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太宰治 「鷗」の水たまりについて


太宰治 「きりぎりす」 (新潮文庫)

「きりぎりす」に「鷗」という短編があって、その一節なのですが、太宰治らしい文章があり心に残っています。

「いいとしをして、それでも淋しさに、昼ごろ、ふらと外へ出て、さて何のあても無し、路の石塊を一つ蹴ってころころ転がし、また歩いていって、そいつをそっと蹴ってころころ転がし、ふと気がつくと、二、三丁ひとつの石塊を蹴っては追って、追いついては、また蹴って転がし、両手を帯のあいだにはさんで、白痴の如く歩いているのだ。私は、やはり病人なのであろうか。私は、間違っているのであろうか。私は、小説というものを、思いちがいしているのかも知れない。よいしょ、と小さい声で言ってみて、路のまんなかの水たまりを飛び越す。水たまりには、秋の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている。水たまり、きれいだなあと思う。ほっと重荷がおりて笑いたくなり、この小さい水たまりの在るうちは、私の芸術も拠りどころが在る。この水たまりを忘れずに置こう。」

「鷗」の物語はあまり僕には面白くないのですが、この一節だけは、忘れることができません。折に触れて読みたくなります。
普通、苦しいときは顔をあげようと考えるものですが、太宰治は違います。徹底して下を向き続けて生きていこうともがき続ける。そして、それを包み隠さず赤裸々に書く続けていく。しかし、やはりその生き方は間違っているのかもしれない、辛い、苦しい、そんな時、下を向いて歩いていた時見つけた水たまりは綺麗だ。それに気がついた瞬間、この生き方は間違っていないはずだ、もう少し頑張ってみようとまた決意した。その気持ちは僕もわかる気がします。そして、最期まで徹底してその生き方を貫いた太宰治にある種の憧れを感じます。
唐仁原教久さんの装丁も素敵でついつい手にとってしまう文庫です。

英語塾を開校し、授業の傍ら、英検や受験問題の分析や学習方法を研究しています。皆さまの学習に何か役に立つ事があれば幸いです。https://highgate-school.com/