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大石の思案(しあん)柱 その3(全3回)

4月18日脇坂安照わきさかやすてる木下公定きのしたきんさだの大群が赤穂藩領を取り囲んだ中、ふたりのお役人が内蔵助たちの案内でお城へ入って行って中を見回ったんだ。キレイにおそうじされていて諸道具しょどうぐがすっかり整理されて目録もくろくもすべて作られてあったんだよ。この時内蔵助はお役人ふたりにねお家再興いえさいこうのことを、赤穂藩が戻れるようにと幕府へ伝えてくれるようていねいに頭を下げてお願いしたというんだよ。そして、朝7時、脇坂と木下の軍勢がお城へと入って行ったんだ。こうして赤穂藩の取り潰しとなっていったんだ。

美濃みのの大垣にはね、浅野内匠頭長矩のいとこの戸田家10万石の4代藩主氏定うじさだ公がいたのさ。浅野内匠頭長矩公とはお母さんが姉妹だったからいとこだったんだね。氏定公はね、この事件の後始末を幕府から頼まれていたんだね。内蔵助は何度も美濃の大垣まで行っては氏定公にお願いをしていたよ。赤穂藩を前のように戻して欲しいってね。でもダメだったよ。吉良上野介にも何の罰もなかったんだ。内蔵助はね、清兵衛の家の床柱に寄りかかりながらいろんなことを考えていったよ。遠くに散っていった者たちにお金を渡してあげたりね。あちこちへ赤穂藩を元へ戻してもらえるようにとお手紙も書いてみたんだ。でも、ダメだった。仕方なかったんだ。あだを打つしかなかったんだ。

次の年の元禄15年(1702年)12月14日大石内蔵助と赤穂藩のなかまたち47人が真夜中に吉良のお屋敷の中に討ち入って吉良上野介を打ち取ったんだ。主君浅野内匠頭長矩公の仇討ちをやり遂げたんだ。薄氷うすごおりのはるとても寒くて月明かりのキレイな日だったと言うよ。これが赤穂四十七士あこうしじゅうしちしさ。東京都港区の泉岳寺せんがくじに内蔵助たちのお墓があるよ。今でもお線香の火が絶えないというよ。

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#日本史 #江戸時代 #忠臣蔵 #赤穂四十七士

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