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岡崎京子とオザケン。そして、あの頃と今と

岡崎京子さんの漫画『ジオラマボーイ・パノラマガール』が映画化され、2020年秋に公開されることが決定。その特報映像を観ると、小沢健二さんの『ラブリー』を歌う声が聞こえてくる。

日々目まぐるしく変化する東京の街を駆け巡りながら、ドキドキ、ジタバタする、ジオラマボーイとパノラマガールの2人の平行線の恋の行く先が描かれる。


岡崎作品の前期と後期

私は岡崎作品を前期と後期に分けているところがある。それはバブル崩壊の前後と言えるかもしれないし、80年代的/90年代的と分けられるかもしれないし、ノリ(空気感)重視型/ストーリー重視型と分けられるかもしれないし……個人的な意見を言えば、私は91年に東京に上京してきたので、私の上京前/上京後、つまり田舎で読んだか/東京で読んだか、という分け方がしっくりきたりもする(岡崎さんの作品は田舎で読むと、東京の奔放さやドライさが本当に羨ましくなる)。

作品で言えば、『Pink(1989年)』あたりがボーダーだという漠然としたイメージがある。岡崎さんが男性誌から女性誌へ発表の軸足を動かしたあたりと言ってもいいかもしれない。

これまでは後期作品『ヘルタースケルター(1995〜1996年連載)』『リバーズエッジ(1993〜1994年連載)』『チワワちゃん(1996年単行本)』が映画化されてきた。今回の『ジオラマボーイ・パノラマガール(1989年)』が初の(私の中での)前期作品の映画化である。

ストーリーやディテールが書き込まれた後期作品の映像化は、現代に舞台をうつしているにもかかわらず、作品へのリスペクトがあればあるほど、そのディテールを作り込むことに注力してしまう節がある。端的にいうと、それが「古くさい」描写となり、全体の作品のムードを牽引してしまう。そうなると、いやおうなく鼻じらんでしまう。奔放な前期作品の映像化は、ディテール描写に想像(創造?)の余地が多分に残されていると思うので、大いに期待したいところである。

『ジオラマボーイ・パノラマガール』は、普通の女子高生が、ハチャメチャなことをしたくて高校を退学した男の子に恋をする……ザックリと言うとそういう話なのではあるが、原作にあった破天荒エピソードの数々の取捨選択、それにどれくらい新たなる令和的ディテールの味付けをするか、そのさじ加減が明暗を分ける鍵となるような気がしている。


90年代の照れ隠し

小沢健二さんが公式SNSで映画の告知をしていることでも期待度は上がる。

つまり、小沢さんのファンであることを公言していた岡崎京子さんとのタッグとなれば、これまでの作品よりも期待できるものがあるのではないか。そんな算段をする。その一方で、「なぜ『ラブリー(1995年)』?」という思いが私の中ではある。やはり「1989年の作品だったならば、フリッパーズギターでしょうよ」と無理を承知でツッコミたくはなる(かなりの野暮だと分かっているが)。

小沢さんはTwitterで、『ラブリー』の歌詞を引用し、「世界に向かってハローなんつて」の「なんつて」の照れ隠しについて触れている。さらに、それに照れて、照れ隠しを重ねてもいる。

というわけで、もし、『ラブリー』がこの映画の話題づくりではなく、メインテーマなのだとしたら、1995年の照れ隠し、つまりは25年前の照れ隠しのムードが今のZ世代に届くのだろうか? 一抹の、いや大いなる不安が残る。

高校生のリアル

今流れているポカリスウェットのCMを初めてSNSで観た瞬間、この自粛期間で、遠隔で撮影し、それを編集して仕上げたというクリエイティブに関心した。高校生のハツラツしたムードに感動もした。

けれど、その後、テレビで何回かこのCMを観ているうちに、「高校生って、こんなにポジティブだったっけ?」と思うにいたった。さらに言うなら、「大人が求める高校生の姿を演じさせられているだけなのでは?」と。理由は単純で、私がもし今高校生だとしても、絶対にこの中でハツラツと歌う高校生のひとりではなかっただろうし、むしろ、絶対にやりたくないと主張した側だと想像できるから。当時の暗黒時代の記憶が蘇り、勝手につらくなる。


Z世代の映画批評

Z世代が1999年〜2008年にヒットしたラブコメ映画を観た感想コメントをまとめた記事が興味深い。当時大好きだった『500日のサマー』がボッコボコにされていて動揺したが(苦笑)、あの時代に楽しめていたことが、時が経てば必ずしも王道として、正解として語られないことがよく分かる良記事だと思う。


先日、Netflixで配信がスタートした『ハーフ・オブ・イット』は、同じ女子を好きになる男女の友情、その三角関係を繊細に描いた作品。ジェンダー、人種、自己肯定感、自分とは何かというアイデンティティ……まさに、これらが自然に溶け込み語られる世界が、現代のティーンエイジャーが映像世界に求めていることなのではないかと思いを馳せながら鑑賞した。

キットカットのキャンペーン「めかくしショコラトリー 」が話題となっている。とりわけその中のひとつに注目が集まっている。

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彼氏はいない。恋人は、いる。

このようなことを特別ではなく、サラリと自然に。これが現代に求められている空気感なのだよな〜と思う。


最後に

中条省平さんは、岡崎京子展覧会の公式カタログ『戦場のガールズ・ライフ』の中で以下のように語る。

岡崎京子のまなざしは恐ろしいほど冷静だ。肯定もしないし、否定もしない東洋的ニヒリズムといもいうべき精神が感じられる。これはもしかしたら、川の流れが淀んでしまった世界を予告する現代の『方丈記』だったのかもしれない。

ノスタルジーは甘美だ。良いことばかりを思い出し、陶酔もできる。だから、危険だ。私もついついノスタルジーに浸りたくなるけれど、今の時代には今の時代の、その世代にはその世代のムードがある。若者が感じる閉塞感は今も昔もさほど変わらないとは思うが、その原因や理由、ディテールは多いに異なる。それにいかに耳を傾けられるか。寄り添えるのか。今、社会を動かす大人世代が、自分の若かった頃のノスタルジーを投影しすぎないよう、押し付けないよう。そんなクリエイティビティを、日々心がけたいと私は思う。

今やわたくし達のつたない青春はすっかりTVのブラウン管や雑誌のグラビアに吸収され、つまらない再放送を繰り返しています。そして、わたくし達が出来ることときたらその再放送の再現かまねっこ程度のことです。とうぜんしらけます。でも「すき」のきもちはしぶとくあります。パンドラの箱の残りもののように(『ジオラマボーイ・パノラマガール』単行本のあとがきより抜粋)

どうか、映画『ジオラマボーイ・パノラマガール』は、あの頃のノスタルジーではなく、今、そして未来と呼応する作品でありますように!!! 


追伸

今、私が映像化する作品を決めることができるとするなら、『くちびるから散弾銃』、あるいは、『危険な二人』という女友達ものをチョイスしたいな〜。




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