【分析哲学】「心の哲学」上の多義的なクオリア概念の入門的把握を明晰にするための提案:睡眠導入剤の法定添付文書上の副作用「異常な夢(魔夢)」を補助線にすることについて

はじめに

 久しぶりに哲学の話をする。分析哲学における「心の哲学」の話だ。クオリアの話と言えばピンと来る人も多いかもしれない。リンゴを見たときの赤い感覚の「赤さ」などと語られるそれ、あるいは「哲学的ゾンビ」や「メアリーの部屋」という思考実験でその名を知る人もあるかもしれない。

 このnoteには「メンタルヘルス」や「不眠」といったタグも付されているので、そこから訪ねてきた方は面食らうかもしれない。残念ながらこれらは本noteの素材となったものであり、主題ではない。本noteが取り扱うものは精神上の問題でも薬学上の問題でも医学上の問題でもなく、哲学上の問題である。「不眠を取り巻く辛さ」に本noteは全くコミットメントを持たないので、それらに関する知見に興味がある場合、得られるものはほぼないはずだ。ただし素材として挙げる「異常な夢」の話はそこだけ切り取るともしかすると一つの経験談として面白く読めるかもしれない。だが、本noteはあくまでも分析哲学における「心の哲学」を取り扱うものであり、繰り返しになるがその経験談部分はただの素材に過ぎない。ただし、経験談部分はそれ単体で「読み物」になるよう作ってあるので興味があれば以下の目次から経験談にジャンプしてそこだけ拾って読むのも面白いかもしれない。本noteが面白がって取り扱っている問題はそれではないものの。


クオリア問題のわかりにくさ

 実のところ、クオリアについての私の立場は他の幾つかの立場の紹介とともに示してある。以下のnoteにおいてだ。

 クオリアについての私の立場は物理主義――より細分化して語るならばタイプA物理主義である。つまり、物理的に全知であることはクオリアについて全知であることを含意し、「あの赤い感じ」とそれを説明する物理的な説明の間に存在論上のギャップも認識論上のギャップも認めないという立場だ。

 クオリアにまつわる問題をよく知らない、あるいは概念や思考実験を聞きかじっただけの人にとっては突然何の話だ? となることだろう。クオリアにまつわる問題は卑近であるが故にスポット的な知識を得やすいのだが、それがために面白いツール(たとえば「哲学的ゾンビ」)を拾っておしまい、になりやすい。

 体系的な理解にならず「何が問題になっているのか」がわからないため、実のところ手に入れた知識も不正確なものとなっており、たとえば「哲学的ゾンビ(P-Zombie)」と言っておきながら、その実外面の行動だけ見ては常人と区別がつかないが解剖すれば区別がつく「行動的ゾンビ(B-Zombie)」を語っているなどという話は枚挙に暇がない。単なる人間観察・交際の結果「あの男は哲学的ゾンビのように見える」などと主張するに至っては論外だ。そこまでいくと哲学的ゾンビと行動的ゾンビの区別がついていないどころか、行動的ゾンビとゾンビの違いすらついていないということになる。哲学的ゾンビと行動的ゾンビはその定義上行動主義的観察からはヒトにしか見えないのであるから(先述のとおり行動主義を採らず解剖すれば行動的ゾンビはヒトとの差異が分かる。哲学的ゾンビは解剖してもヒトと物的構造が完全に同一であるため(クオリアについて相互作用二元論を採るのでなければ)既存の科学の手続きではヒトと哲学的ゾンビの差異は定義上絶対に明らかにできない)。定義上行動主義的観点において「哲学的ゾンビに見える者」と「行動的ゾンビに見える者」は「ヒトに見えるもの」である。「あの男は哲学的ゾンビのように見える」という言明は哲学的ゾンビも行動的ゾンビもゾンビも自分は概念を理解していないと哲学的無知を表明しているか、または不適切な材料で他者を哲学的ゾンビだと判断していることにより科学的無知に起因する単なるパラノイアに自身が陥っていることを表明を示しているか、「あの男は哲学的ゾンビに見える、つまり行動的ゾンビに見えるのであり、ということは普通の人に見えるというわけだ」と論理的には正しいが日常言語において何言っているんだこの男はとしかならない主張をしているかのいずれかである。繰り返しになるが、これは哲学的ゾンビと行動的ゾンビはその行動観察からはヒトと区別がつかないという定義からの形式的導出である。つまりこれは自然科学上の問題、科学における確からしい主張ではなく言語の形式上の問題、論理学上の絶対の真理である。「物理的に全知であってもヒトか哲学的ゾンビか見抜くことのできない哲学的ゾンビを、物理的な過程である人間観察・交際、つまり行動主義的観察から見抜く」ことや「解剖しなければヒトとの差異がわからない行動的ゾンビを行動主義的観察である通常の人間観察・交際から行動的ゾンビと見抜く」ことは不可能なのである。これを記号的に表現すれば「Pという方法ではQであることを証明できない存在をPという方法でQであると証明することはできない」となる。小学一年生でもわかる絶対の真理だ。よって「あの男は哲学的ゾンビに見える」という主張は概念を正確に把握していないと言うか、もしくは当人が「彼が対象を哲学的ゾンビに見えると判断した理由」はその理由が単なる人間観察・交際から得たものである限り論理的に絶対に不適当なので(その理由PはQであることを証明できない方法Pであるから)単なるパラノイアであると言うほかないか、「彼は哲学的ゾンビに見えるね。つまり行動的ゾンビに、ヒトに見えるわけだ」と当たり前だが突然何を言っているんだこいつはという主張になるわけである。散歩の途中に突然犬を指差して「犬だね。つまり恒温動物だね。そして哺乳類だ」と言うくらい不気味である。

 また、多くの非哲学徒は「哲学的ゾンビ」の語で我々の社会に紛れ込む「哲学的ゾンビ」を想像するが、その組み立ては相互作用二元論という現代では非科学的な魔術的神秘主義にでも立たなければほぼ何の意味もなさないものだ(ここには決定論から素朴な意味での自由意志を救おうとして量子力学を持ち出すという噴飯ものの失敗をする者達と同様に[今回は「心の哲学」を扱っているから何がそんなに初歩的なバカバカしいミスなのかは詳述しない。興味があれば決定論問題、自由意志問題、責任問題、刑罰の正当化問題のいずれかに関する現代の哲学的議論を追えばよい。ごく初歩的な知識として必ず説明がある]、量子力学をもってクオリアを救おうとした幾人かの哲学者も含まれる)。

 しかしながら、この「何が問題になっているのか」は少し勉強すればすぐにわかる。上に挙げたnoteで概観するのもよいだろうし、極めてわかりやすい整理の仕事として以下がある(ただし著者がタイプA物理主義者であることには注意が必要だ。もっとも、デネットの「解明される意識」のような二段組みの地獄の大著でもなければ同氏の「スウィート・ドリームズ」のように戦闘的でもないので注意して読めば整理整頓としてきっと有用だろう。これは、数十年前の仕事だが「意識のハードプロブレム」を語り物理主義との戦いに挑んだチャーマーズの「意識する心」の整理が今なお有効活用されていることと同様である。主義は異なれど両者の整理する力は卓越している)。

 本noteが取り扱おうとしているクオリア問題の「わかりにくさ」はこのレベルにない。現代におけるクオリアに関する問いかけは物理主義への挑戦状として戦端が開かれたことも、「哲学的ゾンビ」と「ヒト」を比べるのではなく「哲学的ゾンビだけが存在する世界」と「我々の世界」を比べなければ「哲学的ゾンビ」は思考実験として役に立たない理由も、「メアリーの部屋」は「哲学的ゾンビ」とは別のことを語る思考実験であり、擁護しているのは随伴現象説ではなく相互作用二元論であることも、理路は明晰なので単に読めばわかる。

 本noteで扱う「わかりにくさ」とは「そもそもクオリアとは何を言っているのか」というクオリア問題に入門する前にクオリアがもうわからない、というレベルの「わかりにくさ」についてだ。

 これが「わかりにくい」のは当然のことだ。物理主義者と随伴現象説支持者と相互作用二元論者(他にも派閥がある)では「クオリア」という語で扱おうとする概念が違う。物理主義の側に立って話すならば随伴現象説が言うところの「クオリア」は知識として何らかの地位を占めることは不可能だとか、相互作用二元論者が言うところの「クオリア」は確認されていないので現段階で存在を主張することは非科学的だとか主張しながら、「クオリアとは現代の科学の手続きに従って開拓するだけでそれに関する知を得られる概念として取り扱うことが当面穏当である。現段階で科学の手続きに改訂を入れる必要はない」というように「クオリア」を説明するだろう。つまり、クオリアが何を意味しているのか理解することとクオリア問題(そして意識のハードプロブレム問題)を理解することは「相補的な関係」になっており、「まずクオリアをつかむ」ということができない形になっているのである。つまり入門段階では「ずっとモヤモヤしながら読まねばならない」。

 ただし、これは物理主義者にとっての話だ。非物理主義者にとっては「あの赤い感覚だよ!」でとりあえずよしだろう。しかしながら、心の哲学において現状優勢であるのは物理主義である。タイプAを採るかタイプBを採るか等論争はあるが、いずれにせよクオリア問題に取り組もうとして物理主義的な世界観から入門しようとした者は「あの赤い感覚だよ!」と言われても「つまりどういうことだよ! 物理の世界に還元して言え!」とわけがわからないのである。

 ちなみにであるが実験哲学者ノーブとニコルズの実験により一般の人の90%超は「この世界は決定論的だが人がなす選択だけはわれわれの宇宙において「物理的に観察可能なレベルで」自由なのだ」と哲学者にとってはわけのわからないとんでも論を支持しているので、このnoteは非哲学徒のためになるかどうかやや自信がない。90%超の人間にとって「あの赤い感じだよ!」でクオリアの切り口としての説明は十分であり、かつ心を何らかのマジカルなものとして彼らは捉えているので「科学」を説明の補助線にしようという私の試みがどこまで効くか効き目が読めないのである。ただ、「赤の赤い感じ」よりは明々白々な整理にはなっているものと信ずる。

 本noteが行うことは、「赤の赤い感じ」でクオリアを説明されたのでは何言っているのかモヤモヤする人のための「具体例」の表示法の提案である。入門する前段階で、クオリアに関するモヤモヤを吹き飛ばしてスッキリして問題に入ってもらおうというわけである。

異常な夢

 さて本題に入ろう。「異常な夢」は存在する――物理主義を標榜しておきながら意味不明なことを言い出したぞとおそらく読者は思うことだろう。安心してほしい、完全に地に足がついた話しかしないつもりだ。夢占いだの何だのという神秘的な話は一切出てこない。異常な夢は存在する。これは哲学的な意味ではなく、科学的な意味――ひいては医学・薬学的な概念として存在する。

 「夢で経験するものはそもそもが異常であり、"異常な夢"とは"夢"の換言に過ぎない。"異常な"は無意味な付言に過ぎず、修辞的な価値はあるのかもしれないが概念としては"異常な"は削ぎ落としても問題ない」――まずこのように考える人はその主張の妥当性はともかく哲学者(分析哲学者)の資質がある。

 しかしながら、この哲学的吟味には残念なお知らせをしなければならない。分析哲学は科学を検討することも勿論あるが、科学の知見を尊重し援用する。

 医療用医薬品は医薬品医療機器等法の定めに従って医療用医薬品添付文書を作成しなければならない。当該医薬品の一例である「ルネスタ(ジェネリックならばエスゾピクロン)」の添付文書11.1.2依存性(頻度不明)ならびに11.1.5精神症状、意識障害ならびに11.2その他の副作用の精神神経系の1%未満の副作用に「異常な夢」の記載がある。同「デエビゴ(今後ジェネリックが出るならば一般名のレンボレキサントになるであろう)」の添付文書11.2その他の副作用にも精神障害1~3%未満として「異常な夢」の記載がある。ルネスタと異なりわざわざ「悪夢」と別記である。

 不眠に悩まされている人、あるいは適応障害やうつ病などの気分障害を患っている人などはすぐにぴんとくるであろう。非ベンゾだと。この「異常な夢」は睡眠外来や精神系の医師・薬剤師、そして患者にとっては常識である。非ベンゾとはつまりは非ベンゾジアゼピン系(のここでは睡眠導入剤。一部の人にはベンゾといえば抗不安薬の方がなじみ深いかもしれないが)の略語である。

 非ベンゾジアゼピン系睡眠導入剤の何が嬉しいか。ベンゾジアゼピン系と比して依存形成のリスクが小さいことが嬉しいのである。睡眠導入剤は長期間連続で使用することになりやすく、その点において特に耐性・依存を形成しにくいデエビゴの名声は高いところだ。ルネスタと違い翌朝に苦味が残るなどということもない。ルネスタ(エスゾピクロン)は苦くて耐えられない、といった忍容性からのギブアップは少なくない。デエビゴは不眠の特に入眠障害と中途覚醒というよくある問題に活躍し、非ベンゾジアゼピン系のため依存形成のリスクがより小さく、「とりあえずデエビゴ」という判断がなされることも少なくはない印象だ。Day Vigar Goを名乗る新薬なだけのことはあるわけである。

 ちなみに何かとニュースを騒がせるベンゾジアゼピン系の睡眠導入剤で一般の人にも特に有名であろうサイレース(ジェネリックはフルニトラゼパム)、あの割ってみると恐ろしく青く溶かすとやはりとんでもなく青く酒を染める薬は(これによりよく事件で騒がれる「睡眠薬を酒に溶かす」を牽制しているわけだ)副作用に「異常な夢」の記載はない。

 ただしベンゾジアゼピン系の睡眠導入剤の全てに「異常な夢」のリスクがないわけではない。「ハルシオン(ジェネリックならばトリアゾラム)」の添付文書11.2その他の副作用には精神神経系頻度不明の副作用として「多夢」と並んで「魔夢」の記載がある。魔とは実に穏やかではない。もちろん「魔夢」は日常言語ではない。現場が使う言葉だ。様子を見るか忍容性の限界を超えたとして薬を切り替えるか、「魔夢」はその判断を左右するほどの「異常な夢」だ。

 それでは、この「異常な夢」の一例をみてみよう。経験者は筆者である。服用はハルシオンのジェネリックであるトリアゾラム0.25mg1錠だ。非ベンゾを長々と語っておきながらベンゾである。デエビゴの良さを語りたかったのだ。なお、「デエビゴといえば悪夢」というくらいデエビゴも「異常な夢」で忍容性アタックをしかけてくることで有名である。もちろん薬には個人差があるので(そしてこの手の薬につきものだがその個人差が激しい)全く出ない者もある。

 今回筆記する「異常な夢」は2月23日就寝前にこれを飲み、翌日24日午前11時頃~13時頃の午睡により得た添付文書が言うところの「多夢」「魔夢」である。起床直後にメモしたものだ。興味深いことだが、以下「薬物動態 1.生物学的同等性試験」で確認できるとおりトリアゾラムは飲んで15分もすれば効き始め以後速やかに血中濃度が落ち込む超短時間作用型の睡眠導入剤である。

 半減期が約3時間のこの睡眠導入剤であるが、私の場合「魔夢」は必ず午睡の際に出る。あるいは、午睡の際の「魔夢」だけが記憶されている。いずれにせよ面白いことだ。

経験談

当然ながら全く哲学的な議論を含まない単なる夢の記載であるため、流し読みで問題ない。内容を覚えておく必要も、共感する必要もない。全て不要である。そして、最も大切なことだがこの夢の記載を「異常」だと認識する必要もない。本noteの哲学的目的や睡眠導入剤の副作用の話を忘れて「ひとつの夢」の話としてただ観察してみてほしい。

 異常な夢をみた。恐らく、私はこの夢を少なくとも十数日間見続けている。この夢は三層に区分される。

 第一層「鯨と小学二年生の男の子」
 第二層「ひどく切実な報復のための追跡を受ける夢」
 第三層「現実」

 夢はこの三層構造で現れた。私は必ずまず第二層にいる。第二層の場所は決まっていなくて、中学時代の校庭だったり、実家の近所のスーパー前の駐車場だったりする。

 ただし第二層では絶対に決まっていることがある。主観人物は私で、必ず20年は会っていないはずのあまりに疎遠な、今は当然連絡先も知らない昔のクラスメイト(特定個人であり、この人物も固定で変更がない)が切実な憎悪を私に向けている。これが第二層の絶対的なルールだ。

 私に向けられる憎悪は非現実的で不当だと夢の中の私は認識している。彼は彼自身が私から受けた許しがたい悪行により激憤している。彼はまた、彼以外の幾人かのクラスメイト(男子もいれば女子もいる)もまた私の被害に遭っているものとして私を憎悪している。義憤と呼ぶには濃厚すぎる軽蔑と澱んだ怒りが彼の中で燃え続けている。ここまでは、彼の状況についての私の理解だ。

 けれど第二層にいる私は現実の小中学時代の自分を知っている。彼と私は険悪な仲ではなく、小学時代私はたとえ上手く捌けても腕が骨まで痛む彼の回し蹴りについて同門で最も痛烈でうつくしいと尊敬していたし、中学時代は既に縁遠いながら温和な仲だった。

 彼に対してのみに留まらず私は小中学校の男女複数名に対し他者の記憶に強烈に残るような作為としての悪行はしていないはずだと認識している。加害者の常だが、もちろん私が過去の悪行を誤認・忘却している可能性は多々ある。しかしそれはそれとして、彼が語った私の悪行は全て私には覚えがないことなのだ。絶対にそのような事実はなかったと断言できるものしか出てこないのだ。

 つまり、登場する全ての人物に対して私が悪行をなしたと彼が訴える第二層の世界を、私はおかしいと思っている。けれど同時に、第二層の私はどこか酷薄で露悪的で暴力的で破滅的な性格をしている。

 普段私が好まないうえに我慢して抑圧しているわけでもない、つまりそもそも本来持っていない「最悪の積極的ないじめっこ」のような性格で第二層の私はものを考えている。この私は俯瞰されているのではなく現実同様私として私がそのように思考している。

 第二層に必ず現れる彼を幾度か私は暴力で撃退している。そのとき必ず、慣れた手付きで顎先を打つような正拳突きを用いる。これは2つの意味で奇妙だ。まず現実の私は弱い。実践的な喧嘩は勿論のこと、型も満足にできていない少年だった。同い年の門下たちの中で最弱だったはずだ。さらに、上段攻撃への払いは中段下段とあわせて習ったが、顔面への殴打法は絶対に習っていない。

 このあたりを認識しだすと憎悪から逃げながら第二層での私の意識は混濁しはじめ、気がつくと第一層に放られる。

 第一層は白黒の漫画の世界で私は「いない」。神のように世界を俯瞰している。

 主役は小学二年生の男の子だが、この男の子については「彼がある鯨の個体の天敵である」という情報しかない。その鯨は奇妙な形をしていて、巨大だが黒いエイのような扁平な体と表皮をしていて、薄べったい長方形、巨大な羊羹にも思えるシルエットを持っている。縦に3つ並んだこれもまたエイを思わせる鰓を持ち、口はジンベエザメのように開いている。どう見ても鯨ではないのだが、それが第一層の鯨だ。

 この圧倒的なフォルムを見せつけ遊泳しながら鯨は小学二年生の陸にいる男の子を宿敵ではなく天敵だと思っている。

 少年は老年の師を持っていて、師は決して漁師等ではなくどちらかというとダイビング、特に鯨とは関係ないだろうケイブ(洞窟潜水)の危険性を力説する。ペンギンを追って海底の洞窟に侵入し、いつの間にか対象を見失い、また迷宮のような海中の洞窟で迷い、手にした人工灯に照らされたうつくしい洞窟の中で酸素が枯渇していく恐怖を老人は語るのだ。

 第一層はそういった世界説明に終始し、「少年と鯨」という本題に一切触れられない。つまりどういう漫画なんだ? と首を傾げる私はいつの間にか第二層、あの憎悪の世界に戻っている。

 私は第一層という漫画のことが気になっているけれど、すぐに「彼」が憎悪とともにやってくる。この第二層と第一層のサイクルが繰り返され憎悪は激化する。

 しかし私は突然目を覚ます。いつもの部屋。いつものベッド。なぜか父が遊びに来ていてコントローラーを握っている。よく寝ていたと父は笑うものの、私は10分ほどしか眠れていなかったと思いながら強烈な睡魔に負けそうになる。その中で、この「現実」は夢ではないかと思う。こここそが第三層である。

 この第三層で私はすぐに眠り第二層に戻る。第三層には体感で1~3分ほどしか滞在しない。ちなみに第三層では10分ほどしか眠れなかったと思っている私だが、第二層と第一層のサイクルはそのサイクルの中にいる私にとっては体感数時間である。解放されて第三層に至って実際寝ていたのは10分程度だったと思うわけだ。

 さて、第三層で睡魔に負けた私は昏睡し第二層に戻る。第二層の憎悪は要領を得ない第一層とのサイクルの中で激化し続け(第一層はずっと平坦である)、度々第三層で私は「目覚める」。

 校庭だったりスーパーだったりで様変わりする第二層と違い第三層は空間の連続性がある。何度起きても部屋で、父がゲームをしている。そして父が「今日のお前は目茶苦茶よく寝るな」と笑う。私はその父の言葉によって、空間だけでなく時間の連続性をも確認し、第三層を「現実」であると確信しやや驚愕する。

 第三層は夢ではないかとどこかで思っていたのに、あまりにもそこは現実だったからだ。私の持たないVR関連機器まで父は使っているのだが、私はそのことに異常を覚えない。

 そして第三層を現実だと確信した私がまた強烈な睡魔に負け2分ほどで眠りに落ちた先、最後の第二層は最悪に至る。「そんな事実は存在しない」と確信する数々の被害を根拠に彼の憎悪が私を襲う。絶対にそんなことはないのに苦悶する中学時代のクラスメイトたちの姿が想起される。そのクラスメイトたちの中には「現実には存在しない人たち」もいた。

 誤解を解きたいと切実に思っているのに、それと同時に私はなぜか暴力的な性格をした人間で、そのことに発狂しそうになる。

 そして最後の最後。第二層に穴が開く。

 真四角に刳り貫かれた深い真っ黒の穴だ。私はそこを墜落する。

 落ちながら、完全に黒い(光をほぼ吸収する塗料、あの黒だ)壁面にクラスメイトたちの姿と共に私を呪う言葉が読めないほど大量に表示される。文字だけでなく呪う声まで響く。落下する恐怖と身に覚えのない憎悪を受けながら、私は底に落ちる。確かな衝撃を感じる。ふわりと柔らかいクッションに受け止められる感触だ。

 底はベッド、現実だ。第三層ではない本物の現実。

 完全にクリアな意識と払拭された眠気、強烈な爽快感とともに私は天井を見上げて、すごい夢を見たとスマホに打ち込んでいる。

 三層構造の濃厚な夢を見たと興奮を隠しきれていない。およそ全ての夢がそうであるように、その異常経験を他者に語ったところでかいはないと知りながらフリックしている。

 ただ、ひとつだけ気持ち悪いことがある。第二層の私は「またこの夢だ。もう十数日だ」とうんざりしていた。私は本当に十数日の間このような夢を見続けているのだろうか。

 現実の私にその覚えはないが、多くの夢は記憶に残らない。第二層という地獄に私は囚われ続けているのか?

 ……実のところ、からくりはとても単純だ。不眠の私が使っている睡眠導入剤は「多夢」と「魔夢」の両方が副作用として併記されている。私の場合、二度寝するとそれが強く出るだけのこと。

 現に昨日も変な夢のツイートをしている。十中八九、「またこの夢だ」と確信している「はじめての夢」を私はみたのだろう。

 そして万が一、仮にもう一度この夢の記憶を持ち帰ることができたとしても、「第二層」から脱する方法はとても簡単だ。睡眠導入剤を変えれば良い。ただ、それだけのことだ。

 かつて神秘的に語られた金縛りが睡眠麻痺に過ぎなかったように、金縛りに伴いあらわれる物音や姿が入眠時幻覚に過ぎないように、こういった「異常な夢」もまた薬の副作用によるものに過ぎない。

 医療用医薬品添付文書の副作用に「魔夢」と書いてあるのは少しだけ面白いことだ。「夢の話は共感を得ず歯痒い」のは誰もが知る所なのだけれども、医薬品医療機器等法に定める要領に従って作成された添付文書に、時に忍容性にすら影響を及ぼす副作用として「魔夢」が記載されてあり、個別の夢は共感を得ないものの「夢に異常性があること」を掴めてしまうのはなかなか特権的だ。

 夢とはそもそもが尋常ではない。にも関わらず、「夢の尋常を外れた夢」は法定様式の上に存在を示されている。「夢の話は共感を得ない」ことを逆手に取って、「異常な夢」を知っていることは、一人だけ「色」を見たことのある大量にメアリーがいる部屋の例外メアリーのように、私秘的な優越感を人に覚えさせるかもしれない。もちろん、そんな優越感よりも安眠がほしい。この「異常な夢」は苦痛である。だからこそ「魔夢」は特記に足る「副作用」として記載されているのである。


理解できない「魔夢」を「クオリア」概念への入門素材として用いるという提言

 以上、いかがだろうか。おそらく上述の夢の何が「魔夢」、「異常な夢」であるか理解できなかったはずだ。わかったと思う人はぜひ説明してみてほしい。「通常の夢」と「異常な夢」の何が違うのかを。あなたに哲学的素養か科学的素養のどちらかがあるならば説明できないはずだ。

 哲学的素養があるならば、夢という日常言語についてどこまでが通常でありどこからが異常であるかという線引きがなされていないことから、上のサンプルをもってして通常と異常を切り分けることはできないと判断するだろう。火災報知器は正常に稼働していれば通常と異常を切り分けるが、夢の通常と異常を切り分ける概念上のアイテムは存在しない。よって説明不能である。

 科学的素養があるならば、「早まった一般化」の誤謬をあなたは避けようとするだろう。今語られたのはたった1つの主観的文書報告サンプルである。そこから「異常な夢」の概念を抽出するというのは科学的態度を持つ者が行うことではない。特に非ベンゾジアゼピン系の睡眠導入剤に「異常な夢」が副作用として記載されているのは、忍容性にすら影響を与えるものとして副作用報告データが一定量積み上がったからである。

 「異常な夢」は存在する。その「ありありとした感覚の報告」は「法定様式の添付文書に副作用と記載される特別なもの」として観察可能である。しかし、「この副作用を受けた者にしかその感覚がどんな感じであるのかわからない」。

 クオリアを扱う際に内省報告をデータとして取り扱うことは既にデネットが提案済である。それはヘテロ現象学と呼ばれる。私の提案する新規性はここにはない。

 「異常な夢」「魔夢」を入門として取り扱うことのなにがそんなにおいしいのか。「体感したことのない存在する感覚」を思考実験に頼らず現実の事例として取り扱えることがおいしいのである。

 白黒の部屋にメアリーを閉じ込めて物理的に全知になるまで鍛え上げてから外に出す必要はない。「ほかならぬあなたが魔夢を経験したことがない」と言えるのだ。

 このとき、クオリアは入門的にとても語りやすい概念になる。「一度も睡眠導入剤を飲んだことがなくとも魔夢の物理的メカニズムを解明すれば魔夢について全知である」とするのが物理主義である。自転車を実際にこげなくても自転車の適切なこぎ方を科学的に語ることができれば自転車のこぎ方について全知であることと同様に、魔夢の物理的メカニズムを説き明かせれば魔夢について全知なのだ。経験しているかどうかなど知識という点ではどうでもいい、私秘的な、一人称的な、実際に睡眠導入剤を飲まなければわからない「魔夢」の「知識」など存在しないというわけだ。

 「魔夢の物理的メカニズムを解明しただけでは実際に魔夢を見たことのないあなたは魔夢をまだ十全には知らない。つまり、既存の科学の手続きだけでは解明できない魔夢についての「知識」がある。それこそが意識のハードプロブレムである。科学は既存の手続きではこの「知識」にアプローチできない。ゆえに科学の手続きは改訂されなければならない」としてクオリアを語るのがチャーマーズの立場だ。これはクオリアだけでなく「意識のハードプロブレムは存在するか」というクオリア問題の根本、そして「科学の手続きはこれにより改訂されるべきか」という更なる根本の理解をも補助する。

 科学に立脚した【魔】を補助線にして「クオリア」をかみ砕けるわけである。これならば、物理主義者はもちろんどのような初学者でも「赤の赤い感じ」よりはるかにピンとくるだろう。明晰に主義で場合分けして多義的な「クオリア」とその論争の芯を捉えることができる。

 最先端の論争はともかく、「クオリア問題」のある程度の時期までの歴史の流れを追うことは先哲の整理の努力のおかげでかなり容易になっている。しかし、そもそもの「クオリア」にとっつくのが難しい。「異常な夢」はそのとっかかりとして極めて有用であり、明晰な抽象化と地に足の付いた具体化を好む分析哲学徒にとっては好適の素材ではなかろうかと期待するものである。

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