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濃い味

どうしてぼくの人生は足し算ばかりなのか。
どうして引き算ができないのか。

先日、友人宅で朝食を作った。
ここ最近、友人宅に行って料理をするというのがちょっとした楽しみになっている。
でも料理が特別に上手というわけではないし、あくまで自分が食べるのであれば充分な料理が作れるというだけだ。

ぼく自身、料理が出来上がるまでどんな見た目になるのか、味になるのか想像のつかないまま調理をしている。
味見はたまにする程度で、調味料を神経質に計ったりはしない。

ぼくが重用する調味料は【豆板醤・麺つゆ・胡椒・花椒・ごま油】だ。
この5種類さえあれば基本的には味が整う。というよりかはぼく好みの味になる。
なのでぼくの作る料理に繊細さはないし、赤茶色であることが多い。

そしてぼく自身、濃い味が好きなので調味料をどんどん追加して味を整えていく。
味が薄いという状態がとても不安なのだ。

この“味薄恐怖症”は日常でも起きている気がする。

ぼくのお芝居は味が濃い。
作品が料理だとすれば、ぼくは材料だ。
なので演出家がぼくを煮たり焼いたりすることで味を飛ばして使われることが多い。

自分自身の味の濃さは分かっているので、一応自分で塩分カットをしたりはしている。

多分これも相手に伝わらないことが怖いのだと思う。
だから味付けを濃くしてしまう。

でも京風料理のような味の薄さでも、出汁の香りだとか繊細な味を楽しめるように、本当は薄くても伝わるものは伝わるのだ。

人間関係もそう。

どうしてぼくは追いマヨネーズばかりしてしまうのだろう。
自分でマヨネーズをかけておきながら、その脂感に胸焼けを起こさせてしまうのが自分でも分かる。

なぜ自制心が働かないのか。

マヨネーズをかけない選択肢だって余裕で存在してたし、途中までマヨをかけない選択をするために、自制するために読書の時間を挟んだりしてたのに。

はっきり言って、この文章だってマヨネーズ醤油バターだ。

書いて、世界に発信してから、後悔する。
後悔するのなら書かなければいいし、世界に発信しなければいいのに。って思っている。

でも濃い味にしてしまったら、薄い味に戻すことはできないのだ。
薄い味にするためには一度ゴミ箱にポイして、もう一度作り直すしかない。

でももう一度作り直せるのは料理だけで、人間関係は作り直せないというのが“ミソ”だ。

お後がよろしいようで。

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