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ガザ虐殺に無反応な日本の左翼観衆 - 岡真理の呼びかけにも閑として音なし

11月3日の報道。イスラエル軍はガザ北部のシャバリヤ難民キャンプを3日連続で空爆、難民キャンプ内にある4つの学校が攻撃を受け、多くの子どもが残虐に殺戮された。ロイター報道のガザ保健当局による発表では、7日以降のガザの死者数は9061人に上っている。4割が子ども。3分の2が何の罪もない女性と子どもだ。2日前(11/1)の報道では、10/31 までに国連職員が70人犠牲になっている。今週(10/29 -)イスラエル地上軍がガザ侵攻を開始し、作戦に伴って空爆の規模と頻度をさらに激化させ、病院や学校や難民キャンプが集中的に狙い撃ちされる事態となった。その結果、そこで活動している国連職員(UNRWA)の犠牲者が急増する惨劇が進行している。直近の報道では、11/3、鬼畜のイスラエル軍は病院から救助に向かう救急車の車列を爆撃した。

地上軍を侵攻させ、市街戦の段階に進むイスラエル軍は、ここへ来て、学校とか病院とか救急車とか国連施設とか、絶対に戦争で攻撃してはいけない対象を故意に標的にして民間人殺戮の「戦果」を国際社会に「示威」している。敢えて苛烈な戦争犯罪を行い、それを世界に報道させ、世界のマスコミの「神経」を麻痺させる「認知戦」に出ている。ガザの子どもなど犬畜生同然だから殺して平気なのだ、これが戦争の現実だから仕方ないのだ、最初にテロを仕掛けたハマスに全責任があるのだという、「ジェノサイドを当然視する受け止めの思考回路」を世界の人々に刷り込んでいる。そして、その冷酷な悪魔の刷り込みに、防衛大の江崎智絵だの「専門家」を称する者たちが協力加担し、世論をジェノサイドを許容し免責する方向に仕向けている。元イラン大使だの、元アジア研だの、笹川財団だの。

前々回、岡真理の講演を取り上げた。一部内容を略説し、今回のガザ虐殺を知る上でこの議論と整理に勝る解説はないと評価した。秀逸で過不足ない。岡真理と較べると、錦田愛子も江崎智絵も斎藤幸平も塵屑に感じる。岡真理は講演の動画中で、聴衆に対して「声を上げて下さい」と訴えている。「皆さんもどうか声を上げて下さい」と。吉田南(10/20)と戸山(10/23)と二箇所で講演していて、聴衆が教室に入りきれずスクリーン放映の別室まで用意されたという話だから、京都と東京合わせて2千人から3千人は頭数が集まっただろう。だが、熱心に耳を澄ませて講義に集中した割には、そのインフル―エンスがネット上(X)に反映されていない。左翼系の集会後というのは屡々こうだ。何を聴いたのだろう。どう感じ受け止めたのだろう。不思議である。現在に至っても、岡真理はマスコミの人になっていない。

普通に考えれば、あれほどマスコミの屑言説と根本的に異なる、ハイレベルでハイクオリティで本質を衝いた解説情報が提供されれば、自ずとその感想がXタイムラインに染み出るものだ。わざわざ時間を割いて大学構内の教室に駆けつけた者は、この国の中でそこそこ知性のある者だと想定される。だが、反響が異常に弱い。行きました、見ました、岡真理さんの本を買いました、程度である。嬉しそうに本の写真を添付ポストしている。それだけだ。宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を観に「映画館に行きました」と同じパターン。自慢して見せびらかせているだけなのだ。消費を愉しんで終わっている。宮崎駿の映画についても、どこまで感動や発見があったのかは不明で、感想の言葉になっていない。「ネタバレになるので」と言い訳を書いている。

おそらく、その弁解はウソで、何も感慨として書き表す趣旨が頭の中にないのだろう。その必要性も感じず、消費しましたという自己満足をスイーツや観光地のインスタと同様に上げているのである。宮崎駿の新作映画はそれでもよい。だが、岡真理のガザ論の聴講については、その対応では絶対によくない。許されない。岡真理の「声を上げて下さい」という渾身の要請を聞き、訴えに共鳴する中身をコンテンツとメッセージに感得したのなら、自分なりの言葉をX(ツィッター)やブログで発信するのが当然の行動であり責任ではないか。また、それが可能な知的教育を受けた者が 10/20 と 10/23 の機会に参加したと思われる。けれども、結果は、寂として声なしと言うか、本当に岡真理の講演が二度もあって、数千人が日本語で受講したとは思えない現状なのだ。私は思い悩んでしまう。

私は正常に反応した。興奮して自然に頭と手が動いた。フェミニストの岡真理と私とは思想的立場が違う。だが、あのガザ論は画期的であり、国際的水準の労作であると確信する。どこに出しても、どの外国人(専門家・大学教授・国連幹部)に見せても説得力に胸を張れる、堂々たる日本人の傑作だ。まさに「日本のサイード」の結晶だ。それなのに、聴衆は、左翼リベラルは何をしているのだろう。何故これを自分の言葉で咀嚼し、意義と価値を積極的に定義し、多くの他者に共感を伝えようとしないのだろう。その努力をしないのだろう。ガザの人々の(この瞬間にも消されていく)命を思い、言葉を紡ごうとしないのだろう。それが信じられない。どれもこれも消費的鑑賞の次元である。「行きましたよ」というアリバイ証明だ。心に迫る文章がない。だから、岡真理をプロモートするムーブメントが起きない。

マスコミが岡真理を無視する理由はそれだ。左翼の欺瞞と劣化と堕落。私は、戸山に行くかどうか迷ったが、二の足を踏んだのはこの種の事情を懸念したからだった。結局、足を運ばなくてよかったと思っている。昔の日本の左翼は、ベトナム反戦の頃はこうではなかっただろう。もっと真剣で誠実で、吉野源三郎や鶴見俊輔が説き求めるところの、最低限の知識と良心を持ち、戦後民主主義の健全なマインドリソースでガザの問題を捉えて個々が自主的に行動したはずだ。X(ツイッター)の存在は、まさに世界の情勢をリアルに伝えている。世界政治のダイナミックスを直接教え、ガザをめぐる政治を動かしている。米国の政策意思を変えている。なのに日本の左翼は、娯楽映画を観るように岡真理の講演を堪能し、"高尚な文化時間"を満喫している。テレビを占領して洗脳工作で銭儲けしているレイシストたちを批判しない。

今週号(11/3)の週刊金曜日を復たチェックしよう。私の 10/27 のXポスト(やそれに類する界隈の怪訝な声)に意趣返ししたのではあるまいが、愕然とする編集結果が刷り上がって販促されている。驚く。憤慨する者は少なくあるまい。これが内田樹と編集委員の脳内なのだ。で、その大御所様の内田樹のXポストを再び眺めると、相変わらず本人はガザについて発言皆無である。岡真理の紹介と推薦もない。10/7 から1か月経つというのに、何も意見せず傍観に徹している。日本の左翼リベラルの御本尊様の実態だ。最近、私は日本の左翼リベラル群衆を「親米右傾リベラル」と表象するようになった。正確な概念だろう。中国との戦争がカウントダウンの段階になり、目先の利く姑息な者たちは周到に身辺整理に努めている。生き残ることが肝要であり、誰でも小林多喜二の二の舞は避けたいから、その判断は妥当かもしれない。

もう一つのリテラを確認しよう。これまた滑稽で噴飯な意地を張っていて、呆れた気分になる。ガザ関連記事は一切掲載せぬ方針を貫徹している。批判する敵は国内勢力だけ。アメリカへの忖度だろうか。面妖だ。この国の左翼系や良識派の者たちは、ガザに関する論説を欲しているのではないのか。刻一刻の追跡と分析にも関心があるし、本質を抉り出す総括も読みたい。岡真理に続くところの、秀逸な報告と提起に触れたいはずだ。それがジャーナリズムの需要というものだろうし、市民の多数は不満だろう。なぜ業界人たちはビジネスに精を出さないのか。あのNATOの代弁者たる反動の松原耕二ですら、ガザ問題を毎晩のテーマに据えて視聴率を稼いでいる。週刊金曜日は部数と売上を稼ぐ必要はないのか。定期購読者の大半が高齢の日本共産党員だから ー と北村肇が辺見庸に白状したが ー 編集や営業の工夫努力は必要ないのか。

とまれ。日本の左翼の低俗化と劣化も深刻な病気だけれど、ここで厳しく非難し糾弾する必要があるのは、エジプトやサウジやUAEなど中東のアラブ諸国である。私は心底から憤って血管が爆発寸前だ。何をやっているのか。彼らの不作為の人道犯罪は、イスラエルの嗜虐と狂気の戦争犯罪以上である。中東イスラム民衆をそれなりに代弁しているステイツマンは、エルドアンだけ。コロンビアのペトロやマレーシアのイブラヒムやアフリカ連合のファキによる国際法上の正論は、本来、エジプトやサウジの首脳の口から指摘されねばならない政治の言葉ではないか。エルドアンは、ハマスはテロ組織ではないと明言した。アラブ首脳はこの政治指導に続かなければならず、その行動を示せなければ、民衆は(イスラエルに恭順する)各国の独裁政権を倒す「アラブの秋」に踏み出すに違いない。

それ以外に、220万人のガザの人々の命を救う方法はないからだ。

※ と、以上の考察を書いたところで、TBS『報道特集』(11/4)の放送時間となり、番組欄に目を止めると、何と献立表は「経済政策」と「死刑制度」の二本立てで構成されていて、ガザ特集は見事に排除されていた。週刊金曜日とそっくり横並びの媚米リベラルの編集態度が堂々と示され、市民として脱力させられる。キャスターの膳場貴子がガザ問題に興味がないのだろう。イスラエル批判の報道企画を期待する視聴者の要望に応えるのが嫌で億劫なのに違いない。統一教会批判時の番組制作とは雲泥だ。明日(11/5)は日比谷でデモが予定されているのだけれど。


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