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旅すること・暮らすこと

旅をしない私

人間、何にでもコンプレックス(劣等感)を持つことができるものだと思う。私はあまり旅行をしないことにコンプレックスを持っている。旅することを悪く言う人はいない。かわいい子には旅をさせよっていう言葉もある。それに、旅メタファーってあるでしょ。人生、仕事、恋愛、だいたいのことは旅メタファーで語ることができる。つまり、旅って人の普遍的な行為の一つなんじゃないかと思う。それをしない自分ってどうなの?と感じてしまうのだ。

こういう仕事をしていると、日本から簡単に行けない所にも行きやすいことがある。数えてはないが、同業者や海外で仕事をしている人たちには旅好きが多いと思う。

旅行というのは、かなり万人受けする趣味だと思う。どういう意味かと言うと、趣味を持つ者同士でも話は弾むし、仮に趣味でない者でも、旅行の話と言うのは聞けるものだ。そういう意味で座持ちがいい趣味だ。私も誰かの旅行の話を聞くのは嫌いではない。

リヤドに来て3年半になるが、時々、こちらに出張で来ている人と話をする時がある。出張者が「明日〇〇へ行くんです、どんな感じですかね?」と、メジャーな観光スポットについて聞かれることがあるんだけど、それすらも私は行ってなかったりする。それで驚かれることもある。

そういう反応を見るたびに“あぁ、私はもったいないことをしてるのかぁ”と思ったり、“何でこんなに長くいるのに旅行(観光)していないんだ”と普通から外れていることに、少しばかり悲しくなることもある。

そうはいっても、こんな感じで長いこと生きてきたのだから、それなりに何か理由があるのだろうと思い、少し自分の中に潜って考えてみた。

旅をしない理由

何で自分は旅をしないのか。自分は旅が嫌いなのかなと思ったのだけど、そうではない。興味はあるのだ。その証拠になるかわからないのだけど、私のパソコンやスマホの壁紙は、ランダムに変わる世界のきれいな風景なのだ(笑)それを見るのが好きだし、見るたびに“行ってみたいな~”と思っているのだ。別にずっと家の中に閉じこもっていたいタイプでもない。

それなのになぜ、旅に出ないか。ようやくわかってきたのは私にとって、旅はハードルが高い活動だということだ。ちょっと前に『「繊細さん」の本』という本を読んで、我が意を得たりと思ったのだけど、簡単に言うと、私は変化に敏感な(弱い)人間なのだ。

旅は非日常的体験。変化の連続だ。まず、前日、眠れないことが多い。これは繊細さというより、わくわくをうまくコントロールできなかったり、寝坊しちゃいけないと思いすぎ、睡眠が浅くなってるだけなんだけど(笑)睡眠不足により、コンディション75%の状態で旅が始まる。

そもそも胃腸弱めの山根君体質なので、食の冒険はご法度だ。海外の屋台とかNG。それなりの所で食べたって、いつもと違うものを食べることで、すぐにトイレリズムに変化が生じる。頻・疎のどちらかに急激に寄るのだ。これも旅をハードモードにする。

寝る時もそうだ。家族でも他人でも同じ部屋で寝ようものなら、人の寝息や寝がえりの音が気になるし、自分の音がうるさくないか気になってしまう。あげくのはてに、それを気にしている状況の夢を見るのだ(笑)こんな感じなので、旅行中は常にコンディションが50%だ。

どうも私は、旅をしたいのだけど、環境の変化に敏感な体は、旅をしづらくさせているんだということに気がついた。それが、私を旅から遠ざけているようだ。

私はもともと、海外で働きたいという願望は全くなく、日本の地方都市で地道に暮らす気満々の20代だった。だから、私のような人間は海外で仕事をするのに向いていないと長年思ってきた。だいたい旅行をしないような人間が海外で仕事をするって、方向性(適性)が間違っているように感じられたからだ。

そうなんだけど

海外で仕事を続けている。自分でも少し不思議に感じていた。向いていない向いていないと思っていたのだけど、致命的にもうできないと思ったことはない。それなりに楽しんでいる。もちろん、いろいろな人に助けられたり、バックアップがあって過ごしやすい環境にいるから何とかなっているのかもしれない。ただ、私の中にも、何か気づいていない要素があって、それが効いて、海外で思いのほか生きているような気がしてきたのだ。

13回の引越し

国内・海外それほど旅行したことのない私なのだが、これまでの人生で13回引っ越している。3年に1回ぐらい引っ越していることになる。いろんな人がいると思うが、平均よりは多い方だろう。大学に入るまでは、父の転勤に家族で付いていったのもあって、小学校から高校まで、入学と卒業が同じ学校だったことはない。大学を卒業してからも、なんやかんやで数年おきに引っ越している。そう、考えてみれば、私はいろんな所を旅した経験は少ないのだが、いろんな所で暮らした経験は多いのだ。

暮らすこと

引っ越して新しい土地で暮らすことも変化が大きい。だから、最初は大変だ。暮らすことも初期は旅と同じだ。それでも、時間が経って、自分で歩き、買い物をし、自分でご飯を作り、食べ、自分の家で洗濯をし、自分の寝床で毎日寝る。自分の知らない土地に自分の「家」ができて、知らない人が顔見知りになって、彼らも私をここの住人だと理解していく。あいさつするような間柄になる。そのあたりから、ようやく私はその土地を落ち着いて眺めることができるようになる。

赤:ホーム、青:目的地だとして。

「旅すること」:赤⇒青⇒赤とパチッと色が変化する体験

だとしたら、

「暮らすこと」は赤⇒⇒⇒青ぐらいな感じで、じわ~っと変化する体験

だと思う。私は非日常を楽しむのは苦手なのだけど、非日常の中にしばらく、滞在し私の中で日常化していく過程は好きなのかもしれない。いい表現が見つからないのだけど、「浴びる」より「浸る」方が向いているようだ。シャワーより湯船って感じ。

ホームシックになったことがない

これまで変化に弱いと書いてきたのだけど、私は海外で暮らしていても「ホームシック」にはなったことがない。日本が恋しくて苦しくなることは不思議とない(笑)あれ食べたい、これ食べたいはたまにあるが、それより日本に帰りたくなるのは、歯医者に行ったり健康診断をしたいときだ。

私は転々として育ったのもあって、「ホーム」がないのかもしれない。だからホームシックにならないのだ。

最近は年に一度、一時帰国することが多いのだが、今年はリヤドを離れるのが少し寂しく感じられた。一時帰国を楽しみにしていたし、またリヤドに戻るのに、それでも寂しく感じたのだ。初めてのことだった。

「塩田千春展:魂がふるえる」にて

塩田千春展を見に行ったら、こんな言葉があって、ちょうど考えてたことと絡み合う感じがした。

《集積―目的地を求めて》(2016)

リヤドに4年近く住んでいても、毎日発見がある。発見というほどたいそうなものでもないのだけど、未だに物珍しい気分で住んでいる。長く暮らして慣れながらも、時間が経つにつれ、違いの解像度が増して、自分がここの一時滞在者であることをより自覚する。

目的地(ホーム)を探すために暮らす

結局、私がいろいろな所で暮らしてみる理由は、心のどこかにホームを見つけたいという願望があるからなのかもしれない。穏やかな変化の少ない場所。暮らすことで非日常が日常化し、それがホームになっていくような期待を抱いているのだけど、結局、違いがより鮮明に見えて、自分が一時滞在者(よそ者)だということを理解する。滞在者であることが悪いと言うことではない。滞在者の日常化も、またおもしろい。そしてもっと長く暮らせば、やがてその土地がホームになるのかもしれない。

この先、もう少し旅行をしたいものだが、ホームを探す暮らしも続けてみたい。

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