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阪神大震災から26年過ぎて思い出したこと、そして今思うこと。


 1995年1月17日5時46分52秒。

 それから、もう26年になります。

 当時、大学生で神戸市の舞子駅を最寄駅にマンションの4階で一人暮らしをしていました。

 朝、まだ寝ていた時に、「ドーン!」という大きな音と自分の体が上から下に落ちるような揺れで目が覚めて、10トンのダンプカーでもマンションに突っ込んできたんじゃないかと思った瞬間、激しい揺れに襲われ、必死に自分が傷つかないように掛け布団を頭まで被って、パイプベットから振り落とされないように必死に掛け布団とパイプベットにしがみついて、ガシャガシャとものが落ち続ける音が暗闇に響き渡る中、永遠に揺れ続けるんじゃないかと思った揺れがおさまるのを必死に耐えていた記憶があります。揺れは、パイプベットを箱の中に入れられて、そして両手でシェイクされているような、そんな揺れでした。揺れがおさまった瞬間に「生きててよかった」、そう思ったのを、強く、覚えています。

 揺れがおさまってまだ真っ暗な中、部屋の中にいるのは危ないと思って、裸足で何も見えない真っ暗な部屋の中を、物が落ち、家具が動いていつもとは様子が違う部屋をそっとそっと手探りで外に出た時に、マンションの一つ上の会に住んでいた大学の友人が「大丈夫か?」と様子を見に降りてきてくれて、それで心からほっとしたのを覚えています。そして、友人と一緒に住んでいた彼女との三人で「こんなに神戸が揺れたんだったら、日本海側って街が壊れてるんじゃないか?」という会話を交わしました。つい数日前に日本海側で大きめの地震があり、それまで全く地震がなかった関西が震源地になるなんて夢にも思っていなかったのです。そして、私が住んでいた場所が、震源地からたった5キロしか離れていなかったことを知ったのは、これよりももう少し後のことでした。

 とりあえず建物内にいるのは危ないから外に出ようと、三人で明るくなりかけていた中を階段を一緒に降り、そして外に出て愕然とします。目の前の道路にどこまでも続く深い亀裂が入り、30cmほどの段差が道路の真ん中にできていました。とても、車が走れるような状態ではありません。しばらく外にいて、そして2回目の揺れがまだ来ないことを確認だけして、もう一度階段を上り部屋に戻りました。そしてドアを開けて、その目の前の光景に立ち尽くしました。部屋の中で壊れていない物がないのです。当時ブラウン管でかなり重かったはずのテレビは1mほど飛んで落ち、一人暮らし用とはいえ2ドアだった冷蔵庫は50cmほど動いて狭い通路を塞いでいました。私はその隙間を通って、そして、全ての食器が割れ落ちているその隙間を、裸足で食器の破片の上を歩いて外に出ていたのです。幸いにも足に怪我はしていなくて、そのことにさえ家のドアを開けてから初めて気づきました。ドアを開け放って固定して、とりあえず怪我をしないように無事な靴を履いて部屋に入りました。

 当時はまだ学生で携帯電話なんて持っていないくて。やっと自分が生きていることを実感して、実家に電話をかけなければと思い立って、電話の受話器を持ち上げるとかかってくる音はなるけれども、振り落とされた電話は壊れてしまってかけることはできず。慌てて今はもう見ることさえないテレホンカードを片手にマンション側の公衆電話に行って実家に電話をかけたのが、多分揺れから1−2時間ほどの頃じゃなかったかと思います。そして、そこで初めて知ったのでした。日本海側ではなくて、神戸が、まだ建設中だった明石大橋あたりの家からも遠目に見える場所が震源地で、そして神戸の街が破壊されてしまったことを。


 そこからは断片的にしか覚えていません。震源地の直ぐ側に住んでいたけれども、被災地と言われる地域の西の端のほうに位置していたこともあって、有難いことに電気は割と早く戻ってきました。それでも水は2ヶ月半以上、ガスは3ヶ月以上戻ってこない中で生活を送っていました。

 地震の直後は、食料を確保に近所のコンビニにいったら、すでにいろんな物が持ち去られてお店に何も食べる物が残ってなかったこと。そんな中でもみんなの為にとパンを焼いて販売してくれたパン屋さんがいたこと。運がいいことに近所に浄水施設があったので、1週間しない間に1日一回お水を貰いにいくことができたこと。歩いて20分ほどの学生ばかりが住んでいるマンションに住んでいた友人たちが心配して来てくれて、お互いに情報交換できたこと。この時ほどほっとしたことはありません。友人が何度も電話をかけてきてくれていたのに家の電話では出ることもできなくて、慌てて公衆電話に走って連絡したこともありました。極限の状態になった時に、良くも悪くも人の本性が出るということを体感したことも多くありました。

 必死に生きていたので、細かな記憶はあまり覚えていません。ただ、そんな中でとても私がラッキーだったのは、友人が声をかけてくれ一緒に過ごしてくれて、一人で過ごす時間が少なかったこと。20分かけて歩いてきてくれた友人が、大学の体育館が救援物資が届く物流拠点になっていて、そこでボランティア出来ると教えてくれたこと。道路はバキバキに割れて、30cmもの段差はできていたけども、原付スクーターなら移動はできたこと。
 ボランティアが出来ると聞いて、そこで毎日ボランティアにきてくれる方に毎日今日は何をするのかを取りまとめて指示をするボランティアリーダーの仲間に入れてもらい、毎日毎日救援物資の仕分けのために通いました。朝から暗くなるまで働いて、翌日の内容を確認して、そして救援物資の食べ物を少し頂いて食べて家に帰る。眠って、そしてまたボランティアに向かう。

 友人がいて、仲間がいて、思いやってくれる人たちがいて孤独ではなかったこと。毎日何かしらやることがあって、余計なことを考えずにすんだこと。これがなければ、友人が近くにいなければ、ボランティアリーダーをやっていなかったら、私はどうなっていたのか。想像すらつきません。やることがあったから、正常な精神状態を保てていたのだろうと今なら思います。「人は人に生かされている」それを改めて実感する経験でした。


 当時、地震から2週間ほどしてやっと焼け野原となった長田の街を車で訪れた時、言葉を失いました。ドアを開けて外に立った時に、涙が勝手に溢れ出しました。友人たちが住んでいた場所が、何もないのです。そこに生活していた人がたくさんいるのに何もないのです。自分が立っている場所が、全てが焼け落ち目印もなにもなくて、どこに立っているのかさえ分からないのです。社会科の教科書に載っていた東京大空襲の写真と同じ光景が、そこには広がっていました。外にそのままいると危ないということで直ぐに車に戻り、女性が一人いると危ないからと車で待つ間も鍵をかけて過ごしました。

 アルバイトをしていた三宮の生田神社前の通りにあったビルは崩れ落ちて無くなり、よく買い物にも行っていた新神戸に続くメインストリートはビルが倒れて塞がり、この街はいつ元に戻るんだろうと呆然としたことも、そしてその光景も目に焼き付いたままです。


 当時いろんな事がありました。それでも私は生きています。何もない中でただ待っているだけでは生きていけないとも思いました。それは自分で動けるから思えたことかもしれません。それでも動ける健康体であるのであれば、待つだけではなく自分から動かなければ何も変わらない、生きていけないと強く思いました。

 生かされた命であるのならば、思う存分生きることを味わいたい。好きなことを、楽しいと思うことを、自分が面白そうと思ったことを思う存分やってみよう。そう強く心に誓ったことが、今の私に繋がっています。時に忘れちゃうこともあるけれども。常に何か面白そうと思ったことにチャレンジしてみようと。今でも「面白うそう」が私の選択の基準の一つになっています。

 当時の友人たちは、もう連絡先も分からない人もいるけれど、そして卒業後一度も会っていない人もいるけれど、その時に、一緒に過ごすことができたからこそ、今の私はいて、そして必死に生きることが出来たと思っています。一緒に過ごしてくれたことに心からの感謝と、犠牲になられな方々に心からの祈りを。そして、全ての人が平和に安全に心やすらかに過ごせる世界になりますように。


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 今日の台北の空は、台北の冬らしく雨と曇り空でした。それでもまたいつかは晴れます。青空が顔を覗かせます。その青空を心より願って。

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