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艱難辛苦が汝を玉とするには

 先日映画「DUNE/砂の惑星」を鑑賞したときに予告編で知った「最後の決闘裁判」を昨日の最終の回で観てきた。公開が間もなく終わるというので、いつ行けるかな~と思っていたら急に時間ができたのだ。鑑賞の帰り道、うなだれてがっつりと心をえぐられていた…。

 エンターテイメントとして面白くよくできたコンテンツだったと思った。ただ、すごく不思議なことに、中世ヨーロッパの雰囲気は皆無。あれだけの映像技術や巧い役者が演じていても、アメリカンが演じてほぼアメリカンが監督しているからなのだと思う(※リドリー・スコットはアメリカで活躍しているけれど英国人監督)。どこかやっぱり表層的なライトさが映像世界全体を覆っていて、暗鬱な中世ヨーロッパの独特な映像世界には今ひとつ及ぶことができていなく感じられた。ただ、物語は面白いので充分。

 ひとつの事件を多視点から描く「ラショーモン・アプローチ」、黒澤明監督が映画「羅生門」で採用したスタイルが本作でも導入されており、「最後の決闘裁判」ではのちに決闘を行うかつての親友同士の男性二人と、裁判の中心にいることになる妻であり横恋慕された女性、その3人の視点からひとつの事件を見たストーリーラインが描かれる。

 アメリカでの評価は結構冷静。「贅沢で複雑な、時に興味深い中世ソープオペラに仕上がっている(バラエティ誌)」、「過去の事実を現代の推測で後付けしていないことが功を奏している(ナショナル・レビュー)」といったところ。日本の一般鑑賞客の感想コメントはもう少し熱く、すっかり物語世界に魅了された人たちが多かった模様。ベン・アフレックが信じられないほど痩せ細った姿で登場していて、最初は誰かわからなかった。私は予告編で本作を知った程度なので、事前インプットはほぼなく劇場に行ったわけだが、マット・デイモンとベン・アフレックが共演していたのを観て、「あ、なるほど。二人でまた制作にかんだのか」と思ったら、やはり脚本を共同執筆していた。才能豊かなコンビだ。

 私はここまで、心えぐられた理由について書くことから遠ざかっているが、「こんなにも人間のキャラクター(性質)によって物事の見方は違ってしまうのか」ということに、結構打ちのめされている。たとえばだけど、粗暴な男が彼の弁で「心やさしく妻を愛した」と語っても、ほとんど政治的な理由で嫁いだ妻からは「いつも自己愛をたぎらせて従属物のように扱われたた」と思っていても、互いにそのギャップを話し合うことすらなければ心はずっと平行線であり、その平行線の道の上を歩きながらも同じ世界で共同体となるわけであり。これが怖いのは、ふつうに毎日の世界で自分も体験してることなんだろうと思うからだ。

 自分は仕事の時間が一日でも長いので、やはり仕事で想像してみるけど、何かのトラブルが起きているときの、自分が正しい主張と信じているケースにおいても異なる人間が介在していたらまた異なるストーリーラインがその人のうえにはあるのだ。そんなこと、当たり前なんだけど、知らないうちにどれだけの人を自己の正しさで裁いて傷つけているのだろう?と思ったら吐き気がしてきた。

 また、実際の映画の決闘を行った男同士にフォーカスしてみても、短気で粗暴な男に対する親友の男は、品位をもって常に味方であり、どんなにうとんじられ妬みを買っても友情においては真摯であった。それなのに、女に対してその美徳は発揮されなかった。しかも、女は友情を捧げる友の妻であるのに。この二面性だ。いや、きっと多面性なのだろう。「あの人はいい人だ」なんて、軽々しく言えない。それほどに、人間は複雑なのか。おそらくもっとも打ちのめされたのはこの点だったと思う。もちろん、胸の悪くなるようなシーンや、男Aと男Bの、それぞれに勝手極まりない主義が女を翻弄することも影響しているが。

 20:30公開の最終の回で観たため、帰り道は疲れ切り週末へなだれこむ人々の家路をたどる時間帯の列車の中であり、胸のなかにしわしわとした気持ち悪さと悲しさがついてまわった。

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