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継続している「だけ」では意味がない?

たまたま見かけたツイートに、心をグサーっとやられました。

\ 継続してるだけで試行錯誤してない /

思い当たるフシがありすぎますね(笑)「毎日noteの更新をして410日目」「継続するためには〜〜」という発信をしてる分、刺さる刺さる。

でも「継続に加えて、試行錯誤が大事」というのは、本当にその通りだなと思います。


たとえば試行錯誤をすることなく、「今日は○○をしました。楽しかったです」だけの文章を410日書き続けたとします。

それは、日々を記録する尊い行為です。

だけどもし書いている本人が「成長したい」「文章をよりよくしていきたい」と思っていたとしたら、やっぱりちょっと違いますよね。

これは極端な例ですが、記事の更新頻度にとらわれて「今日も書かなきゃ〜」と惰性で続けている、なんてことはよくあることだと思うのです。(自分で書いてて耳が痛いんですが)


だから、「これを続けて何になるんだろう…」と思ったときってチャンスなんですよね。

きっと自分のなかでも、「惰性で続けているな」「変わっていないな」という自覚があるからこそ悩むと思うんです。

そして、よりよくしていきたいと願う気持ちも。

だからこそ、試行錯誤できるいい機会にしちゃいましょうという提案です。


じゃあ試行錯誤といっても具体的にどうすればいいのかというと、いろいろ方法はあると思いますが、

大事なのは、「誰に向けて書きたいか」を想像することだと思うんですね。

届けたい人のイメージがあることで、

・何を書くか
・どうしたら伝わるか

の試行錯誤ができます。

たとえば料理をつくるときも、誰が食べるのか分からないと何が喜んでもらえるか分からない。

でも、若い男性だったらコロッケやからあげ(いや、知らないけどw)、高齢者だったら柔らかいもの、と見当をつけられるわけです。

文章もそうで、届けたい相手が主婦か学生かでは声のかけ方が変わりますし、読んでくれる人をガツンと盛り上げたいのか、静かに悩みによりそいたいのかでも異なってきます。

このように、「どうしたら届けたい人に届くかな?」と考えることで、よりよい文章になっていくと私は思います。


ただ、「誰かのために書く」にふりきりすぎると書けなくなっちゃうんですよね。

私自身、「役に立つことを書かなきゃ」「でもそんな知識も経験もない」と手が止まったことが何度もあって。

「誰かのためになんて書けない〜」とジタバタしながらも、noteの更新を続けてきて「これいい!!」と思った方法が

・まず「自分が」書きたいことを書く
・それを必要としている人は誰か思い浮かべる

ことでした。

ベースは自分の書きたいこと。そこから「この文章を必要としている人がいるとしたら、どんな人だろう?」と思い浮かべ、必要に応じて加筆・修正をする。

そうすることで、「自分のため」と「人のため」のバランスが整っていくし、なにより穏やかに書き続けられる方法なのかなと思います。


と偉そうに書いてますが、このバランスが崩れているときなんてたくさんあって(笑)

どちらか一方に傾いては「ちょっと違ったな」を繰り返しながら、これからも書いていきたいなと思います。


この記事を書けたのは、マクリンさんのツイートのおかげでした。きっかけを、ありがとうございます。


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