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わたしたちは、戦争は体験こそしていないけど。常に戦争が起きている時代に生きている 〜映画『ハクソーリッジ』レビュー〜

“毎年6月は沖縄県にとっては大切な時期であり、平和を願い、あの激しかった沖縄戦を忘れることなく、後世に伝えるための数々の催し物が行われます。浦添市では、本作『ハクソー・リッジ』を通じて沖縄戦や前田高地での戦いに関心をもった人への平和学習や、平和パネル展といった企画の実施により平和を学ぶ機 会を設けるなど、平和事業に取り組んでまいります。”
http://www.city.urasoe.lg.jp/docs/2017050200104/
(文中引用)ー浦添市ウェブサイトー


日本という国に住みながら、
戦争という悲しい体験をした国に住みながら、

この、沖縄戦・前田高地での戦いの事など、全く知らなかった。どれだけ平和ボケしてしまっているのだろうか。自分の知識のなさ、無関さに愕然とした。

映画『ハクソー・リッジ』は、アメリカ軍と日本軍の激しい攻防戦を、ものすごい迫力で描いた作品だ。しかしながら、公開当時は、あまり日本国内では盛り上がらず、一部の映画好きにしか称賛されなかった気がする。極めて残念だ。

さらには、一部では『反日映画だ』とかいう論調さえあった。
実に、悲しく寂しい気持ちになってしまう。

アンジェリーナ・ジョリー監督の映画『アンブロークン』の公開時もそうだった。日本兵をアメリカ軍側から描くと、どうしても日本国内の世論は『反日映画』と受け止めてしまう人々がある一定数いる。『アンブロークン』も鑑賞したけれど、どこからどうみたら反日映画になるのかが、よく分からなかった。

ここからは個人的な感覚だが、あまりにも日本では第二次世界大戦の事を語られなさすぎて、どこか触れてはならないものとして封印したがっているのかもしれない。それはそれで気持ちはわかるし、日本人として、そこは不問にしたいと思う。

しかしながら、『アンブロークン』しかり『ハクソー・リッジ』しかり、このような映画を『反日映画』として観てしまうのなら、その思想こそ戦争を賛美・肯定している感覚に近いように感じてしまう側面があると思う。

現在の価値観とは異なる、軍拡を正義としていたあの時代であったとはいえ、日本軍が行った事を客観視できずして、どうやって今後の日本の平和を考えていくのか?という疑問である。

平和な時代を生きている私達だからこそ、あの時代の歴史を客観視することが最も求められている感覚だ。

当然のごとく、あの大戦で命を落とされた全ての魂に慰霊する心は忘れてはいけない。強く深い慰霊の心を持ちながらも、それと同時に、流れた血や涙をセンチメンタルだけで片付けてはいけないのだと思う。

あの時、どんな政治判断がなされたのか、あの時、国民はどんな選択をしたのか、歴史に学びこれからの時代にあった冷静な判断をすることが、今の時代を生かされている私達の使命だといつも思う。

実際、映画『ハクソー・リッジ』で描かれた日本兵の描写は、確かに主人公側からしたら『敵』側だった。私は日本人だから、主人公が身をおく米軍に感情移入する のは、ちょっとおかしい。しかしながら、『ちょっとおかしい』と思いながらも、主人公の姿に、一定の理解を示してしまうほど映画の力は大きかった。

なぜ主人公の姿に一定の理解を示すことができたか。

それは、そのすさまじい描写の数々の中にメル・ギブソン監督の配慮および敬意が感じられたからである。そこにあるのは、日本兵への憎しみではなく、悲惨な歴史全体への憎しみや悲哀であると感じられたからだ。

沖縄戦や前田高地での戦いは、とても激しい闘いだった。

多くのアメリカ兵がPTSDになるほどの激戦区であったのだから、実際は映画では言い表せない現状だったのだろう。平和な日本で暮らす我々には、想像すらできない。

しかし本作では、ある一定の配慮がなされているように感じた。

そこにこそ、平和への監督のメッセージが含まれているのではないだろうかとも思うし、日本人として、そう感じざるを得ない。


映画公開当時、Twitterで撮影中のオフショット写真が流れてきた。

メル・ギブソン監督と日本兵を演じたキャストとの記念写真である。この1枚の写真に、ものすごく心動かされた。

70年後には、映画化され、こんな風にオフショットの写真になる。

あの激戦区を闘った日米の軍人さん達は想像だにしなかった事だろう。

今、どんな思いで、この写真を眺めているだろうか?
いつも、日本の大地に染み付いた先人の血液と涙、そして握りしめた荒野の土のぬくもりを、わたしたちは常に思い馳せなければならないと感じてやまない。



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