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「許してあげたら?」

これはとある人(以下A)に言われた言葉だ。経緯としてはAの姉が東京へ行く際、引越しの準備をお父さんが一緒にやってくれた話を聞いて「いいなぁ」とボソッと呟いたことから始まった。Aは疑問に思ったのだろう。

「仲悪いの?」

何を思ったのかつい「父は嫌いだ、話したくない」とベラベラと喋りすぎた。

「なんで仲悪いの?」

これについてはいい理由がすぐに思いつかなかった。その際はぐらかせばよかったものを言葉にしたくないから“虐待”だと送ってしまった。もちろんすぐに送信は取り消した。

それから沈黙が続いた。こんな空気になることが分かっていて苦手なはずなのに…話してしまった後悔が凄まじかった。

沈黙を破ったのはAで「え、本当にあったの…?殴られたり蹴られたり?」

「まあね」とだけ

次に放った言葉は「可哀想…」

違う。私は可哀想な人ではない。と咄嗟に思った。周りから見れば可哀想なのか知らないけど私自身自分のことを可哀想だなんて一回も思ったことない。むしろ殴られるようなことをした私が悪いのであって、可哀想なのは父親だ。

だが話は一変した。

「お父さんのこと無視してるの?可哀想だよ」「許してあげなよ」

私は馬鹿だ。専門家以外の人に自分の内情を打ち明けるのをやめさせる出来事があったにも、それを心の中にちゃんと留めておいていたはずなのにも関わらず話してしまい、それゆえにセカンドレイプのようなセカンドDVを受けるという結果になってしまった。


「無視するの可哀想だよ」

無視するには関わりたくないからだ。関わればまた殴られるかもしれない、出来るだけ距離を置くのが私が気づいたらしていたことだ。“可哀想”たしかに側から見ればそう思うかもしれないが、このことについては今頭の中がぐちゃぐちゃにこんがらがっている。さっき言った通り父を怒らせた私が悪くて、加害者に仕立て上げられた父親が可哀想だと思う。が、自分の中のどこかで、いや、違う悪いのは父親だ可哀想なのは私被害者本人だとも思っている。だからこそ分からないのだ。私が被害者で私が可哀想だ!と言ってやりたかったがどこか引っかかる。周りには自分のことを可哀想だと言われるのは嫌だが、父が可哀想だと言われるのも嫌なのだ。自分勝手だ。

もしかしたら私は本当に可哀想ではないのかもしれない。ますます分からなくなってきた。


「許してあげなよ」

父親が土下座し、承認すれば許したことになるのか?私が父にされたことを同じようにしたら許したことになるのか?虐待において許すということの定義は難しい。「毒になる親」という本によれば許す必要はない、許すことで貴方の傷は癒えたことにはならないと書かれている。「許してあげたら?」の言葉を聞いた時、Aに対して「お前が私と全く同じことを受けた時その言葉が言えるのか?」と思ってしまった。

これらを言われてショックを受け、憤り悲しみさえ感じたが「そうだね」とだけ言った。おそらく感情を隠せてたと思う。そう思いたい。

しかし、嫌なことを嫌だと言えなかった。他の家族を羨んでしまったこと。自分の内情を話してしまったこと。この事実は変わらない。私は何も変わっていない。

私にはどうすればもどうすべきかも分からない。答えが全く見つからない。暗中模索している。


ただ最後に言いたいことは


虐待する親を許すべきですか?もう時効ですか?

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