溺れる

昔、海で溺れかけたことがある。

子どもの頃に流行った女性歌手の歌に「ジーンズを濡らして、泳ぐあなた、あきれて見てる」というのがあり、真似してみたかった。

別にその場に女性がいたわけではない。男の友人と二人だった。二人でズボンのまま海に飛び込んだ。房総半島の先端の方にある海岸だった。

半円形のきれいな入り江で、海はエメラルド色に透き通っていた。溺れるなんて考えもしかなった。

ただ、しばらく泳いでみて、体が重いことに気が付いた。考えてみれば当然だが、ズボンが水を吸い重くなったうえ、抵抗が増し泳ぐのがとても難しいのだ。

運悪く台風が近づいており、波は結構高かった。沖へ流され始めていた。

マズイと思い岸へ向かって必死に泳ぎ始めた。一緒に海に入った友人は泳ぎの達人だったので、ぐんぐん先に進んでいく。

しかし、私は、義務教育のプールでしか水泳を習っておらず、泳いでも泳いでも岸が近づかない。

これは、ちょっと深刻にマズイことになったなと思った。体力は限界に近づいている。必死に泳ごうにもズボンが邪魔で前に進まない。

その時、私の脳裏にある選択肢がよぎった。海の中でズボンを脱ぎ捨てる。そうすれば、いくらか前に進みやすくなるに違いなかった。

しかし、そうすると岸に上がった後で困ったことになる。ズボンをはいていないと、たとえ岸に着いたとしても、家まで帰ることが出来ない。

思春期の私にとっては、ズボン無しで人前に立つことと、海で溺れてしまうことは、ほとんど並列な選択肢に思えた。

当時の自分にとって、それはまさしく人生における最大の究極の選択だった。

極限の選択を迫られた時、結論を下す思考方法を作っておくといい。その時私の脳裏によぎった言葉は「どうだっていいや」だった。

その頃よく読んでいた椎名誠が、追い詰められた時につぶやく言葉だった。私は、体力の限界を感じながら、少しも近づかない岸をぼんやり眺めながら、ズボンなしで人前に立つのも、このまま溺れてしまうのも、「どうだっていいや」と考えていた。

そのあとは覚えていない。気が付くと海の底に足が着き、私を助けに戻ってきた友人が目の前に立っていた。

すぐに腰に手を当てて確認すると、ズボンをはいていてほっとした。助かったことより、ズボンをはいていることにまず安心するのはどういうことなのだろうかと、自分の意識を不審に思ったが、そんなことは「どうだっていいや」。