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もう会わない君

遠くで揺らめいているネオンが、まるで消えかけの蝋燭のようにチラチラと輝いている。もう6月になったとはいえ、夜中は薄着では心もとない。ひんやりと頬を撫でる風に思わず身震いする。

こんな時間まで起きているのは久しぶりだった。社会人になってからというもの、いくつもの苦い失敗を繰り返し、規則正しい生活の大切さを思い知った。だから、最近では夜更かしをすることはほとんどなくなっていた。

しかし、今日は眠るわけにはいかなかった。

ベランダの手すりにもたれ、ホットココアを飲みながら静かな町並みを眺めている。どこからか微かに煙草の香りが漂ってくる。自分の他にもこんな時間に起きている人はいるのか、と少しだけ親近感を抱く。夜中に煙草を吸う生活というのはどんなものなんだろう、と想像する。

なんとなく、くたびれたシャツに緩めたネクタイをした中年の男が煙草をふかしている姿が思い浮かぶ。

嫁とまだ小さいこどもは寝ており、男は一日の中で限られた自由な時間を満喫している。子育てのことや妻の機嫌を取る方法やお小遣いをもうすぐ使い切ってしまう悩みなどを忘れ、昔片思いをしていた女の子のことなんかを思い出している。もしそうだとしたら、男にとってこの深夜のひとときは、日々の生活に欠かせない時間なのだろう。

冷たい風が再び頬を撫で、私の意識が私の元へと呼び戻された。それじゃあ、と思う。私にとって、この時間はどんな意味を持つのだろうか? 私もやはり、とある女の子のことを思い出していた。

〜〜〜

それは、人生のどこかに置き忘れてきた、甘く苦味のある思い出だった。

夏のうんざりするような熱気と眩しさの中、彼女がお気に入りだというパン屋で購入したメロンパンをかじりながら、人気のない公園で二人笑い合っている。透明に透き通った汗が、彼女の胸元に流れ、時折吹く風がそれを乾かしていく。

お互いに別の相手がいることは承知していて、なにか特別な関係に発展するような仲ではなかった。ただ、時々二人で会って、海辺の喫茶店や山奥の展望台なんかに出かけ、他愛のない話をする。言葉の定義について堅苦しく議論したり、友達の恋愛話で盛り上がってみたり。彼女はチェキにハマっていると言って、私との写真を現像してみせたりした。

別れ際、私はいつも彼女に詩を書いて手渡していた。彼女は喜んでくれ、その詩をLINEのアイコンにしたりしていた。今の時代、詩を喜んでくれる人なんてごくわずかだ。自分が書いた詩を喜んでくれる人がいるというだけで、彼女には感謝の気持でいっぱいだった。

私達はよく、お互いの魅力について話し合った。彼女は私の匂いや背の高さや優しさなどを褒めてくれた。私も彼女の素直さや感受性の豊かさ、人を区別しない優しさ等、素晴らしい点をいくつも挙げた。でも、だからといって、相手の魅力を自分のものにしようとは思わなかった。

私達の関係は、宇宙のなかで一瞬だけすれ違う隕石のようなものだった。お互い来た場所も道も、背負っている過去もなにもかも違っていて、でも、だからこそ惹かれ合い、引力によって近づいていく。いずれそれぞれの旅に戻ることがわかっていても、少しでも長くすれ違っていたい。そんな関係だった。

しばらくすると、やはり環境の変化から二人で会う機会は減少していき、次に会う時が最後になるのではないか、という確信めいた予感があった。それはおそらく当たっていたのだと思う。

ある日、2年ほど連絡を取っていなかった彼女から、東京で会おうという連絡があった。2年ぶりに会う彼女は、すいぶん大人びたように見えた。

2年の間にあった大まかな出来事を報告し合い、自然と恋愛の話になった。彼女は当時付き合っていた恋人とは別れており、その後医師の学生とも付き合ったが破局し、今はフリーなんだと笑った。「こないだ若い男の子にナンパされて連絡先は交換したけどね」といたずらっぽく肩をすくめた姿を見て、やっぱり2年であまり変わっていないのかも、と少し安心したのを覚えている。

「君だって若いじゃん。その子を次の彼氏にしちゃえば?」と言うと、彼女は悩むように首をかしげ、それから首を振った。

「そっちはどうなの?彼女さんとはもう結婚した?」と彼女は聞いてきた。その1ヶ月後に結婚することになっている、と伝えようと思ったが、思うように言葉が出てこず、「まだ付き合っているよ」とだけ言った。

彼女は「ふーん」と言いながら、なにかの答え合わせが終わったかのように頷いた。メロンジュースをストローでかき混ぜる手がゆっくりになる。耳にかかっていた髪がふわりと肩に落ち、彼女は再び髪を耳にかけた。もう会うことはないだろうな、と私は思った。うまく言葉では説明できないが、今この瞬間、この会話が最後の機会だったのだと悟った。

別れ際、一応「また会おうね」と言葉を交わした。しかし、予想通りその後彼女と会うことはなかった。

〜〜〜

漂ってきた煙草の香りで再び意識を今の自分に戻す。外は相変わらず静寂に包まれており、私と、見知らぬ中年の男だけがこの世界でなにかに思いを馳せている。

冷たい夜風に胸がぎゅう、と縮こまる。それは寒さからくるものなのか、別の原因に由来するのかは分からない。しかし、今日はなんとなく、眠ってはいけないような気がした。長い人生の中で時折訪れる、普通の日常から外れた日常。そのひとときに、私は生きていることを実感することができるのだ。


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