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ゆく河の流れは

わけあって、大学のとき下宿していたところの近くに住んでいる。

ずっとそこに住んでいたわけではないのだけれど、結婚を機に戻ってきた、というような感じで。

近所には、学生さんがたくさん住んでいる。

あと、学生さん狙いの定食屋さんとかラーメン屋とか、居酒屋とかが、家の近所にいっぱいある。

で、大学を卒業してからン十年経つ私も、時々そういう、昔よく行っていたお店に行ったりするわけです。

あとは、子どもと、散歩がてら大学構内を歩いてみたりとか。

〝昔生活していた〟場所と、〝いま生活している〟場所とが、微妙に重なっている。


そこで感じるのは、「ずっと同じ場所に住んでるなぁ」では、ない。

「ああ、全然違う場所になってしまったなぁ」です。


大学で下宿していた時って、町全体に仲間が点在しているような感じで。

あそこにはあの子が住んでいて、あそこにはあいつが住んでいる。

スーパーに行けばけっこうな頻度であの子と鉢合わせるし、大学の部室に行けばだいたい誰かはいる。

しかも、火曜日に行けば誰かが読み終えたジャンプが置いてあって、それをタダで読める。

今日はえらい冷えるなぁという日は、車持ってる奴に車出してもらって、何人かでスーパー銭湯へ行く。

たまたま大学で会った誰かと一緒に、近くの居酒屋にご飯を食べに行く。

私にとってここは、そういう町でした。

でももう、そうではなくなってしまった。

あの時このあたりに住んでいたメンバーは、今はもうみんな散り散りになってしまって、ここにまた住んでるのなんか、私くらいで。


同じ場所だけれども、全然同じじゃない。

そういうさみしさを、感じることが時々あります。

それは、故人を思い出す感じに似ていて。

私にとってのあの場所は、もうここにはないんだ、と。

ここがあの場所に戻ることは、もう二度と、決して、ないんだ、と。


そのコミュニティは、そのときだけ。

同じ場所を、いろいろな人が通り過ぎて、その時々のコミュニティを作り上げては、流れていっている。

そんな感じで、ここのところ、『方丈記』の冒頭が沁みます。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
流れる河の流れは途絶えることがなく、しかももとの水ではない。よどみに浮かんでいる水の泡は、消えてなくなったり形ができたりと、長い間どまっている例はない。

鴨長明『方丈記』

私が今いるのはあの時と同じ川のほとりなのに、そこに流れるのは全然違う水であることを、まざまざと思い知らされる、今日この頃。

今生きている〝ここ〟だって、いつかはこんな風に思い起こされるんだろうか。


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