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何者でもない時間

今の社会では、みんな何者かである事を強いられる。職業は何か、やりたいことは何か。自分は何者か、白黒はっきりと答えなきゃいけない。グレーであることは許されないのだ。

何者でもない者に居場所はない。自分自身でさえも、何者でもない自分に価値はないと思えてしまう。何者かである人が眩しくて仕方がない。

かつて私もそうだった。何者でもない自分が嫌だったし、ずっと何者かになることに憧れていた。

学校を辞めたり、受験に落ちたり、何者でもない時間が人より長かったように思う。進むべき方向がわからず、自分の事をはっきりと口にできないことは本当にもどかしい。だから、一刻も早くこの時間を抜け出したかった。

そして、私は何者かになった。「学生」という身分を名乗れるようになったのだ。

ずっと待ち望んでいたことのはずだった。何かが大きく変わるんじゃないかと期待していた。けれど、何者かになって、何者でもない時間がいかに掛け替えのない時間だったかに気づいた。

何者でもなかったからこそ、ゆっくりと自分の人生について考えたり、余計な事を考えず、好きなことに没頭できた。そうした時間は本当に豊かだったし、今の自分の糧になっていると思う。

何者かになり、以前よりやることが明確になった。そういう意味では楽なのかもしれない。進むべき方向がわかるというのは、本当に安心する。

だけど必ずしも、以前より豊かな時間を過ごせてはいないと思う。確かに、以前の自分には社会的身分がなく、どこへ向かえばいいのかも曖昧だった。そのことは本当に耐え難かった。

けれど、肩書きに縛られず、ああやってのびのびと何かをやることほど、人生を豊かにしてくれるものはない。何者かになれば、もっと素晴らしい人生を送れるのではないかと思っていた。だが、それは勘違いだった。

本当に大切なものは、もうすでに手にしていたのだ。

私たちは愚かだ。一度失わなければ、その価値を理解できない。大切なものを手にしているその時には、別のものが輝いて見える。

それは仕方のないことなのかもしれない。人間は慣れる生き物だ。けど、もう二度と手放すことのないようにしよう。同じ失敗はごめんだ。

何者でもない時間は、誰にだって、いつからだって手に入れられる。だって、元々何者でもないのだから。

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