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三月の読書:『だれか、来る』

 こんにちは。このところ文字を読むペースが上がってきたけど相変わらず積読は多くて、それなのに気になる新刊はどんどん出るし……と本好きあるあるのジレンマに頭を抱えてます。でもそれだけこれから読める本があるって幸せだな。
 今月は、2023年にノーベル文学賞を受賞したヨン・フォッセの『だれか、来る』(河合純枝訳、白水社)を読んでみました。

感想

 表題作「だれか、来る」は、海に面した一軒の家を舞台に、他人から逃げるように二人きりで引っ越してきた「彼」「彼女」と、そこに訪れる「男」のあいだで交わされる会話で構成される、とてもシンプルな戯曲。
 彼と彼女はただ二人きりでいたいだけなのに、誰かが来るという予感に苛まれ、実際に男が訪れ、また目の前に男がいないときでも心から二人きりになることができない。
 男は二人の家の元の持ち主で、家のことを話してくれるが、親切そうに振る舞う一方で彼女にちょっかいをかけようとしているようにも見える。彼にはそのことも気になる様子。

 作中の出来事は大体それくらいで、三人の関係がこれ以上に大きく変化するような事件は起こらずに終わる。にもかかわらず、全編通してずっと不穏な気配が漂っているような気がする。男が何かしでかすのではないか、あるいは彼と彼女の関係にヒビが入ってしまうのではないか……
 ただ、その気配の具体的な根拠はないので、そういう見方はちょっとホラーやサスペンスに毒されすぎかもしれない(笑)。訳者の解説によれば、フォッセの作品全般に死やメランコリーといったテーマが流れているとのことなので、全くの的外れではないとは思う。

 逆に、誰が読んでも読み取れそうなのは、「どんなに人のいない場所へ行っても人は本当に一人きり(二人きり)にはなれない、安心できない」ということだと思う。男が出てこない場面でも、彼と彼女は不安を感じているし、二人が住む家には過去の住人の痕跡が残っており、二人の意識はどうしてもそこに向いてしまう。
 そもそも、二人きりになれれば本当に安心できるのか? という疑問も、読んでいるうちに湧いてくる。二人はしきりに「二人きり」「一人が 二人」と繰り返すが、劇中では二人の会話が調和しているようにはあまり思えないし、二人のあいだには最初から不安につながる要素が胚胎しているような気がする(といっても、この二人が特別相性が良くないということではなく、どんな相手とでも完璧に調和のとれた二人になることはできず、その不安は普遍的に存在するものなのだと思う)。
 あと、「二人だけ」と「二人で 一緒」は同じように見えて違う意味を示しているなあ、とも。

 場面や登場人物の設定は抽象的ではないが匿名的だ。また台詞はリアルな話し言葉というよりは詩(歌詞)のようで、同じフレーズの繰り返しがあったり言い切らない形だったり。間の存在も重要そうである。
 したがって、この戯曲は現実的な一場面を切り取ったものというよりも、さまざまな人間の中に共通して存在する要素を歌のような言葉に乗せて表現したもののように感じる。それでいて、フォッセの暮らすノルウェーの海の静けさや寂しさのようなもの(多分曇っているか、霧がかかっているだろう)が背景に感じられる気がするから不思議で、そこがこの作品を特別にしている部分でもあると思う。

 表題作のあとには、フォッセ自身のエッセイ「魚の大きな目」と訳者解説が掲載されている。エッセイは解説と同様彼の作品の理解につながるのはもちろん、ひとつのまとまった文章としてとても美しい。戯曲にも流れていたノルウェーの海の感じが、よりはっきりした形であらわれている。

上演&他の作品の翻訳も希望

 見出しの通り! 特にお芝居として観たいなあという気持ちは強い。演出次第で全然違う作品になりそうなのが心配かつ面白そうな部分。
 翻訳に関しては、たいていのノーベル文学賞作家の作品が母国語で何かしら読めるようになってるのは随分ありがたいことだなあと思います。

いつも以上の余談

 最近読んだ他の本(小説)と、いくつかの比較をしてみた。一般性のある話ではなく、あくまで私の読んだことのある本の範囲で、なんとなーく。

 孤独については、ポール・オースターをはじめとしたアメリカの小説との違い。「だれか、来る」は「どんなに孤独になりたくても他者が入ってくる」のに対し、アメリカ小説の登場人物たちは最初から孤独というか「どんなにみんなと一緒になりたくても孤独」な人が多いような気がする。でも、同じコインの表と裏のようにも思える。
 また、フォッセの戯曲を演出したクロード・レジは「死が一度体の中に入ると、二度と出て行くことはない」と言ったそうだが、似たような言葉をオースターが書いていた気がする。要確認(自分用メモ)。

 海については、先月読んだエリック・マコーマックの描くスコットランドの海と、ノルウェーの海は似ているかなと思う(少なくとも南国の海よりは)。フィヨルドだからかな。
 ただ先月の『ミステリウム』は内陸の話だから、ここで念頭にあるのは「隠し部屋を査察して」の舞台となっている入植地だ。フィヨルドの裂け目を吹き抜ける風のすすり泣きと隠し部屋の住人の苦悶の叫び声が査察官の精神を蝕む。なんというか、陽気とはとても言えない海なのだ。
 でも、マコーマックの海が悪夢的な奇想に繋がっているのに対して、フォッセの海はひたすら憂鬱と不安を彷徨っている。これはあくまで作品の印象で、現地の海はどちらもきっと美しいだろうな、見てみたい。

 それから先日(3/30)朝日新聞の読書欄を読んでいたら、安部公房が手がけた戯曲の演出についての記事があり、彼の「反言葉」、求めているのは俳優の「肉体」、「本当にやりたいのは舞台を作ること」といった言葉が紹介されていた。
 一方「だれか、来る」には身体性の強い印象はない。訳者解説によれば、フォッセは「言葉で表現できないものに言葉を与えようとしている」という(『だれか、来る』p181)。アプローチが全く反対のようではあるが、言葉で作品を創り出す人が、言葉ではないもの、言葉で表現できないものを目指すのは面白い。
 戯曲には詳しくないから、この辺も意識して色々読んでみよう。

 追記。
 ふと思い出したのが、詩人の粒来哲蔵による詩劇「」。船乗りの男からの帰宅を知らせる電話を待ち続ける女のもとに、当の男が海の上で溺死しながらも帰ってくるのだが、女はそれが待ち人だと気づかずひたすら電話を待つ。激昂して女を殺した男のもとに電話がかかってくる、というごく短い作品。
 たとえでもなんでもなく、海が死の危険と直接繋がっているという生々しさと、もっと象徴的な意味での死との関連が両方感じられる。そういう要素があるから、ノルウェーと日本、全く違う国の作品でも何か通じ合うものを感じるのかも。
 また、最後に出てくる電話の声の「死んだひとって、みんなゲームをするものよ……」って台詞がなぜか心に残る。

 はあ、思いつきだけで書き殴ってしまった。この辺は他の作品も読んでもっと検討してみたい。
 皆さんのご意見もお聞かせいただけると嬉しいです。

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