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今夜も呑みますか。


「おっちゃん、がんもとコンニャク」

「はいよ」

「あ、あと卵な」

「卵ね」


この店に通うようになって、何年になるだろう。

自宅から近いから呑みたくなったら、自然と足が向く。

「がんもとコンニャク、それと卵、お待ち」

「熱そうだな」

「そりゃ熱いさ、おでんだからな」


俺は目の前にある、辛子の入った小ぶりの瓶の蓋を開け、中から多目に辛子を取ると、おでんの皿の付ける。

「相変わらずたくさん取るな、涼は」

店主は笑顔でそう話す。

「辛いの好きだからね。特に和辛子は、そんなに辛くないから量を多く付けるんだ」


先ずは卵が無難かな。

俺は猫舌だから、がんもは危険だ。

噛むとじゅわ〜熱々の汁が出る。

卵、コンニャク、がんもの順番に決める。


「なぁ涼」おっちゃんが話しかけてくる。

「なに?美味いな卵。味が染みてて」

「春ちゃんと別居して何年になる?」

「いきなりだな、おっちゃん。そうだなぁ

3年は経つかな」


「もう3年か、早いな」

おっちゃんはしみじみ云う。

「やり直す気はあるんだろう?」

「あるよ、俺はね。家内の気持ちは知らないけれど」


俺と妻は別居している。

いま云った通り、3年経つ。

別居の原因、それは妻の春陽(はるひ)の浮気だった。

俺が妻に男の影を感じて、問い詰めたんだ。

彼女は、あっさり認めた。

でも……それはただの浮気じゃなかったことを俺は、まだ知らずにいた。


         🌅🌠


卵を食べ終えたところで梅サワーを注文した。

『おでんには、日本酒だろ』

よくそう云われる。

でも俺は日本酒は呑めない。

というか、呑まないことに決めてる。


亡くなったオヤジがアル中だった。

朝から一升瓶を抱えて呑んだくれていた。

当然、仕事など行くはずもない。

生活費はお袋が懸命に働いて、やっとカツカツの生活を送っていた。

そんな毎日を過ごしていたら、日本酒を浴びるように呑むオヤジとは、同じことをしたくない。

そう思うようになった。


別居の話しに戻ると、俺は春陽に出ていけとは云ってはいない。

妻は泣いて謝ったし、浮気のきっかけは、俺にあるようなものだから。

謝るのは俺の方だったのだ。

それに、あれは浮気なんて呼べない。


俺の給料が少ないから、妻は昼間の仕事を辞めて、スナックで働くようになっていた。

その仕事が悪いわけじゃない。

ただ、客の中に春陽に、目を付けた奴がいたんだ。


「おっちゃん、やっぱり大卒と違って、高卒は不利なんだな」


おっちゃんは最初は黙っていたが、

「そうさなぁ、サラリーマンの世界は知らないが、そうかも知れないな。おっちゃんは中学を出て直ぐに、親父の居酒屋で働いたからな」


借金をしてでも大学は出ておくべきだったと思うことがある。

日本という国は、やっぱり学歴が付いて回る。

お袋の収入と俺のバイト代では大学には進めなかった。

だからといって、『奨学金』という借金は作りたくはなかった。


だから高校を出て直ぐに社会人として働くようにしたんだ。

悪い会社では、なかった。

そう……思っていた……。

高校では勉強を頑張ったので、俺は名前の知られた会社に入ることが出来た。


でも、仕事は良かったが、対人関係でつまずいた。

毎日、かなりのパワハラを受けて、それでも俺は、仕事をこなしていた。

グッタリして帰宅すると、会社から仕事のメールがバンバン届く。


午前3時になっても、それは治らなかった。

俺は徐々に精神を蝕まれていき、遂には倒れた。

医師からは絶対に働いてはいけない。

そう強く云われてしまい、半年以上、自宅療養するはめになった。

ただ実家で暮らしていたので衣食住には困らずに済んだ。


オヤジは既に、この世には居なかった。

酒の呑み過ぎで肝臓をやられ、1年入院した後、旅だって逝った。

俺は、まだ現役で仕事をしているお袋と二人暮らしをしていた。


   俺は、会社を退職した。

  

       🌅🌠


そんな俺に、なんと恋人が出来たのだ。

自宅療養するようになって、5ヶ月が過ぎた頃、気分のいい日には、散歩を兼ねて図書館まで歩くことにした。

その図書館で、春陽は働いていた。

大人しい読書好きな女性だった。


俺が病院の診察を終えて帰宅する途中で閉館した図書館から、彼女が出てきたところに、ぶつかることがあった。


帰り道が途中まで同じだったので、俺と春陽は、一緒に歩いた。

お互いに読書好きだったので、本や作家の話しをしながら歩いていると、アッという間に別れ道に着いた。


俺はどんどん春陽に惹かれていった。

でも、俺は無職の病人なのだ。

とても彼女に告白出来る身分ではない。

そう思って何も云えずに時間は過ぎていった。


ある日、春陽から、図書館の仕事が休みの日に一緒に出かけませんか?と声をかけられた。

俺はびっくりしたが、嬉しくてたまらなかった。

季節は春で、花見の時期だからと、春陽は、「私のお弁当で良かったら、お花見しましょう」

そう云ってくれた。

もちろん俺には断る理由はなかった。


働いていた頃に貯めた、貯金を切り崩して使っている身分の俺には、安く済む花見のデートは助かった。


約束した日は真っ青な快晴だった。

八分咲きの桜の下で、俺と春陽は広げたシートに座り、食べて話して一日を過ごした。


       🌅🌠


その時、俺は初めて自分の病気のことを詳しく春陽に話しをした。

春陽は熱心に耳を傾けていた。


花見から2ヶ月後、俺はやっと医師から仕事をしてもいいでしょう、と云って貰えるまでに回復した。

春陽も、とても喜んでくれた。


新しく入った会社は、上司の人柄も気さくで、社内の雰囲気は、活気がある中にもピリピリとした感じはなく、居心地の良い職場だった。

ただし給料は、かなり少なかった。


けれど給料のいい会社は、俺みたいな中途採用になると、固定給がバカみたいに安い。だから残業をかなり多くすることになり、また病気を再発しかねない。

だから諦めるしかなかった。


しかし、この収入では、春陽と結婚するのは、ほぼ無理だ。

春陽の図書館の仕事もアルバイトだから、やはり少ない。

悩んでいる俺のことを、春陽は分かっていたのだ。

彼女はスナックの仕事を見付けて来た。


本が大好きで、図書館の仕事も春陽は好きだったのに。

収入の為に大好きな仕事も辞めて、春陽はスナックで働くことを選んだ。

自分はダメな男だと、俺はつくづくそう思った。

情けなかった……。


けれど、春陽の決断のお陰で、俺たちは結婚することが出来た。


        🌅🌠


春陽の浮気。

それはカネの為のものだった。

春陽に惚れた男がカネをチラつかせ、そのカネの為に、妻は浮気をしたのだ。


妻は嘘が顔に出る。

その時も、罪悪感が滲み出ていた。

だから俺は春陽に詰め寄ってしまった。

家計の為に、イヤイヤ浮気をした自分の妻を、何も考えず俺は問い詰めた。

翌日、仕事から帰ると、春陽の持ち物が無くなっていることに気が付いた。

テーブルの上には、真っ白な便箋に


 《ごめんなさい》


そう書いてあった。

春陽は家を出て行ったのだ。


        🌅🌠


「何か作ろうか?」

おっちゃんがそう声をかけて来た。

俺は半分、寝かかっていたらしい。

「涼の好きな厚焼き卵でも焼くか」

「ああ、もらうよ。それにしても、客が来ないな。大丈夫なの?」

「大丈夫って何が」

「潰れたりしない?外の赤提灯も、何だか形が悪いし」

「失礼な、あれがいい味出してるのさ」

そう云っておっちゃんは、奥に消えた。


         🌅🌠


「味ねえ、頼むから潰れないでくれよ。家から一番近くで便利なんだから」

「厚焼き卵、出来たよ」

奥から、皿を持ちながら、おっちゃんが出て来た。

「いつもながら、旨そうだな」

「旨そう、じゃなくて、旨いだろうが。早く食べなよ焼きたてなんだから」

「はいはい、ではいただきます」


湯気の立つ、厚焼きを一口食べる。

「うん、相変わらず旨い、え?」

俺は二口目を食べた。

「おっちゃん、この味」

見ると、おっちゃんがニヤニヤしている。


それを見た俺の目から、一気に涙が溢れた。

ウッウッ……


「泣くのは後にして、早く呼んであげなよ」

「う、うん、そうだね、おっちゃん」

おっちゃんは、涙が流れないように、天井を見上げている。


「お、かえ、り、春陽。ウッウッ……」

奥から、泣き顔の妻が、春陽が出て来た。

「涼が、お帰りだって。返事をしてあげな、春ちゃん」


「た、だい、ま帰り、ました。涼ちゃん。ごめん、なさい」

「謝らなくていいんだ。俺の方こそ、悪かったな」

「夫婦なんだから、並んで座りなよ。春ちゃん早く早く」

春陽は頷くと、遠慮がちに俺の横の椅子に座った。


「いいねえ、夫婦ってのは。春ちゃんも何か呑むかい」

「は、はい。じゃあ、レモンサワーを下さい」

「はいよ、レモンサワーね。おっちゃんも呑むかな。誰も来るはず無いし」

「来るはず無いって」

「涼ちゃん、外に出てみて」春陽が云う。

そと?

俺は立て付けのよくないガラス戸を開けて、表に出た。


おっちゃん……。

ありがとう。


ガラス戸にかかっていたのは、

【本日 貸し切り】 の札だった。


      了









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