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【紹介】カミュ『異邦人』【もっとも影響を受けた一冊】

「それはともかくとして、一体被告は誰なんです。被告だというのは重大なことです。それで私にも若干いいたいことがあります」
(カミュ著・窪田啓作訳『異邦人』新潮文庫より抜粋)

人生でもっとも影響を受けた小説

 私はある種の祈りを持ってこの小説を読み返します。今日こそはムルソーが報われますように。刑務所から出て、穏やかな人生を送れますように。マリイと結ばれますように。彼が望むと望まざるとにかかわらず、暑い太陽が彼を照らし続けますように——残念ならが、毎回結果は同じです。なぜなら彼は神を信じないし、祈りや後悔といった感情を知らないからです。有体に言えば、彼は全力で〝今〟を生きているからです。もし、彼がもう一度同じ時間をやり直せるとしても、行動を変えなかったでしょう。

 生きづらさを感じている人に読んでほしい一冊です。

 あらすじでわかる名著……そんなもんあるか! と声を大にして言います。神は細部に宿ります。あらすじなど装丁の一部です。こと、この小説においては、主人公の一挙手一投足すべてに意味があり、もう、「読んでください」としか言いようがないです。それでも語ろうとするのは、好きすぎる感情のガス抜きだと思っています。

 熱意だけ伝わればOKだと、自分に言い聞かせて今回は概要をざっくり5000文字程度に収めようと決めました(収まることを祈ります)。

著者紹介

 アルベール・カミュ(Albert Camus 1913-1960)、アルジェリア(フランスの旧植民地。父はフランスからの入植者)の作家です。作品としては、『異邦人』、『ペスト』、戯曲『カリギュラ』あたりが有名ですね。作家であり哲学者であるサルトルとの交流もあったのですが、ソビエト全体主義の批判によって絶交してしまったそうです。そのやりとりが『革命か反抗か』という著書に収められています。

 作風に関しては、少し前に紹介したカフカと同じく、カミュも不条理作家と呼ばれています。ただ、カフカ作品に登場するのは不条理に対して逃げ惑う人々ですが、不条理を認識してなお立ち向かうことが人間の尊厳だと主張するカミュの作品に登場する人々は、不条理に対して強気に「反抗」していきます。

 ノーベル賞受賞において気がついたことがひとつ。
 Wikipediaには「戦後最年少43歳で受賞」とありましたが、新潮文庫の年表の方には44歳とあって、よく読んでみたら、誕生日が11月でノーベル賞の発表が10月ということなので、受賞時はギリ43歳でした。ただし、ストックホルムでの授賞式が12月ということ。もうどっちでも正解かな。その3年後、自身の運転する車がプラタナスの木に突っ込んで即死(陰謀説もあり)。

 ……という感じに、正直、好きなものほど細かくなってしまいます。で、全部を語れなくて諦めてしまうのですね。嫌気が差す前に、さっさと本編に入ります。

本編

 ざっくりと全ストーリーを解説します。

〈第一部〉母親の死を知らせる電報を養老院(今で言う老人ホーム)から受け取った主人公ムルソーは葬式に行きます。その時はとても暑くて、長旅で体力も奪われ、悲しみの感情を抱く余裕もありませんでした。タバコを吸って、ミルクコーヒーを飲んで気怠そうにしている彼を、多くの人々が目撃していました。翌日自分の街に帰ってきたムルソーは海水浴に行きます。そこで元同僚のマリイに再会し、デートをし、コメディー映画を楽しみました。話は変わって、アパルトマン(現代のアパートよりもっと近所間の交流がある場所的なイメージ)の同じ階の住人にレエモンという男がいます。ちょっとヤンチャで、一般的にはあまり好かれないタイプの男ですが、彼はムルソーのことを気に入って、自分の巻き込まれている男女間の揉め事の話をしてくれたり、手助けを求めてきたりしていました。そんな彼が遊びに誘ってくれた先で、レエモンの揉め事の相手のアラビア人に遭遇します。このアラビア人の一人がレエモンを匕首(いわゆるナイフ)で切りつけました。この後、ムルソーは一人で海岸を散歩していました。すると、そこで再び例のアラビア人に遭遇します。ムルソーは先の闘争時にレエモンから預かっていた拳銃がポケットの中に入っていることに気づき、衝動的にそのうちの一人を撃ち殺してしまいました。この時、倒れたアラビア人に向かって追加で4発の銃弾を打ち込みました。

〈第二部〉ムルソーは逮捕され裁判にかけられることになります。検事や弁護士との会話はなんとなく噛み合いません。普通だったら自分の行いを悔いて反省の色を出したり、犯罪者の一部においては、罪を軽くするために嘘をついてでも理にかなった回答を用意するはずなのに、彼はそれをまったくしようとしません。彼の場合、自己防衛であることを強調し、反省しているふりをすれば刑罰はずっと軽くなるはずなのに、心に反することだと頑なに拒否しました。検事は、彼が母親の死んだことに悲しみを見せなかったことや懺悔しないこと(検事はキリスト教の敬虔な信者だったのです)を主な理由とし、彼が人の心を持たない冷酷非道な人間だと決めつけ、アラビア人殺しを計画的犯行だと主張しました。ムルソーはそれを否定しますが、客観的証拠は一切出てきません。なにより理由をちゃんと説明できません。なぜなら、すべては言語化できない複雑な衝動の絡み合いから発生した事件だったからです。検事はそれを、後ろめたい事情を隠しているからだ、自分に不利になるから言わないのだと悪く取ります。マリイやアパルトマンの住人たちの証言も不利に働くばかりです。たとえば、マリイと初めてデートしたのは母親の死の直後ですし、レエモンは世間体が良くない上に、彼が直前に起こした事件の証言もムルソーがしていました。ムルソーは「なぜ殺したのか?」「なぜ5発も撃ったのか?」などの、すべての「なぜ?」に答えられません。思考が停止するような暑い法廷で、彼がやっと絞り出した反論は「太陽が暑かったから」でした。思い出せる限りのことで、事件当時、自分を突き動かした唯一の動機があるとするなら太陽の殺人的な暑さだけだったのです。当然、裁判所にいる誰もがこの意味を理解できません。ムルソーの発言は一蹴に付され、ますます敵意を示す陪審員たちは、彼の死を望みます。こうして死刑を求刑されたムルソーは司祭から懺悔を促す言葉も否定し、処刑の日に見物人が憎悪を持って自分を迎えることを最後の救いとして強く望みながら人生最後の日を待ちます(これは、ムルソーが自分の潔白を信じているからこそ、自分の死刑を望んでいる大衆を相対的に「悪人」であると仮定できるからです)。

不条理について

 しばしばムルソーは「空気が読めない」主人公と表記されていますが、それは間違いです。彼はどんな機微も敏感に察知して、その上で自分の心に嘘をつかずに生きています。それだけなのに、ムルソーの窺い知らないところですべてが進行してしまうのです。彼は検事に魂を否定され、弁護人に人生を語られ、アパルトマンの住人や陪審員によって彼の最期を決められてしまいます。彼に自分の人生を左右する権利はありませんでした。まさに不条理です。

 また、この作品では不条理を以下のように描いています。

長いこと私は——なぜかわからないが——ギロチンにかけられるには、階段をのぼって、断頭台へあがらねばならぬ、と信じていた。(中略)現実には、機械は、ごく単純に、地面にじかに置かれていて、思ったよりずっと幅が狭かった。(中略)男は誰かに出会うとでもいった調子で歩いて行き、それにぶつかる。ある意味では、これもまたたまらないことだった。断頭台へ登ってゆくこと、空のなかへ昇ってゆくこと、——想像力はそうした考えにすがりつくかも知れない。ところが、やはり、メカニックなものが一切を粉砕するのだ。ひとは、わずかばかりの羞恥と、非常な正確さをもって、つつましく殺されるのだ。

 機械のように正確な不条理は、日常と地続きなのだと彼は言います。
 それらは何ら特別なものではなく、誰もがある日、突然、遭遇する可能性があるということを示唆しています。

自由について

 誠意がないとか、言動に一貫性が見られないというだけで彼は処刑になりました。一種のポーズ、わかりやすい感情表現を社会に対してしてやる義理はないのにもかかわらず。世間は自分たちが理解できないものを排除し、無理やり単純化、均一化してようとしてきます(二極的にしか物事を捉えれれない不自由な人間がマジョリティを占める世界の窮屈さよ!)。
 イエスかノーか、有罪か無罪か、人間的な感情を持ち合わせているかいないか。彼はそんな俗人とは違うルールで生きていただけなのです。彼の体を動かすのは思考だけではなく、欲望や自然、たとえば太陽や海などまでに拡張されています。この世界のすべての微妙な揺らぎを丁寧に聞き入れての行動なのです。曖昧なものを曖昧なまま内包している彼の心は、人間が後天的に作り出した言語の枠すら超え、もっとも原始的して最高の自由を有します。

 たとえば、マリイに「私のこと愛してる?」とたびたび聞かれますが、彼は「愛してない」と答えます。これは一見冷酷に思えますが、後書きがいうにはこんな理由がありました(ここに始まって後書きにはたくさんのことが書かれているので絶対読んでほしいですね)。

ムルソーは、サルトルが巧みに指摘するように、たとえば「愛」と呼ばれるような一般的感情とは無縁の存在である。人は、つねに相手のことを考えているわけではなくとも、きれぎれの感情に抽象的統一を与えて、それを「愛」と呼ぶ。ムルソーは、このような意味づけをいっさい認めない。彼にとって重要なのは、現在のものであり、具体的なものだけだ。現在の欲望だけが彼をゆり動かす。

 そこにない連続性を勝手に見出すことに意義を唱えたのですね。彼はそういった無意味な意味づけに囚われることを嫌います。
 また、カミュ自身が英訳版の自序(前書き)でムルソーの自由をこのように表現しています。

ムルソーはなぜ演技をしなかったのか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。

 別の作品になりますが、マッケンの『白魔』でアンブローズという隠者がこんなことを言っていました。聖者や大罪人は本当の意味ではほとんど同じ存在であり、善とか徳とか罪といった概念は、行き当たりばったりに世間を渡っている俗人の定めた二流のルールでしかなく、多数決が人情というものを決め、反社会的な行動を「悪」と便宜的に決めつけているのだけだと。「空気読む」みたいな俗世界に生きてる限り、霊的世界には到達できません。
 俗人を超越したムルソーのような人間は、自分だけが自分の主人なのだと知ってます。ただ、それは時として周囲との軋轢を生みますし、無駄に敵を作ってしまうかもしれません、下手したら彼のように死刑になるかもしれません。それも全部受け入れて、後悔せず懺悔しないこと。それが唯一の覚悟です。
 人はどこかに不幸の原因を求めたがるものです。元来、すべて因果は自らの行動に帰属しますが、それだと心がストレスで折れてしまう。だから、「今時の若いもんは〜」とか「安倍政権が〜」とか言い出して、心の安寧を外部に求めてしまうのです。
 ムルソーにとって自分の心に正しいというのが絶対的な善です。それは時には社会的にアウトなこともあります。でも、常に幸福であるという確信を持って生きていました。

 最後の最後、懺悔を迫る司祭の襟首を掴みながら言い放った言葉が強烈です。初めて読んだ時、膝から崩れ落ちそうになりました(全部は長いので一部だけ)。

君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、自分の人生について、来るべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。 

 世の中には神のような絶対的なものは存在しないのです。俗人が妄想で作り上げた、絶対的な「神」や「法律」といった紛い物に寄りかかり、安心しているうちは本物の自由や幸福を手に入れることはできないのです。

『異邦人』まとめ

・心に嘘をつかずに生きている主人公が素直さゆえに死刑になる物語。
・『異邦人』は不条理とともに本物の自由について描いている。
・自分の行いすべてに責任を持ち、幸福だと確信して生きることの大切さよ!

最後に

 私は大学の時まで、生きづらさを感じていました。昔は周囲の人間の顔色窺ってペースを合わせて生きていました。その場で、いかに浮かないようにするか、他人に嫌われないようにするか、だけに気を使っていました。世間、一般、当たり前、普通……そういった言葉に従順に、世間からはみ出さないように生きようとしていましたが、ご存知の通り、根はこんなチャランポランな人間なので、苦しくなって当然です。
 自由とは不自由を知ることからはじまります。「擦り込み、思い込み、押しつけられた社会的通念、そういったものに囚われて、オマエは本当の自由を失っているのだ!」と、この小説は教えてくれたのです。

 それに気付いてから心が軽くなって、今日も、私は生きています。


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