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誰かの幸せ 誰かの犠牲

「テセウスの船」最終話を観て。

何の気なしに言ったことややったことで
誰かが一生抱えていくような傷を与えてしまうこともあるよなぁ…と思った。

そこに故意や思惑がなくても。
たとえ相手のことを想っていても。
直接的に、間接的に。

宮沢賢治は
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言っていて、

太宰治は
「幸せでいるためには他人に対して無知で鈍感でなければならない」と言っている。
(私の解釈だけれど)

真反対のことを言っているようだけど、
根っこのところは

自分で幸せになれ、っていうことかなぁ。

どんなにささやかな幸せでも、誰かの犠牲や我慢の上に成り立っている。

私が愛犬と暖かいベッドで眠る時、冷たい床で孤独に耐える犬がいる。
私の使ったコンビニ袋も間違った捨て方をすれば海の生き物が命を落とす。
私が成績を上げれば順位を落とす彼女がいて、家族を優先すれば仕事に穴が空く。
ちょっとしたことがちょっとずつ連鎖して、想像も及ばないところで誰かやなにかを傷つける。

この連鎖をみんなが理解して
初めてお互いの幸せを尊重できる。

「尊重」って相手に譲ることではなくて、
相手と自分を同じラインに置くってことなのかも知れないな。他者を侵さない。
自分も相手も同じ。
どちらもそれぞれ自分を優先する。
どちらもそれぞれそのことを理解する。
それぞれが自分で幸せになる。侵さない。


外の影響で心が揺らいだとき
相手や出来事に目を向けるのではなく
まず自分の心と身体を整える。自分で。
自分で幸せの中に身を置く。


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