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第3章 みにくいわたし【4/12】

くせ毛のわたし

わたしの髪は、歳を重ねた今でも硬くて多くてくせ毛である。黒々とした髪をわさわさとたたえて「おぎゃあ」と生まれ出たらしく、母の子どもの頃の写真を見るとふたつに分けたおさげがしめ縄のように太かったり、父と父方の親戚一同がくせ毛だったりするので、これはまちがいなく遺伝だと言える。

幼児のころは毛量は多くてもきれいなストレートだったのだが、小学校2年生くらいからちりちりとした感じのくせ毛に変化した。天然パーマの子も悩んでいたようだが、わたしにとっては周りの髪の毛と同調して規則的にカールしている天然パーマはむしろ羨ましかった。わたしのように1本1本の髪の毛がてんでばらばらに好きにうねるがために収拾がつかず、毛量の多さも手伝ってボリュームのコントロールができない、そんなタイプのくせ毛の子は周りにいなくて、
「どうしてわたしだけがこんな髪なの?」
と孤立感が常にあった。

子どもは残酷だ。
「チリチリ」
「爆発」
「ライオン」
感じたままのことをストレートな表現で本人にぶつけてくる。

「ようだいちゃん。朝、ちゃんと髪の毛梳かしてる?」
悪気なく訊いてきた友達もいた。

実は、第2章に書いた父によるおうちカットでショートにされていたのは小1までで、その後は父から逃げ切ることで散髪を回避し、小2から小3までは肩下くらいまで髪を伸ばすことに成功していたのだが、ちょうどその頃にそんな心ない言葉を浴びせられていた。

また家庭内では髪を切らせないわたしが気に入らなかったのだろう。事あるごとに親から「フロージみたいじゃ」と言われていた。はじめは意味が分からなかったのだが、どうやら『浮浪児』のことらしい。

小3の時のこと。1本1本が違うくせを持つくせ毛だと、髪の毛の間に空気が入って保温性が高まる上に、量が多く長いので首の後ろの辺りが暑いと感じることがよくあった。そんな時、両手でうなじから髪を逆さまに掻き上げて涼をとると心地よく、それが癖になっていた。

ある日の授業中、いつものようにうなじから髪を掻き上げると、後ろの席の数人から「うわぁ」と声が上がった。わたしは瞬時に、自分のその行為が汚らわしいものとしてクラスの中で噂になっていて、それを見るのを待ちわびていた児童たちが目にしてからかったのだと理解した。しかも、ちょっといいな、と心を寄せていた男の子がそのからかいを主導していたことが本当にショックだった。

いつも納得のいかない仕上がりだったおうちカットでもよかった。すぐさま父に髪を切ってもらった。不本意ではあったが、小学校を卒業するまでそれは続いた。


受け口のわたし

遠慮もあるのかも知れない。人にはそれほど目立たないと言ってもらえるが、わたしは受け口だ。「イー」っと歯を見せると、上の歯と下の歯がぴったりと重なる。下の歯が少しだけ奥まるのが正常位とされているので、まぎれもない受け口だと言える。

そして前章までで触れたように、わたしは常々理不尽な怒られ方をしていたので、家庭内で泣くことが多かった。その時に下顎を出して泣くのを父にマネされ、「受け口」とはやしたてられ、そんな泣き方をするからお前は受け口になったのだと叱られた。でもそれを正そうとしてもできない。泣く時には下顎がなぜか突き出てしまう。

歯医者へ行くと不正咬合を指摘され、先生や歯科衛生士から「親族に受け口の人はいませんか?」と遺伝を疑われて訊かれると、母は「この子の祖母にあたる者が出っ歯気味ですが、それ以外にはいません」と言う。受け口のことを訊かれているのに正反対の例を出されることも気に入らないし、遺伝ではなく突然変異のように言われることも、父の言い分を肯定するようでしゃくだった。

高校生の時に、歯列矯正の話が出た。奥歯の嚙み合わせは正常なので、下の歯を2本抜く手術になると言われた。大それたことになると感じ、矯正はしないことにした。わたしが大人になってから、母は度々「やっぱりあの時矯正させればよかった」と言ったが、受け口のわたしを否定されているようでいい気はしなかった。


近所の食料品店のおじさん

わたしは田舎に住んでいたので、子どものころの買い物は近所の食料品店で済ませることが多かった。そこの店主のおじさんは確か二代目だったのだが、愛想が悪くて店自体の評判もあまりよくなかった。のちに、彼が歳を重ねてから持ち上がった縁談で結婚が決まり、明るく朗らかなお嫁さんがやってきてからみるみるお店は繁盛し始め、ついには学校給食の仕入れをするまでにもなったのだが、それでもわたしは決してその店に寄りつこうとはしなかった。店主のおじさんが嫌いだったからだ。

わたしが髪を伸ばしていた小3の頃、弟がその店に1人でおかしを買いに行った。弟は何度も母に連れられてその店に行っているはずなのに、やはりそのおじさんは人の顔を覚えるという商売人としての才覚に欠けているのだろう、弟に「どこの子?」と訊いたという。親の名前を告げると、「あー。あの髪の毛がぼさぼさの子の弟ね。」と言われたらしく、幼い弟は帰ってからわたしに悪気なくそのことを話した。

おじさんがわたしの同級生であるひときわ可愛い子にはお店のおかしをあげていることを知っていたが、わたしは話しかけられたことすらなかったので、おじさんが自分のことを認識していたことにまず驚いた。そして、わたしに対する否定的な印象を家族にストレートに伝えるとはどういうことかという想像ができない、じつに愚かな大人だと感じ、怒りと悲しみを抱きつつ、もう絶対にあの店には行かないと決めた。


子どもなのに不眠症

このように自分の容姿にコンプレックスがあり、それらを親にフォローしてもらうどころか、からかいの対象にされていたこと、そして味方が誰もいなくて一人で悩んでいたこと、これらが原因でわたしは子どもなのに不眠症に悩まされていた。親は今でもこの事実を知らない。

夜、床に就くとその日にあった嫌なことの記憶が波のように押し寄せてきてわたしの脳みそを埋め尽くす。すべてはわたしがくせ毛で受け口だからいけないのだ、と極端な思想に陥る。どうやったらくせ毛と受け口が直るか、そればかりを考える。もちろん子どものわたしには答えなんか導くことができない。やがて堂々巡りの思考に疲れ、夜が白む頃になってやっと眠りにつく。また、父に受け口をからかわれた日には泣きながら下顎を枕に押し付けた。そうすれば顎が引っ込むんじゃないかと思っていたのだが、そんな時も泣き疲れてやっと眠った。だから朝は大の苦手だった。


今のわたし

さて、章の冒頭に『わたしの髪は、歳を重ねた今でも硬くて多くてくせ毛である。』と書いたが、実は今ではくせ毛はかなり収まっている。10代の頃からストレートパーマをかけ、その後もずっと縮毛矯正をしていたが、2年前に白髪染めを始めたのを機に、髪に負担をかけたくなくて縮毛矯正をやめたのだ。髪質は変化するもので、くせも歳と共に緩やかになると言われるが、わたしにもそれが当てはまった。湿気の多い日には扱いづらくなったりするが、それも許容範囲内なので、もう縮毛矯正をすることはないと思う。しかし、今までヘアスタイルに満足したことはただの1度もなく、今は70点くらいだろうか。少しずつ進化させたいと思っている。

そして、受け口はそのままだ。でも、考えてみるとそのことで誰かに嫌なことを言われたことはないのだ。父が、下顎を突き出して泣くわたしをからかっていた、そのことがわたしを苦しめていた、ただそれだけだ。顎が引っ込んだわたしも見てみたい気もするが、今のところは矯正するつもりはない。


そして思うこと~価値観の変化・凸と凹

わたしはこの章のタイトルに『みにくい』という表現をあえて使ったが、そもそも美しいとか醜いとかはマジョリティの主観であって、世界が違えばくせ毛で受け口のわたしは最高に美しいと言われるかも知れないのだ。それにこの世界でも実際、ちょっとしゃくれているのがいい、と本気で褒められたこともあったくらいなのだから、需要はあるのだ。求める凹に求められる凸がぴたりとはまる…SNSが普及した今、それらが出会う確率は格段に上がっていると思う。

今いる世界の美に対する価値観がいずれ変わるかも知れないし、変わらなくとも、その人が持つ凸がレアであればあるほどそこには価値が生まれる。コンプレックスに苦しんだわたしから、今コンプレックスに悩んで眠れないでいる子どもたちにこれを伝えたい。





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