それは本当に「読まれるテキスト」なのか

「読まれるテキストは読者へのおもてなしの構造を持っている」(以下、「読まおも」と略す)というテキストが話題になっていたので読んだ。
わー、すごい。
一面では、いまのネットの気分を的確に捉えていると思う。

それは本当に「読まれるテキスト」なのか

が、ぼくの感覚では、これは「読まれるテキスト」の話ではない。
「読まおも」では、まず「人間のテキストの読み方」がこう捉えられる。
・タイトルは記事の印象の5割
・章タイトルが残りの半分
・本文はほとんど読み飛ばされる

もうこの時点で、「読まれるテキスト」じゃない。
「読み飛ばされるテキスト」である。

たとえば、雑誌を読んでいる、とき。
1:パラパラとめくる。
2:タイトル記事が眼に飛び込んでくる。
3:ほんの一瞬手をとめると、章タイトルと本文のワードが眼に入ってくる。
4:気になる記事が見つかって、読み始める。

この行動で、「読んだ」のは、どれだろう?
前半のパラパラめくっている時(1~3)は、「読んだ」という感覚ではない。
パラパラめくっているだけだ。
「記事を読んだ」のは、4だ。

テキストの質が影響しないって本当?

「読み飛ばされる」ことを前提としてしまうと、“テキストの質は、読まれるかどうかに影響しない”ということになる。
読んでなくて読み飛ばされているので、テキストの質が影響しないのは当然のことだろう。

“複雑な暗喩や係り受けの構造、レトリック”
は書き手の自己満足だと断じる。
もちろん書き手の自己満足のケースもあるだろう。
だけど、「テキストの質」は、それだけではない。
適切な暗喩や、適度な係り受けの構造、ていねいなレトリックなどが、テキストの質だ。
そして、それは「読み飛ばす」人ではなく、「読んでいる」人にとっては、重要な要素だろう。

雑誌をパラパラめくっていて「気になる記事が見つかって、読み始める」が、途中で読むのをやめてしまうことがある。
それは、思っていた内容と違っていたり、テキストの質が低くて読む気が失せてしまった場合だ。

音楽を聞いているときに、音質が影響するのがあたりまえのように、読んでいるときに「テキストの質」が影響するのはあたりまえだ。(もちろん聞き流しているので、音質を気にしないケースだって、わざと低い音質で聞きたいケースというのもありえるが、それはすなわち“影響”だ)

説明しすぎることは本当にないのか

さらに、“説明してもしすぎるということはない”という項が出てくる。
これも「読み飛ばされる」ことが前提だからだだろう。
同じことを何度も書いて嫌がる人は少ない。なぜならほとんどの読者は読んでいないから
これ、「上司の長々しい説教にうんざりして聞いてない、聞いていないので上司は何度も何度も同じことをぐだぐだ言うことになる」というループ構造と同じだ。

いや。ネット上には、そういったタイプのテキストがたくさんあるのは知っている。
さして長くない記事なのに、まず見出しタイトルが目次のように並び、その下にまた見出しがくる。
1段落ですみそうなことを、7つの秘訣だとか、5つのコツだとか言い張って、無理やり分割して、同じことを繰り返す。
迂闊にもリンクをふんで、そんな記事であれば、たしかに「読み飛ばす」。
でも、そんなとき「あれ、読んだ?」と聞かれれば、「ちらっと見たけど」「タイトルだけ」と答える。
「読んだ」とは言わない。

強い言葉にふりまわされること

「読み飛ばされる」ことを前提として「書く」と、どうなるか。
強い言葉”に頼るようになる。
過剰な言葉をくりだす。
説教上司のたとえを続けるなら、聞かれていないと感じて、無駄に大声になったり、強い言葉を放ったりするパタンだ。

強い言葉は、書き手の認知をも歪める。読者に訴求したいがためのエモいフレーズに引っ張られてて、本来言いたかったことと違うゴールに着地”する。
これも説教上司にありがちなパタンだ。
説教しているうちに、自分の怒鳴り声や、強い言葉にひきづられ、怒りだけが持続して、何だかわからないものになり、ただ怒るために怒っており、本来言いたかったことと違うことになる。

何のために書くのか

「読み飛ばされる」記事を書くループになると、書き手の役割は、結果的にこうなる。
同意を取りたい人に訴求して、叩きたい人には気持ちよく叩かせて、シェアしたい人にはその人のTLを彩るオシャレタイトルを提供する、のが書き手の役割

記事を通じて、「書き手、読み手の双方が少しずつ変わっていく」ことが役割だと考えているぼくには、あまりにも斬新な結論だ。
読んだ人に新しい気づきを手渡せないか。
何らかのヒントになるようなことが書けないだろうか。
意見の違う人との対話のきっかけにならないか。
そういったことを考えて、書いている人もたくさんいるのだ。

もちろん、読み飛ばされる前提で書いて、同意したい人だけに同意してもらいたいといった表層の戯れも楽しいと思う(居酒屋でワイワイと雑談する楽しさに通じるだろう)。
けど、ぞれが「書き手の役割」と言われてしまうと、もっといろんな書き手がいてもいいよね、と言いたくなる。

はてなブックマークを使わなくなった

数年前から、はてブがたくさんついている記事を読む、という習慣がなくなった。
10代の感性を持った30歳以上のピーターパンがターゲットで、ぼくはアウトオブターゲットなのだなという気がしてきたからだ。
どちらかというと「たくさんついている記事は読まなくていい」という判断材料にすらなっている。
どうしてこんなことになったんだろうと思っていたが、「読まおも」を読んで腑に落ちた。
こういった「読み飛ばされる」前提が浸透してしまったからだ。

メディアは読み飛ばされてよいのか

プロとして記事を書いているメディアの多くは、もはや「読み飛ばされる」ことを「読んだ」と計測していない
PVだけを重視しているメディアは、もう“古くさい”“ヤバい”ところだ。
滞空時間、コメントの内容、SNSでの拡散量、記事の内容などを総合的に判断するメディアが増えてきていて、PVだけで記事の良し悪しを判断するところだけではなくなってきた。

「おもてなし」というのは、心のこもった待遇のことだ。
訪れた人を、通りすがりだと思ってあなどることじゃない。

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