書評 太宰治『美男子と煙草』

2022年度「サギタリウス・レビュー 現代社会学部書評大賞」(京都産業大学)

図書部門 大賞作品

「太宰治を読むということ」

塚本侑聖 経営学部マネジメント学科 2年次

作品情報:太宰治『グッド・バイ』に収録『美男子と煙草』(新潮文庫、1972)

 読書は受け身になりがちな行為である。物語はすでに完成していて、目の前の文章をただひたすらに「読む」ことによって我々はそのストーリーを理解していく。「読む」作業に耐えられない読者は最後まで読み進めることなく脱落する。

 だが太宰治の書く小説は上記の読書観には適合しない。彼は、典型的な自己破滅型の作家であり退廃的・無頼派の暗いイメージを前面に押し出す作品が多い。お酒や女性に溺れる描写は十八番で、「ダメ人間」のレッテルを貼られるのも無理はない。もう一つ彼の特徴をあげるならば、一人称の多用であろう。読者との圧倒的な近さで、まるで友人の話を聞いているかのような感覚に襲われる。本書『グッド・バイ』に収録されている『美男子と煙草』は彼の特徴を存分に堪能できる短編小説である。話はこんな独白から始まる。

――私は、独りで、きょうまでたたかって来たつもりですが、何だかどうにも負けそうで、心細くてたまらなくなりました。けれども、まさか、いままで軽蔑しつづけて来た者たちに、どうか仲間にいれて下さい、私が悪うございました、と今さら頼む事も出来ません。私は、やっぱり独りで、下等な酒など飲みながら、私のたたかいを、たたかい続けるよりほか無いんです。――

 彼の言う「たたかい」とは古いもの、体裁に対する戦いである。しかし、独りで戦う太宰に対して古い者達は徒党を組み内輪で褒め合いながら陳腐な文学論を振りかざす。ある日、自作に見当違いの悪口を浴びせられた彼はくやしくて嗚咽しながら女房に向かって泣きじゃくる。その数日後ある雑誌社の記者から、上野の浮浪者を見に行かないかと誘われる。彼は反射的に相手に立ち向かう性癖を持っていたので、その若い記者を急き立てるように家を出る。元気づけに液が濁ったウイスキーのドブロクをもまされた太宰は、上野の地下道で煙草を吸う四人の少年に遭遇する。彼らに焼き鳥を奢った彼だったが、唐突にヴァレリィの言葉を思い出す。「善をなす場合には、いつも詫びながらしなければならない。善ほど他人を傷つけるものはないのだから」地下道を抜けて感想を尋ねられた太宰は、自分と少年達の共通点は美男子だということだ、と答える。それを聞いた記者たちは大笑いしたが、太宰は本気で戦慄を感じていた。自惚れて、自惚れてふと気が付いたら地下道に横たわり人間ではなくなっているのだ。

 話には附記が加えられている。記者が撮った浮浪者と太宰が写っている写真を女房に見せると、なんと女房は両者を本気で見誤ったのだ。太宰はこのエピソードを笑い話としている。なんとも自虐的な笑いだ。彼がこの小説で伝えたかったことはいったい何だろうか。おそらく簡単に要約できる教訓の類ではないだろう。なぜなら、それは彼が長年たたかいつづけて来た古いものの象徴だからだ。陳腐きわまる文学論、薄っぺらな芸術論こそ彼が忌み嫌って来たものだった。彼のエッセイの中から印象的な文章を二つ紹介する。

 「やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう。あのね、読んで面白くない小説はね、それは、下手な小説なのです。こわいことなんかない。面白くない小説は、きっぱり拒否したほうがいいのです」「私は、私の作品と共に生きている。私は、いつでも、言いたい事は、作品の中で言っている。他に言いたいことは無い。だから、その作品が拒否せられたら、それっきりだ。一言も無い」

 この言葉通り、彼が伝えたいことはこの小説そのものなのだろう。したがって登場人物がストーリーに操られることも無いし、自作を後から説明することもない。作者と小説は一体のものであるから、読者は彼の物語を一方的に受け取るだけの隔てられた存在ではない。作品の中に入り込み、彼の一挙手一投足にリアルタイムで反応し息をするように読み進める。いわば主体的な読書体験である。太宰治は歴史に名をのこす文豪であるが、彼の作品を無条件に礼賛する必要はないし、絶対的に正しいわけでもない。面白さ、美しさとは人から強制されるものではなく、自分の心にふっと現れるものだ。

〈審査員の評価ポイント〉
とにかく熱意と深堀が大変すばらしく、心を動かしました。

©現代社会学部書評コンテスト実行委員会