楽しい学校

 何のために学校へ行くのか。

1. 集団生活を学ぶため、

2. 世の中に色んな人がいること知るため、

3. 勉強するため。


 小学校入学から、高等学校卒業に至るまで、自分の学校へ行く理由は、ほぼ3番に終始していた。1番、2番の理由はおおむね、「閉じた社会の中でとにかく我慢の仕方をおぼえること」なのだと解釈していた。

 それでも自分は思い返す度、良い先生にも出逢えたし、奨学金を得て、望めるだけの教育を受けることができた。たとえ陰湿ないじめに遭っても、成績だけは自分のために守り抜くと覚悟して、戦い続けた日々だったけれど、救いはあった。


 ニュースをつけるたび、子どもの自殺者が増え、耳を疑う犯罪の実行犯であったり、保護者に命を奪われる虐待死の報道を見ては、胸がしめつけられる。

 いじめの種類が10年前とは違い、言葉は、情報端末の浸透とともに凶器としての強度を増している。人間関係の困難を解決するための感情の爆発も、ひとりで抱えて処理するには、他に方法を知らなさ過ぎて、気が付けば殺傷力のある武器を手に、相手の命を奪っている。

 それだけではない。家という場所が、外の社会から護られる安堵の場所であればいい。しかし時に、窓のない監獄のように、力ない子どもの悲鳴を飲み込んでいる事実がある。子どもの生死を左右できることが、親という人間の価値を高めるわけでもないのに、これもまた、コミュニケーションの一方通行の例なのか。行き過ぎた行為が止まらない。


 自分を抑え、我慢をすることしか、学校で学べない。

 家の中も安心できない。学校に通えない。どうしていいかわからない。

 

 自分の心と命を守る手段になる対話と、その必要性を学ぶことなく、一律の枠の中で、決められた集団生活を送ることを求められるだけならば、学校へ行く意義と価値は、本当に小さくなる。

 楽しい学校とは、必要な学校の姿とは、どんなものだろうか。

 社会全体で意見を出し合い、変えていく。そういう大人たちの対話こそが、これからの子どもたちの未来を救うはずなのだ。



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