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ホリデーシーズンに買い物考

 ブランドビジネスと真正面から向き合っていた時代、その意味や価値について自分なりの答えを出すことができていなかったと思う。ただ、ブランドと呼べるまでに存在感を確保したそれらへの畏怖と敬意は仕事をしながら持てた。そしておいそれと手にすることは一層しなくなった。
 それから長い時間がたって、つい最近ブランドというものと自分の間に、とてもパーソナルな関係を結ぶことができたよ、というお話を書く。
(画像出典:ジョンストンズオブエルガンwebサイト

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 10月に9999.で眼鏡を買った際、自分が眼鏡にかける予算の想定を7倍ほど上回ったことに「今年はこれ以上の高額なお買い物は厳禁」と呪文のように唱えていたのだが、昨日実に無計画に同額程度の買い物をしてしまった。本当であったら購入しないものであったが、不思議なことにショップに足を踏み入れた、どこか早い段階で「これを、苦しかった今年の自分に惜別のギフトとしよう」と確信を込めて思った。ねぎらいの贈り物でもなく、ご褒美でもなく、クリスマスプレゼントでもない。「今年めいっぱい苦しんだ」自己に、さよならをするはなむけとして贈ろうと思ったのだ。それも唐突に。

 その名は「ジョンストンズ オブ エルガン」、言わずと知れたカシミヤの名品中の名品で歴史は200年にものぼる。有名なのは独特のタータンチェック柄のラグジュアリーな大判ストールで、過去にはこれを欲しいと思ったこともあった。思ったこともあったが、そうそう「欲しいものリスト」の上位にあがってこない。だっていかんせんお高い。私にはお高すぎるのだ。分不相応、そう思っていたしすぐに胸を去るくらいには距離のある代物であった。私におけるブランドとの距離を説明するうえで、もっとも適切なワードは長いことこの「分不相応」であった。

 このところの自分のファッションはどんどんシンプル傾向まっしぐらであり、最重要はシルエット、シルエット命(くりかえすほどには)。参考になるのは海外のストリートスナップ的なInstagramの外国人マダームの着こなしだ。すると、大判の巻物が冬のスタイリングを引き締めることがわかってきた。何も巻くだけではなく、手に持つ、羽織る、縦のラインをつくるために首の両サイドにおろす、などだが、いずれも非常に長さがある。自分の手持ちのカシミヤストールやマフラーでは、こうならないことがわかった。

 そんな時である。以前非常にお世話になったある編集長のブログで紹介されていたジョンズトンズオブエルガン。「おお、この長さ、このボリュームだ」と漠然と思った。でも動かない。だって由緒ありお高すぎるこのブランドは、自分にとって眺める対象であり、手に入れる近距離にないから。しかし人生は不思議。この不思議が、ときに運命の扉を開くことがあるということを、そろそろ自分はわかってきたのだけれど。そう、「逢魔ヶ刻」に遭遇してしまったのだ。

 化粧品を買いに某所へ行き、目当ての商品を買ってエスカレーターを降りた。下りた真ん前にジョンストンズのストールがディスプレイされていた。
前夜に敷かれた導線からして、そこは入らざるを得ないであろう。

 でもね、入ったら本当はだめなのだ、この場合。既にサブリミナル的に前日暗示にかかってる状態なわけだから。「ほう!いいな~やっぱり。さすがのジョンストンズだな…」などふんふんやっているわけですよ。そこで実物を触ってうっとりするようなカシミヤの手触りとぬくもり、ぬめっとした光沢などを確かめてしまったら結末は火を見るよりも明らか。けど、先に述べたとおり、かなり早い段階で閃光がひらめいた。気がする。「おまえに買ってやろう。今年泥水をすすりまくったおまえに!」と、私のなかのメフィストフェレスが言った。気がする。笑

 欲しかった黒、さらに美しいキャメルを試す。これこれ、このボリューム!と鏡を前にピタリと脳内のパズルが合っていく。店員さんが「より女性らしさを引きたてるならキャメルがお似合い…」とおっしゃった瞬間、「いや、女性らしさは求めてないです」と切る刀で返してしまった。よく考えてみると、マフラーだのストールを買い求めるときに、毎回「黒を買うぞ」と決めていくのに、店頭で試すと違う色を買ってしまうのだ。結果それで黒がない。店員さんが言う。「それは本当によくあること。黒というシンプルで基本な色は、つい店頭のあふれるような色に出逢ったときに優先順位が下がるそうです。でもお客様は何度も黒をお見送りになっているのなら、だからこそ今回は黒がいいのかもしれません」と、プロの見解でもって自分のなかのノワール贔屓な気持ちに寄り添ってくれた。

 買った。買いました。瞬時に心のなかで言い訳をつけた。「今年はコートを買っていないんでーーー!」と。でも、そんな言い訳なんて実はあんまり必要なかった。

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 この年になると、高額な買い物であっても罪悪感をおぼえるようなことはほとんどなくなった。収入の話と関係なく(多少はあるだろうけれど)、理解をしているからだ。その製品がつくられている物語を含めて店頭に並ぶまでの価値について。また、自分の審美眼にも一定の自負ができてきているので、それを買うことが自分に必要なのか?という点で「可」と出たときは、購入するという行為が結ぶ製品と自分の新しい関係が、明確に目に見えるような手ごたえが生まれる。
 反対に罪悪感を覚える買い物では、手ごろな価格だからといって、そういった製品と自分の間に関係が生まれていないのに「とりあえず買い」をしたとき。実は今年、結構そういうことがあったと思う。

 今書いていてわかった。自分は社会人生活の1/3ほどをラグジュアリーブランドと関係していたが、当時理解できなかったことが今はわかる。ブランドを購入するとき、ブランドと自分に関係がつくれるのか?ということが価値なのだ。素材やつくりの質や美しさは、ブランドがブランドたるならば当然備えている前提であり、「購入」という行為によってブランドと自己は初めて同じ目線に立ち同じ物語を始めることになる。この、関係性が結ばれない買い物の場合に、罪悪感をおぼえたり身分不相応と感じたりするのだろう。それは、自分自身が暗黙の裡に理解しているからだ。これは値段の多寡を問わず、品物と自分の間に極めて親密な関係が生まれない限り、無駄買いいになるとわかった。

 ジョンストンズのストール、よく考えてみると、体温が高く暑がりの私が使用できるのはまだ当面先かもしれない、暖冬の2022師走なのだった。現時点でウールのコートを着て電車に乗るのもままならない(暑くて)。

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