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母はしばらく帰りません 10

「ねー、母さん。明日はどこに行こうか?」
 お風呂に入って、ベッドに潜り込んだら後はもう眠るだけという、一日の中でも至福の時間。輝子は鏡の前で髪を乾かす母に呼びかけた。
「明日ね、このホテルを出るから」
「え、何だって?」
 ドライヤーの音で聞こえなかった。母はスイッチを切って振り返った。乾かされたばかりの髪がふわふわ、綿菓子のように揺れていた。
「明日の朝、チェックアウトするよ」
「嘘! お金無くなっちゃった?」
 輝子はハッと息を飲んだ。同時に嫌な想像が頭を駆け巡る。
 一文無しってやつになったの? どうやって日本に帰る? パスポート売る? それ以前に明日はどこで寝る? ご飯は?
 輝子は地下道で見た、犬と寝そべって通りがかる人に小銭をねだるホームレスを思い出した。母にあんな真似が出来るかな……?
「違います」
 母は、輝子の頭の中でカラフルな風呂敷のように広がって行く妄想が見えていたようで、それをきっぱり断ち切るように否定した。
「明日から、おじいちゃんの家に行くのよ」
「おじいちゃん? イギリスの?」
「そう、私のお父さん」
「へー」
と、言いながら、輝子はイギリスの祖父の顔を上手く思い浮かべることが出来なかった。
「私、会ったことあるっけ?」
「赤ちゃんの頃にね」
 母はドライヤーのコードをくるくる巻いて片付けると、ベッドに滑り込んだ。
「朝ご飯を食べたら、荷物をまとめてここを出るから。今日はもう寝ようね」
「おじいちゃんの家って、ここから遠いの?」
「ううん、近くよ。もう消すね」
 ホテルの部屋は暗闇に包まれた。厚いカーテンは光の一筋も通さない。
「おじいちゃんの家に泊まるの?」
「うん……。そうだね」
「何日くらい?」
「さあ……?」
「それから、どうするの?」
「……どうしようか、ねえ」
 いつ日本に帰るの? いつお父さんのところに戻るの? そんな質問を口にしようか迷っているうちに、
「お休みなさい」
と、言って、間もなく母の安らかな寝息が聞こえてきた。

 翌朝、いつも通りに朝食を食べて、三十分ばかり勉強をしてから、その間に母が手際良くまとめた荷物を手に、とうとうホテルをチェックアウトした。顔馴染みになったドアマンに送られて、タクシーに乗った。
 車の中で輝子は何度も振り返り、ホテルが見えなくなると溜息をついた。すっかり馴染んでしまった、居心地の良い宿だった。プールで泳げなくなるのも悲しかったが、何より輝子は先行きが不安だった。
 これからどうなるのかなあ?
 輝子はいつもより念入りに化粧された、母の横顔を窺った。
「母さん、お顔が怖い」
「えっ?」
と、母は驚いたように頬を撫でた。
「……ちょっと、緊張しているのよ」
「ふーん」
と、輝子は興味なさそうに答えたものの、内心では、変なの、自分の家に行くのにさ、と思っていた。
 しかしこの時の「自分の家」というのは正確ではなかったことを、輝子は後に知った。
 タクシーはそれから十分ほど、静かな住宅街を走り、
「ここよ」
と、母の声と同時に、三階建のテラスハウスの前で停まった。同じような白い建物が、道の両側にずらりと並んでいて迷子になりそうだと輝子は思った。
 ノッカーを叩いて、ドアが開くまでしばらく間があった。
「誰もいないんじゃない?」
「ううん、大丈夫。昨日電話してあるから」
 その時、そっとドアが開いた。
「すまないね、待たせてしまって」
と、白髪の老人が現れた。長身でカマキリのように痩せているが、榛色の瞳が母とそっくりだった。
「アンドリュー」
と、母は祖父を名前で呼び、骨ばった肩を労わるように抱擁した。
「よく来たね。さ、中にお入り」
 祖父は優しい眼差しを輝子に向けて、家の中に招き入れた。そのゆっくりな足取りに、輝子は祖父が杖をついていることに気づいた。どうやら片足と、恐らく片手が少し不自由らしい。そのせいで玄関に出てくるのに、時間がかかったのだろう。
 通されたのは、表に面した応接間で、古めかしい暖炉の上に写真がたくさん飾られていた、その一つに、赤い着物を着て、母と並んで写った自分の姿を見つけ、
「あ!」
と、思わず輝子は声を上げた。あれは多分、七五三の記念写真だ。そんな輝子に祖父は微笑みかけた。
「エレノアが、君のお母さんが、送ってくれたんだ。随分、背が伸びたね。今、何歳になったのかな?」
と、ゆっくりとした英語で話しかけた。
「十歳」
「そうかい。大きくなったね。イギリスは楽しいかな?」
「うん。好き」
「何が一番好き?」
「公園にリスがいるとこ」
 母は二人の会話を微笑ましく見つめていた。
「アンドリュー、ずっと会いに来れなくてごめんなさい」
「いいんだよ。一人前の大人になると、とても忙しいからね。でも、今回はゆっくりしていけるのだろう?」
「しばらく滞在しても、いい?」
「勿論だ。ここもお前の家だろう? それじゃあ僕は、たった一人の孫娘と仲良くなる時間をもらえるわけだ」
 エレノアは、涙の滲んだ目元を指で拭いながら頷いた。
 母の強張っていた肩が、ようやく緩んでくるのを見て、輝子もまたホッとしていた。
 なんか分からないけど、いい感じに行きそう、と思った時だった。二階から乱暴にドアを開け閉めする音が聞こえた。続いて、ドスドスと小型のゾウでも飼っているのかと思うような足音が階段を降りて来て、遠去かった。
「誰かいるの?」
 母が不審そうに尋ねた。
「マギーだよ」
「マギー?」
「この家のことと、僕の世話をしてくれるんだ。ほら、こんな体になってしまったからね。一人ではちょっと、不便なんだ」
「まあ、じゃあ私、ちょっとご挨拶してくるわ」
と、母が腰を浮かしかけた時、重低音の効いた足音が近づいて来て、ドアがノックされた。
「はい、こんにちは。はい、入りますけんね」
と、トレイにお茶の用意を載せて入って来たのは、足音からも想像出来る通り、よく肥えた五十がらみの中年女だった。
「お茶ー、持って来ましたもんね。はい、ミスター、ほら、あっついから気いつけて。ああ、待って待って! 牛乳を入れんかね。お砂糖はどうなさんか?」
「三つ。マギー、僕の紅茶には必ず三杯の砂糖を入れておくれ」
「入れ過ぎですがね! お医者さんも言っとんしゃったでしょが。体に良くないけんね。一つになっせ」
と、マギーはびっくりするような早口と巻き舌でまくし立て、輝子と母は呆気に取られた。
 イギリス人でないのは、言葉からも明らかだったが、自国のアクセントがかなりキツイことに加え、色んな土地を渡り歩いたのだろう。北やら西やら訛りがチャンポンになっている。正直、こんな奇怪な英語は、後にも先にも聞いたことがなかった。母の話す、癖のない中流階級英語に慣れた輝子には、マギーの言っていることは、ほとんど聞き取れないのだった。
「ほらほら、お嬢ちゃんもあっついうちに飲まんね。砂糖、入れちゃろね、ん? ミルクもな、ほら」
と、機関銃のように喋りながら、たっぷりと砂糖の入ったお茶を輝子に押し付けて、さらにチョコレートのビスケットを押し付けてくる。
「ほら、食べんね食べんね。いっぱいことあるっけね。子供がそんなに痩せとったらいかんのよ」
 悪い人ではないのかも知れない。何を言っているか、全然分かんないけど、と苦手だと言い出せずに、仕方なく甘ったるいお茶を啜った。
「さあ、奥さんも、どうぞどうぞ。冷めんうちにさ」
と、同じ調子でエレノアにもカップを押し付ける。
「あの、マギーさん? 初めまして。私、アンドリューの娘のエレノアと言います。こちらは私の娘の」
「あー、はいはい。分かっとります、分かっとりますよ。ちゃーんと聞いとったからね。あなた達のことならなんでも知っとるべ。ゆっくりしていって下さいよ。あたしは今から皿洗いして、洗濯ば干さないかんのやから。夕食であいましょう」
「あ、はい……」
 マギーは早口に喋り続けながら、また凄い足音を立てて出ていった。と、思ったら、再びドアが開き、ぬっと浅黒い顔が出て来た。
「奥さん、お嬢さん。あんた達は、なんか好かんものはあるか?」
「え?」
「ご飯の話したいね。ご飯。食べられないものはあるのけ?」
「いえ、私も娘も特には」
「それは良か」
と、捨て台詞のように言って出て行った。
 母はハーッと、忘れていたように長い息をついた。
「何か、ちゃんとご挨拶も出来なかったわね」
「別に急がなくてもいいじゃないか。お前達はしばらくこの家にいるのだろう?」
と、祖父はのんびりとした口調で言って、お茶を啜った。
「そりゃそうだけど」
「マギーと仲良くなる機会は、たくさんあるよ。ここに住んでいるからね」
「え?」
「えー!」
と、母娘は同時に驚きの声を上げた。
「僕は病気持ちで、体も少々不自由だからね。始めは通いの家政婦さんだったんだけど、住み込みで介護のようなこともしてもらっているんだよ」
と、当然のように祖父は言い、砂糖壺から角砂糖を一つ、ポトンと紅茶のカップに落とした。

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