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第5章 大好きだったおばあちゃん【6/12】


隣に住んでいたおばあちゃん

父の実家はわたしの家の隣にあった。第1章に登場した跡取り息子である伯父が住んでいた本家のことである。わたしがものごころついた頃には、祖父母と伯父夫婦と、わたしにとってはいとこにあたるその息子2人、という家族構成だったが、わたしが小3の時に伯父が亡くなり、次男が大学進学で家を離れ、その後長男が結婚し、しばらくして子どもが3人生まれ…いつしか3世帯の家族8人が同居するようになっていた。

ご想像に難くないと思うが、そのためお互いの家の人の行き来は頻繁にあった。父はちょくちょく親の顔を見に行くし、わたしにとっていとこである長男はうちにもよく顔を出していた。父とその長男とは10しか歳が離れておらず、また父の結婚前に実家で同居していた期間も長かったので、まるで本当の兄弟のように仲が良かった。

そのような環境だったので祖母も、母が夜勤の時には晩ごはんを食べにおいでと言ってくれていたのだが、母は頼りたくなかったようで、後で温め直して食べられるカレーなどの食事の用意をして出て行っていて、仕事から帰った父が配膳などをしてくれて家族3人で食べるのが常だった。

それでも、母の夜勤と父の帰りが遅いことが重なる日には祖母を頼ったようで、ごくたまにではあったが、弟と一緒に祖母の家のごはんをいただき、祖母と一緒にちょっと怖い五右衛門風呂に入ってから父の帰りを待つこともあった。

また、母に仕事の紹介をしたのは祖母だったからということもあったのだろう、祖母はわたし達家族を全面的にサポートしてくれていた。

祖母が父を産んだのが42歳。わたしが保育所に入った4歳の時、父は29歳。ということは、当時祖母は71歳にして毎日てくてく歩いて保育所にお迎えに来てくれていたことになる。日々のお百姓仕事も忙しいのに、本当によくやってくれていたと思う。


優しかったおばあちゃん

祖母にとって、父は遅くに生まれた子どもであることに加え、父以外の息子を若くして2人とも亡くしたこともあり、父がかわいくて仕方がなかったのだと思う。

祖母から何度も聞かされたエピソードがある。父が2〜3歳の頃、ヤクルトを売りに来た人が占いのようなことができる人だったようで、父を見るなり、「この子は精になって(将来親の力になって)くれるで」と言ったらしい。そしてそのことを話す時は決まって、「ほんまに生んでよかったわ。上2人の息子があんなにはよぅ(早く)死んでしまうとは思いもせんかった。」と締めくくる。

そんな父の第一子であったわたしは祖母にとっては9人いる孫の中でも特別な存在だったようだ。時々こそっとひいきしてくれた。祖父は昔の人の典型のような考え方をしたので、わたしが生まれた時には「女の子か」とあからさまに残念がったというので、そのことを不憫に思う気持ちも手伝ったのかも知れない。

そして祖母はいつでも弱い者の味方だった。一度、保育所にお迎えに来た祖母を見るなり、わたしがその日に起こったお友達の失敗を大きな声で話してしまった時には「そんなことを言うもんじゃない」と叱った。人と話すのが大好きで、大きな声で楽しそうに笑う、とても優しい人だった。


認知症になってしまったおばあちゃん

そんな祖母は歳をとるにつれて耳が遠くなっていった。いつも祖父と一緒に畑仕事をしていたのだが、自分の指示に無反応だったり聞き取れなかったりする祖母に祖父はイライラしてよく怒鳴っていたが、聞こえないものは仕方がない。補聴器を試したこともあったが、今ほど性能が良くなかったので他の雑音も拾うし、耳に何か入っているのが物理的に気持ち悪いと言って全然使わないので、とんちんかんな受け答えをしたり、複数で話している時には話がわかっているフリをしていた。

そのように聴こえの悪さが進むにつれ、話し好きだった祖母は次第に人と話をしなくなり、脳への刺激が少なくなったことも原因の一つだったのだろうか、わたしが大学進学で家を出る頃にはなんだかおかしいな、認知症(当時は痴呆症と呼んでいた)かな?と感じるようになっていた。

ある日、下宿先に親から電話がかかってきた。「最近、おばあちゃんが毎晩家のチャイムを鳴らして来るんよ」

聞くと、わたしが悪い人に連れ去られた夢を見て不安になったらしいのだ。ようだいは大学生になって元気に暮らしていると言うと「おおそうか。それを聞いて気持ちがスーッとしたわ。」と文字通り手で胸をなで下ろして帰っていくそうなのだが、それが毎晩続いていると言うのだ。

そしてその祖母の訪問には波があって、おさまったと思ったらまたしばらくして連日来る、ということを繰り返すらしく、わたしはそれを親からただ聞くだけなのだが、実はその訪問のタイミングにはわたしにしかわからない規則性があった。

どういうわけか、わたしが何か困難を抱えていたり、不規則に訪れる自殺衝動に駆られる時期とピタリと重なるのだ。急にスピリチュアルじみてきたと思われそうだが、このことは本当に不思議で、今でもどうやっても説明がつかない。

そしてここからはわたしの主観とこじつけになるが、多分わたしは運がいい。忘れ物や落とし物はたいてい出てくるし、海外などで危ない目や困ったことに遭いそうになっても結果的には回避できたし、いつも親切な人に助けてもらってきた。

ここまで生かされてきたのも、祖母と世界中の親切な人々のおかげだと思っている。

家庭の中でつらくても外の世界に目を向けてみると、誰にでも逃げ場やオアシスがきっとある

この章の内容は他の章と較べて違う感じに仕上げてみた。家庭の中で起きていた理不尽なことについては書かず、ただ大好きだった祖母について綴った。それは、以下のことを言いたかったからだ。

少し前に読んだネットの記事で心に残ったものがあった。記憶を頼りに乏しい検索能力で、やっと探し当てたものがこちらだ。

https://sitakke.jp/post/5862/?ref=sn

かいつまんで言うと、施設で暮らしていた女の子が里親に引き取られて大切に育てられていたが、実の母親が一緒に暮らしたいと言ってきたので喜んで母の元に帰ったものの、ヤングケアラー状態となりそこから抜け出したという話だ。

わたしがこの話の鍵だと感じたことは、女の子が行動を起こすきっかけとなったのが、家を出る時に里親にかけてもらった、
「困ったときは、学校の先生に『施設に入りたい』と言いなさい」
という言葉だったということだ。

そしてその後、彼女はまた里親に頼ったりもしながら今の幸せを手に入れたのだが、わたしはこの記事を読んで「血縁は呪縛にもなり得る」と思った。

最小単位の核家族を中心とする血縁の中に生きることが自然で良いことだと世間では考えられているのかも知れないが、そこに生きづらさを感じるならその違和感を見過ごさず、中心から少しずつ外へ出る勇気を持ち自分の居場所を見つける方がむしろ自然だとわたしは考えている。

わたしの場合はたまたま、血縁のある祖母やいとこのおねえちゃんが心のオアシスとなったが、血縁にこだわる必要は全くなく、ただ一緒にいて心地よい人や場所を選んでそこに居ればいいのだと思う。

そしてさらに考えを飛躍させると、その血縁への執着を手放してオープンにすることが今の社会を変えることに繋がっていくのではないかとも思っている。子育て・教育・介護など、血縁にこだわってしまうと当事者が悩みを抱え込みやすくなるが、まずは周りの人が血縁にこだわらずに助け合う姿勢を見せることで、当事者の心身の負担はかなり軽くなるのではないだろうか。

「これ以上は入り込むことができなかった」という理由で起きる痛ましい事件の報道があると、血縁やプライベートってなんだろう?と疑問を持つし、その中で人権や生命が脅かされるような事例に対しては、そんな壁なんて必要ないとさえ思えてならない。





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