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トロッコ問題の罠

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 トロッコのレールが行手で二つに分かれている。一方にポイントを切り替えれば五人が犠牲になり、もう一方に切り替えれば犠牲者は一人になる。五人の命を救うために、一人の命を犠牲にしてもよいか。いわゆる「トロッコ問題」である。かつてマイケル・ザンデル氏の「白熱教室」で取り上げられ、ご存知の方も多いと思う。
 ポイントは、選択肢が二つしかないという点にある。たとえば、大声を出してレールの先にいる人にどいてもらうとか、トロッコ自体を破壊してしまうという答えは反則なのである。必ずどちらかの選択肢を選び、その上でみんなが納得するような理由を述べなければならない。
 私は、この問いは非常にナンセンスだと思う。なぜかというと、選択肢が二つしかないということは、現実には確かめようがないからである。それを断言できる者がいるとすれば、神しかない。もしあなたが映画の主人公みたいにそのような二択を迫られたとしたら、最後の最後まで他の選択肢を探すに決まっているし、何が本当の正解だったかは誰にもわからないだろう。現実世界は、頭で考えて読み切れるほど単純ではない。
 もし仮に、「五人の命のために一人の命を犠牲にしてもよい」という結論が出たとしたら、あなたは自分がそのような問題に直面したとき、その結論に従ってもいいと考えるだろうか。そうではないはずである。われわれは、過去の人たちがどう考えたかにとらわれることなく、いま自分が置かれている状況のなかで、最善の選択をしなければならないのではないのか。
 いやいや、これは思考実験なのだから。そういう反論が聞こえてくることはわかっている。それなら訊くが、思考の上でなら、どう転んでも誰かを殺さざるを得ない前提で、悪魔的な二者択一を迫ってもいいというのか。そんな思考のゲームに耽ることに何の意味があるのか。哲学や思想は、そんなお遊戯のために存在するのか。
(二〇二〇年九月)


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