鈍感でいられる特権について
女性嫌悪とされるミソジニー。理解を深めたくて、ずっと前に買っていたのに読めていなかった一冊を読んだ。
その中で紹介されていた絵本『おおきな木』。
昔読んだ記憶はあったが、ほとんど忘れていた。
一本の木と少年の物語。
一本の木を母の無償の愛のメタファーとして語られることが多い一冊のように思う。
フェミニズムのことを考えることが多くなった今、無償の愛の影に隠されているのかもしれない、自己犠牲の精神がとてもとても気になった。
木はその場所から一歩も動けない。ただ、身を削りながら、少年に自らの果実、枝、遂には幹までもを提供し続ける。その姿をケア労働を強いられる女性としてとらえると、途端に、この絵本が全く違う表情を見せてくる。
さらに、木を地球上の自然に、少年を人間とおきかえると、また違った見え方をするだろう。
気にしないでいられるという立場は、鈍感でいられるという特権を持っているということだ。
人それぞれ見ている景色は違う。同じ角度から同じ物を見ても、全く違うことを頭の中に思い浮かべていることは常で、この絵本に関しても、正解はない。捉え方は人それぞれに委ねられている。
だからこそ、自分ものの見え方にいつも不安になる。
無自覚に特権をふりかざしてはいまいか?
グルグル考えすぎてよく混乱してしまいがちな私だが、小説家の近藤さんの先ごろのつぶやきはいつも心に留めておきたい。
【備忘録】
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