反するだろう。「The Absurd」はあくまでも「人生の無意味さ」に苦しむ誰かのために暗闇の中でのばされた腕だと私は思っている。その腕ができる限り強靱で、信頼して掴むことができるように誠実に論証を行っているのであり、「The Absurd」の効用やその一般化可能性――あるいは集団ごとの効果の差異などは「The Absurd」の射程にないというのはもっともなことである。

 しかし、「The Absurd」が今まさに苦しむ誰かのために伸ばされた腕であるならば、私はその効果の程度、効果の機序を知らずには満足できないのだ。

 「アスピリン」が解熱鎮痛剤として用いられるのは、あくまでもその機序や効能が把握され、標準医療に組み込まれているからであり、その範囲で用法用量を守って使用されているからである。
 そうであるならば「The Absurd」が「人生の無意味さ」に苦しむ人への処方としての有効性の程度を確認しないことには、私には本論の価値を判断できない。

 「瀉血」は「標準医療」ではない。では「人生哲学」は「瀉血」なのか、そうではないのか。「医学」に関する問題には「医療行為」や「医業類似行為」等の整備の努力がなされている。しかし「人生哲学」が苦しむ人へ伸ばされた手であるというのであれば、それは何なのか。

 「人生哲学」についてこのような不信感を私に抱かせたのは、おそらく無学だった私の蒙を啓いてくださったリチャード・ドーキンスである。彼が行った「反パスカルの賭け」の稚拙さに絶句した。「ニュートンのプリズムによるスペクトル発見が虹の詩情を破壊した」と述べる詩人ジョン・キーツに対して「虹の解体」はセンスオブワンダーを生みそれは詩情の源泉となると反駁しており、それではお話にならないだろうと落胆した。

 おそらく、宗教的な人を転向させ、無神論的である人を勇気づけようとするあまりに精細を欠いたドーキンスのこれらの議論が私を「人生哲学」から遠ざけたのだと思う。彼から得た知見はとても多いが、彼の持つ熱意は私にはとても気持ちが悪かった。ブライト運動などはその最たるものだ。

 ネーゲルの議論は少なくともドーキンスのそれに比べればはるかに誠実で謙虚だ。批判も確かに幾つか存在するが、設置した前提に従って丁寧に読者を導き一つの生き方を提案している。

 それでも、私はドーキンスらが批判される際よく見る言葉を忘れられない。

「彼らの議論は彼らに同意する人を頷かせ心地良くさせるかもしれないが、反対する人への説得力については疑問である」

 ネーゲルの議論はそれとは異なるのだろうか。身内ウケ以上のことができているのだろうか。それこそドーキンスの無目的な自然淘汰の説明を浴びる程読まされた私のように「人生の無意味さ」など当たり前で、むしろ「人生に所与の意味などない」と了解している自らのことを好ましい、身軽だとすら思っている人間にとっては、ネーゲルの議論は読み物としては面白かった(もっとも、ネーゲルは人生の無意味性の確証までは積極的に行っていないことには注意が必要だろう。そこはあの論考の主目的ではない)。私の世界観を破壊されるどころか肯定され続けたのだから気持ち良くて当然だ。だからネーゲルが伸ばした手は私にとって意味がない。私は彼が手を伸ばす先である彼岸ではなく、此岸に既に立っているからだ。彼の手をとるまでもない。何らの支えにもならなかった。

 ネーゲルが彼岸に伸ばした手がどれほどの苦しむ人に届くのか私にはまるで信頼できない。そもそも「人生の無意味さ」に苦しむ人々と私は共感帯をまるで形成できていない。なぜそんなことに苦しむのかがわからない。その煩悶には「川の上流の岩はゴツゴツしているのに下流の石は角張っていない!」と叫んでいるような意味不明さを私に感じさせる。「円磨の何がそんなに絶望的なのか?」と首を傾げるのと同じレベルで「人生の無意味さの何がそんなに絶望的なのか?」と首を傾げることになる。

 今朝、滝のように流れ出る水洟を耳鼻科で処方いただいたモメタゾン点鼻薬はぴたりと止めてくれた。私は耳鼻科の見立ても薬剤師の説明も信頼し、実際にモメタゾンは著効を示した。

 だが「人生哲学」はそもそも何として取り扱うのが適当であるのかさえ私には理解できない。そもそもここで言う「人」とはなんなのか? 「当時理解されていた限りでのホモ・サピエンス」でいいのか? それとも「ある哲学者が理性のみで想定した、ある程度簡略化された仮定的人間」を対象として、幾つかの前提から採るべき指針を示した書として、たとえば古い経済学のようにして読めば良いのか? あるいはそもそも「詩」や「随想」のようなものとして取り扱い、自分の人生をよりよく支えてくれそうなものを嗜癖で取り込むような類なのか? たとえば「The Absurd」は「人生の無意味さに苦しむへの一つの指針」を示しているが、このとはどの程度ホモ・サピエンスに近しいのか確信が持てない。ロックが「タブラ・ラーサ」を唱えてホモ・サピエンスを捉え損ねたように、ワトソンの行動主義的な大言壮語が省みられないように、がどの程度ホモ・サピエンスと重なっているのかは些末な問題ではないと考える。

 私には「人生哲学」の正体がわからない。そもそも「The Absurd」が「人生哲学」の定義に当てはまるのかどうかすら自信がない。

 ゆえに、この論考をどう取り扱えばよいのか私にはまるでわからない。読後の感想は「ああ面白かった。ショーペンハウエルの意志と表象としての世界とかまた読みたくなったな」みたいなものだった。読んでいて楽しく、時折くすりと笑いさえ零れた。

 「人生哲学」がそんなものなら、それでもいい。それなら読み物として幾つか楽しめるかもしれない。

 けれど「人生哲学」が「学術領域(たとえば公金を費やすような)」にあるというのなら、それはいったいどのようなものなのか。「人生哲学」に関する研究には少なくとも科研費の基盤研究が補助を行っている事実がある。「The Absurd」を一読したが、「人生哲学とは何をやっているのか」「人生哲学は何を達成できればそれでよいのか」についてはやはり全くわからなかった。

 公金を投入しているかどうかで学術の定義をはかるなど私とて卑俗で嫌だが、これはあくまで例示だ。学術の定義についても満足いく理解を得ていない私だが、人生哲学がそのややぼやけた私の学術定義の輪郭のうちに収まる、あるいは収まらないと判断してよいのかどうか全くわからない。

 本論では「The Absurd」に批判的検討を加える予定だったが、以上によってその試みは頓挫した。「トマトの果実は家屋に用いる建材として不適切であると、その柔らかさや腐敗することなどを根拠に論述」するようなバカげたことを私は「人生哲学」に対してやらかしかねない。

 たとえば医薬品には添付文書の記載要領が存在する。

医療用医薬品の電子化された添付文書の記載要領について

令和3年6月11日薬生発0611第1号文書

 「人生哲学記載要領」などとして読む際の手引きとなる添付文書など開発されたならば少しは助かるところもあるかもしれないが「人生哲学とは何か」についての統一的見解は存在せず、各々の論文の主張から「この程度の射程の主張を行っているのだな」と想定して批判検討するほかないように思う。そして、その一論文の理解すら各人で食い違い、議論が生ずるようである。

 実験哲学の否定的プログラムは「事例の方法」による「直観」を用いた手法を批判的に検討しているが、実験心理学とは異なる性格を持つ。再現性や一般化可能性に欠けることは、むしろ当該プログラムが諸手を挙げて喜ぶべきところである。

 「人生哲学」が「人」ではなく「今理解できている限りでの確からしいホモ・サピエンス」に向けて開かれたとき。私はようやく少しだけ「人生哲学」の読み方がわかるかもしれない。ただそのとき、私は伸ばされた腕を掴むために読むのではなく、その手にしがみついた人の数や種類を見て楽しんでいるはずだ。

 もっとも、「人生哲学」がそのように自然化されるべきであるかどうかさえ私にはどれだけ説得的に論述できたものか自信がない。クオリア論争における物理主義が「意識の主観的側面を見落としている」と言われるように「このような考え方は人生観の主観的側面を見落としている」等々言われるかもしれず、「意識の主観的側面」という言葉で何を言っているのかよくわからない私は人生観についても同じ状況に陥るだろう。「よくわからないので人生哲学と人生観の主観的側面の関係を三人称的に記載してくださいませんか?」 と頼み込むことになり、相手はその無理解に嘆息するだろう。

 もっとも、先述のとおり一次・二次創作におけるキャラクターの性格設定の参考資料として用いるならば「人生哲学」は極めて有用なツールだ。

 「ダニング・クルーガー効果」は現象を確認できても因果関係を確認できず「損失回避バイアス」については論争的ではあるが概ね再現性があるという方向にまとまりつつあるものの、実験室レベルを超えて現実に応用しようとすると複合的な要因が絡まり合いすぎてうまくいかない――等々、実験心理学の「権威ある知見」をフィクションに安易に導入しようとすると、知見のある読者からすればかえってリアリティを損ないかねない(もっとも、再現性危機以前から実験心理学の安易なフィクションへの援用には辟易している者が多かったが)。

 その点先哲の「人生哲学」は概ね使い放題である。なんなら正しく理解する必要すらない。誤解しても曲解してもそのキャラの個性で済む。創作する上では心理学よりよほど便利かもしれない。

 少なくとも著名な実験心理学上の成果を集成した概説書(その多くに関して再現性等に疑問が付されている)を用いるより、人生哲学を引っ張ってきた方が読者からつっこみを食らうおそれはちいさいはずだ。

補遺

 ひたすら「わからない」と述べてきたが、「The Absurd」に触れることができてよかったと私は思っている。私は論理実証主義が目指そうとした潔癖な努力を愛しているし(特にエアのことは大好きだ)、それが頓挫してそれでも足掻いていく知識に関する哲学の戦いを愛している。それらの問題の根深い所にはカントを座礁させたヒュームが居座っていて、私はヒュームの「人間本性論」を愛読しているし、東洋思想に少し触れた際にはショーペンハウエルの主著を思い出してもう10年前に読んだきりだからまた読もうかな、という気分にさせられた。
 つまり、筆者個人に対して「The Absurd」は非常にポジティブな影響を与えているし、読み物としてとても楽しめた。「人生哲学」というラベルを抜きにして「The Absurd」は面白かったかと訊かれれば、私は絶対の自信と共に面白かったと言うし、たぶん私の友人に一読をすすめさえする。
 だが「私は「The Absurd」を読んでポジティブな感情を抱いた」という1サンプルそれ自体については、何ら私の興味対象に値しないし、誰かが「君が薦めてくれたアレ面白かったよ!」と言ってサンプルが2つになったところで話は同じだ。実験心理学が何十年も頑張って科学としてやろうとしてきたことが大崩壊したのだ。そんな素朴に集めた幾つかのサンプルなど、私にとって知的には何の価値もないものだ。
 だが、それによってネーゲルのようなスタイルの「人生哲学」を棄却すべきだとも思わない。なぜなら私にとって価値が感じられないことは「人生哲学」一般を棄却すべき理由にはならないからだ。
 ただ、このスタイルの「人生哲学」について「ホモ・サピエンス」一般が学問として扱うに値すると判断するか否かの傾向性については興味がある。もっとも「ホモ・サピエンス」一般が価値を見出さなかったことをもってしても、やはりただちにこのスタイルの「人生哲学」を棄却すべき理由にはならないだろうが。学問の価値が「ホモ・サピエンス」一般の多数決で決定されるという主張は当然には正当化されない。
 私は「The Absurd」のような類を維持すべきだとも棄却すべきだとも言わない。それは古色蒼然とした論理実証主義の態度に似て、このタイプの「人生哲学」を理解できない私にはどちらを積極的に主張する理由も見出せないからだ。
 論理実証主義者はそのような類を哲学の領域から排除しようとしたが、形而上学――存在論は今でも元気いっぱいである。たとえば「人生哲学」に「モラルラック」が関わるとき、それは現実的な規範と接続可能な実際的な問題でもあり得よう。それについて「事例の方法」と「直観」を持ち出されると、私は嫌な顔をしてしまうだろうが。
 

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