佐佐木頼綱(ささき・よりつな)

東京都生まれ。第28回歌壇賞受賞。 「心の花」編集委員、月刊「短歌往来」、年刊「佐佐木…

佐佐木頼綱(ささき・よりつな)

東京都生まれ。第28回歌壇賞受賞。 「心の花」編集委員、月刊「短歌往来」、年刊「佐佐木信綱研究」編集長。 2019・2021年NHK短歌(Eテレ)、前田純孝賞、鈴鹿佐佐木信綱顕彰歌会、日本視覚障害者連盟文芸コンクール、群黎賞 選者。 熱海信綱祭短歌大会実行委員長。

最近の記事

「月刊視覚障害12月号」小森美恵子特別企画第2回

春日真木子先生、春日いづみ先生に小森さんの思い出をインタビューをした「月刊視覚障害」12月号が刊行されました。 なかなかお手に取りにくい本だと思うのですが、ネット注文ができるのでご検討いただけましたら。 http://www.siencenter.or.jp/magazine/index.html 特別企画 見えないからこそ詠める歌を―全盲の歌人 小森美恵子― 第2回 座談会「小森美恵子 視覚を越えた歌の世界」 大正時代、岐阜県生まれの小森美恵子さんは10代で失明します。

    • 第49回全国視覚障害者文芸大会

      第49回全国視覚障害者文芸大会の作品集が届きました。 短歌部門のページには池田はるみ先生と、黒岩剛仁先輩、そして私の選が掲載されています。詳細は日本点字図書館にお問い合わせいただきたいのですが、私が選んだ作品を少しご紹介します。 ・体育座りの子らの真顔を想像しゆっくり語るわれの来し方  埜村和美 作者の視点から見た講演の場面を表現した一首。初句は字余り。その字余りが子どもたちの集中や、講演が始まる前の空気感を伝えています。作者の深い洞察力、感受性の豊かさが伝わってくる力強

      • 「月刊視覚障害11月号」小森美恵子特別企画第1回

        ・炎の音を告げつつ落葉燃ゆれども血潮静めて生きねばならぬ  小森美恵子遺歌集『炎のおと』 月刊 『視覚障害』 2023年11月号(第426号)に 「見えないからこそ詠める歌を ―全盲の歌人 小森美恵子―  第1回 炎の歌―視覚を失った小森美恵子が詠み続けたもの」 を寄稿しました。 17歳で失明し、その後全盲を詠むことで茂吉や晶子に挑んだ小森さんの作品を紹介しています。「月刊視覚障害」、お手に取っていただき小森さんの短歌を知っていただけたら嬉しいです。 ここでは「月刊視覚

        • 瞽女さんの短歌

          ・音にのみ聞きしばかりにめぐり来て名高き月のかげにやどれる  作者不明 江戸時代中期の歌人、石塚倉子の家に泊まった瞽女さんが詠んだとされている一首。歌意は、 「かねてから、石塚倉子の事を風雅な方であると聞いていたので、そこかしこめぐったついでにお尋ねして、折しも名月の頃を、泊めてていただいた。」 というもの。 石塚倉子の家を「名高き月のかげ」に例えている部分は敬意の意味と、ただ泊まる場所でなくて心の拠りどころ、精神的な「光」を感じさせる場所でもあることを強調した表現な

        「月刊視覚障害12月号」小森美恵子特別企画第2回

          終戦後に詠まれた短歌

          前回、太平洋戦争終戦直後に詠まれた歌を紹介しました。 今回は戦後に詠まれた太平洋戦争の歌を紹介します。これらの歌の作者は少年少女の時代に終戦を経験されました。 ・障子閉めて母と祖父母は泣きゐたり悲しみの声知りたるはじめ  中根誠『境界』 障子を通して母と祖父母の泣き声が、読む者の心に響き渡る一首です。作者はこの時4歳です。 下の句「悲しみの声知りたるはじめ」が表すのは、家族の命を奪われた者のその深い悲しみを理解した瞬間。その時の心の動きや瞬間の重さを非常に繊細かつ深く表現

          太平洋戦争終戦の短歌

          終戦記念日ですね。 1945年の「心の花 第五十巻第二號」には、太平洋戦争終焉を迎えた歌人たちの深い傷痕や、失われたものへの哀悼の気持ちが繊細かつ力強く詠まれています。 いくつか紹介します。 ・わが子あらぬ荒れし都に帰り来て明日のため何を祈らむとする  片山廣子「心の花 第五十巻第二號」 初句の「わが子」は、終戦の年に心臓病で倒れ45歳で急逝しました。作者の目の前に広がるのは、戦争で荒廃したふるさとの街と多くの別れ。 「わが子あらぬ荒れし都」は「私の子どもがいない街」です

          戦盲歌がNHKのアーカイブになりました

          2022年夏にNHK第2の視覚障害ナビ・ラジオに出演し、「戦盲歌」について紹介させてもらいました。その内容がNHKのハートネットTVのアーカイブになりました。 https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/717/ 太平洋戦争末期に刊行され、戦後はほとんど無かった事にされてしまった『戦盲』や『心眼』の作品をメディアが取り上げてくださるのはとても嬉しいです。前線で負傷し視覚障がいとなった傷痍軍人たちの名前、作品に込めた思いが、広く読まれます

          戦盲歌がNHKのアーカイブになりました

          ひとつかがやく|竹山広

          1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。長崎は瞬く間に灰燼と化し、約14万人もの死傷者が出ます。この悲劇を目の当たりにした心の叫びが、竹山広さんの原爆詠です。 ・あはれかの炎天の下燃えしぶる肉塊として記憶するのみ  竹山広『とこしへの川』 竹山さんの第一歌集『とこしへの川』より。 同じ街に住んでいた人間が、炎天の下で燃え盛る肉塊として記憶されています。難しい言葉はありません。読者は作品を読んでその凄惨な状況を想像します。 竹山さんは非常に短歌の上手い方でした

          困難や運命を受け入れて|板津検校

          前回書いた視覚障碍者の集団「当道座」では、盲人に対して読書、書道、算数、音楽、礼儀作法など、さまざまな教育や訓練が行われました。これらによって視覚障碍者たちは手に職を得て自活できるようになってゆきます。 当道座に属した人々の短歌も非常に多く残っており、そこからも当道座がしっかりとした団体であった事がうかがえます。 江戸時代の植山検校江民軒梅之が、多くの検校や勾当(当道座のトップ)の短歌を集めて『謌林尾花末』(かりんおばながすえ)という書物を編集しています。その中から視覚障碍

          困難や運命を受け入れて|板津検校

          平和への短歌03|正田篠枝

          西田さんと同じく、広島で被爆した正田篠枝(しょうだ しのえ)さんの作品を紹介します。正田さんは1910年 広島県安芸郡江田島村生まれ。広島で被爆されました。 ・子をひとり焔の中にとりのこし我ればかり得たる命と女泣き狂ふ  正田篠枝『さんげ』 原爆の炎によって家族を失った母の悲しみと絶望を描いた一首です。「我ればかり得たる命と女泣き狂ふ」。子どもを守ることができず、自分だけが生き残ったことの苦しみと罪悪感が凝縮された表現です。 ・可憐なる学徒はいとし瀕死のきはに名前を呼べ

          平和への短歌02|西田郁人(2)

          中国新聞さんが西田さんを取り上げてくださいました。 https://hiroshimapeacemedia.jp/?p=135024 ・父と母の背や胸の火傷に湧く蛆(うじ)を箸で捕りたり夏がまた来る ・生きながら焼かれ死にたる肉親を思ひ出させるやうに夏が来る  西田郁人「心の花2016年8月号」 歌の前半に描かれている凄惨な情景。その辛い記憶を蘇らせる象徴として夏の訪れが表現されている歌です。 一首目は被爆後の深刻な火傷とそこに湧いた蛆をリアルで繊細に描き出しています。

          平和への短歌02|西田郁人(2)

          平和への短歌01|西田郁人

          ・大統領が謝罪をしたつてどうなるの ヒロシマは静かな街であつて欲しい  西田郁人「心の花2016年8月号」 ・被爆者の組織に三団体もあればアメリカ大統領とハグするもゐる  西田郁人「心の花2018年9月号」 2016年5月27日、バラク・オバマ米大統領(当時)、現職大統領として初めて被爆地・広島を訪問し平和記念公園を訪れました。平和記念資料館を見学し、原爆死没者慰霊碑に献花し、第二次世界大戦のすべての犠牲者を追悼しています。 戦争を経験していない私からすると、それは歴史的

          心の脆さと美しさ|明石覚一

          蝉丸の平安時代から、歴史は鎌倉時代を経て室町時代へと進みます。 盲人の中から、「平家物語」などの合戦譚を琵琶伴奏で語る僧侶が登場しました。この芸能は「平曲」と呼ばれ、武家社会から受け入れられ、さらには室町幕府によって庇護されることとなります。 そしてやがて、平曲を奏でるこれらの芸能僧侶たちは宗教組織から独立し、自治的な職能集団として「当道」を結成します。 この「当道」を組織化したのは明石覚一(あかし・かくいち)。文献上では「最初の検校(当道座の最高位)」として現れます。

          心の脆さと美しさ|明石覚一

          平和への短歌00

          夏が近づくと「戦争について話してほしい」と言われる事があります。 私は戦争を知らない世代なので、講演依頼の場合は戦争を経験された歌人たちを紹介して終えるのですが、子ども達から訊かれた時など自分の考えを述べねばならない場面がしばしばあります。 戦争を知らない私の戦争観を作っているのは、戦中戦後に作られた短歌や歌詞です。日清日露戦争の短歌や歌詞には、勝利や好景気を理由に人々が戦争を肯定的に捉えている姿が見えます。一方、太平洋戦争経験者の短歌には、戦争の悲劇と反戦の意識を鮮烈に表

          行くも帰るも|蝉丸

          それでは視覚障がいの方の短歌を紹介します。 実は、視覚障がいと短歌には深〜い関係があります。 現存するわが国最古の歌集「万葉集」が成立したのは奈良時代末期。その次の平安時代末期から鎌倉時代はじめに出来たと言われる「百人一首」には、既に視覚障がいの方の短歌が収録されています。 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関  蝉丸 百人一首に載っているのでこの歌をご存知の方も多いと思います。 一首の意味は 「知っている人も知らない人も、  出て行く人も帰ってくる人も

          視覚障碍と短歌

          こんにちは! このブログでは、いくつかのテーマに沿った短歌を紹介していこうと思います。大きなテーマの一つは視覚障がいの世界を詠んだ短歌です。 私は義父が全盲ということから、視覚障がいというテーマに深く関わることとなりました。視覚障がいに関わる曲でコンサートを開いたり、座談会を行ったり、視覚障がいのある人々が作った短歌を顕彰したりしています。視覚障がいの方が作品を通じて表現する世界には、彼らだけが持つ手触りや音、心やメッセージが詰まっています。その視点と深みは、晴眼者に新た