怖さの先にあったもの


ひとつ前の記事に書いた、友達という存在への古い記憶、もういらない設定、ひとつひとつ見つめては手放しを繰り返して(よく言われるけれどほんとうに)玉ねぎの皮を剥くように、心の奥に潜ってみたら最後に出てきたのはすぐ認めるには抵抗のある、でも間違いなくわたしの深いところからの願いでした。
その怖さはエゴから。今まで散々見ないフリをしてきたことを真正面から見つめていくことになるのだから。そりゃ怖くて当たり前。
でも、その怖さに飲み込まれないことももう知ってるからその願いを受け入れてみようと思った。
「人に出会いたいのだ、わたしは」
こうして書いてみると大したことではないな、とも思うけど、口に出すのは勇気がいることだった。
その気づきは長野にいたときだったので、一緒にいたえつこさんに伝えたのだけど、伝えるときも怖かった。
それは宣言するような感覚で、口にしてしまったらもう逃げられないようなそんな気さえしたから。
でもそれもエゴの見てる世界。
間違いも失敗もなくて、ただ体験があるだけなのだから、怖さも心配も幻想なのだ。
わたしはわたしの願いを知ることができて嬉しい。そう思ったら自然と落ち着いた。
ただ体験していく世界があるんだなぁと。

怖いのになぜか企画してしまう自分にも納得。
怖いと騒ぎながらもちゃんと願いも叶えようとする自分がなんだか愛おしい。

そして、長野でもうひとつわかったこと。
レムリアの記憶の解放が少しずつ起きていること、スピリチュアルに対する抵抗感も以前より薄らいできてる。たぶんもう少ししたらその道も見えてくるのかも。

何かを埋めるための行動はしない。起こることを信頼し、立ち上がったものを受け止めて見つめて感じていくのだ。ひとつひとつ新しい扉が現れてくるから。

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