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自分で書いた小説の登場人物のこと

結婚して実家を離れるとき、母に「捨てられて困るものはこの箱に入れておいて」と言われた。透明のプラスチックケースだ。

私はそのケースに、自分が書いた小説(プリントアウトしたものとUSBの両方)と、自分が作った小説の同人誌を入れた。そのケースは今も、実家の押入れに保管されている。

今回実家に帰ってきて、私は久しぶりにそのケースを開けてみた。そして、自分が20代の頃に書いた小説を読んだ。

いくつかあるのだけど、今回はその中の2作品について書く。

◇◇◇

まず、「四月ばかの場所」という小説。

22歳のときに書いたもので、すばる文学賞の一次選考に通過した。5年間に渡って5作品を応募したが、一次選考を通過したのはこの小説だけだ。

テーマは「居場所」。下記のようなあらすじだ。

24歳の早季は作家を目指して新人賞への投稿を続けるメンヘラのキャバ嬢。世界のどこにも居場所がないと感じ、居場所を求める一方で、どこかに属することを極端に恐れる。そのため、必要とされると店を変えてしまう。
生きづらさを感じる早季は、17歳のときに地元で出会った男友達「四月ばか」を無自覚にロールモデルとしている。四月ばかは定職にもつかず、定住もしない。早季は、四月ばかのような生き方があることに安心していた。
しかし、四月ばかの旅のような生き方に終わりが見え始める。彼が結婚することになったのだ。結婚までの一年間、訳あって二人はルームシェアをすることになる。

物語は早季の1年間を淡々と描く。

小説を書いたり、鬱に苦しんだり、かと思えば躁状態になってとんでもなく調子に乗ったり。

そんな中で、早季は自分以上に生きづらい「トリモトさん」に出会い、恋をする。自意識をこじらせたトリモトさんにハマっていき、関係は進展していくが、失恋してしまう。

その失恋をきっかけに、四月ばかの人生をなぞろうとしている自分に気づくのだ。

実は、四月ばかにはモデルがいる。DRESSのエッセイにも書いた友人だ。かつては親友と呼べる仲だったけど、今は疎遠になってしまった。

そして、早季のモデルは当時の自分だ。キャバ嬢の設定も、私が学生時代にキャバクラでバイトしていたことから来ている。

ルームシェアなど、作中のできごとはすべて架空だ。登場人物の「性格」の設定だけ、現実から頂戴した。

早季は、普通に生きられなかったコンプレックスをこじらせて、「自分はその辺の平凡な奴らとは違う」という中二病的な選民意識を持つ。かなりエキセントリックで痛々しいキャラクターだ。

今読んだら、とんでもなく痛々しい小説だろう……と覚悟して読んだが、意外と「読めたもの」だった。文体も、今とほぼ変わらない。

「社会からドロップアウトしてるつもりだったんだよ、あの頃は。それでニルヴァーナ好きって、俺ってすげえベタだな」と、いつだったか四月ばかは言っていた。恥ずかしい、と言いつつも、あの頃の自分を可愛いと思っているようだった。
「ナプキンってこんなに軽いと思わなかった。すげえ軽いからなんか不安になって、四つ買っちゃった」
「羽根つきばっかり」
「あ、ダメだった? なんか羽根って言葉に惹かれて買ったんだけど。なんかいいな、羽根って。女はいいな、ナプキンについた羽根でどこまでも飛んでいける」
高崎君が「どういう音楽聴くの」と聞くので、あたしは「こういうのも好きだけど、J-POPも聴くよ。J-POPの中にもいい曲はあるから。J-POPってだけで侮る奴、嫌い」と先制した。高崎君は虚をつかれたようだった。
「俺、そういうとこあるかも。J-POPってださいって決め付けてた」と素直に認め、「友達には言えないんだけど、俺、初めて感銘受けたのはこの曲なんだよね」と言って、チャゲ&ASKAの『YA!YA!YA!』をかけた。今度はあたしが虚をつかれる番だった。

なんていうか、登場人物たちが常に「核心を突きすぎている」。余白がないというか、いちいち辛辣なので、読んでいてほっとする暇がない。

ところで、自分を投影したヒロインの名前を「早季」にしたことに特に意味はない。なんとなく、頭に浮かんできた名前をつけた。

◇◇◇

さて、もう一作は「ゲストハウスなんくる荘」

「四月ばかの場所」の数ヵ月後に書いた。

26歳のミカコは、住み込みの季節労働を繰り返し、旅をするように生きている。今まで、気が向くまま、好きなように生きてきた。そういった自分の生き方に、こだわりもないけど劣等感もない。
そんなミカコが、那覇にあるゲストハウス・なんくる荘にやってきた。なんくる荘に長期滞在するうちに、そこで出会った人たちと交流を深めていく。出会いと別れには慣れているのに、なぜかなんくる荘で出会う人たちには深入りしてしまい、そんな自分に戸惑う。

ミカコも、早季と同じように、社会の中に「居場所」を持たない。

だけど、早季が「居場所」を持ちたいのに持てないことで苦しむのと対照的に、ミカコはそもそも「居場所」を求めない。所属欲求がなく、そのときどきでの刹那的な「居場所」があればそれで満足できる。

また、早季は普通に生きられないことに強い劣等感を持ち、常識を押し付けてくる人間と戦おうとする。「私のことをわかって!」という気持ちが強い。

一方ミカコは、自分の生き方が一般的ではない自覚はあるが、劣等感はない。だから、常識の押し付けに対しても「ふーん」くらいにしか思わない。他人に寛容だけど、優しいというよりはドライなのだ。

生きていることに意味なんてあるもんか。
生まれてきたから生きているだけだ。
「生まれてきたことに意味も使命もないでしょ。そんなもんあるなんて思うの、思い上がりだよ。ただ父親と母親がセックスしたから生まれてきて、生まれてきたから生きてるんだよ。それでいいじゃない」
必要とされたがるな。人にも、社会にも。
「あたしが死んだってさ、誰も困らないよ。でも悲しんでくれる人はいる。あたしはそれで充分だよ」
いつだって、充分だ。
酒とハイライトと居場所があって、生きていて、それで充分なのだ。ついでにBGMにレゲエがあればもっと最高ってくらいで。
「負け組っていうかさ、あたしは最初っから戦ってないんだよ。だから不戦敗組」
ますます喜ぶかと思ったのに、子どもたちはいぶかしげな顔をしている。
「説明するのめんどくさいからいいや」
なるほど、正社員でもなくて結婚の予定もない女は負け組か。どこで覚えてきたんだか。世の中には収入にも結婚にも興味のない女がいて、それはそれで楽しく暮らせるってことを、アイスを買ってやってでも教えるべきだったかもしれない。


ミカコのモデルは、この記事に出てくる幼なじみのチヒロ。

彼女の、自由さと自己肯定感、劣等感のなさ、他人からどう思われるかを気にしないところ、自分と他人の人生を丸ごと愛せるところ。

私は、それらが羨ましかった。

私とチヒロは、表面的には似ていた。明るそうな雰囲気や、自由そうな雰囲気。だけど、私の中には常に劣等感と憤りがあり、チヒロにはそれがなかった。

だから、チヒロをモデルにしたミカコは、「こうなりたい」と思う理想の女の子だった。

◇◇◇

この2作を書いてから、早いもので12年が経った。

12年ぶりに読み返してみると色々な発見があり、興味深かった。

ところで、私の吉玉サキというペンネームは、「四月ばかの場所」の早季からとった。早季は私を投影したキャラクターだったからだ。

だけど、今の私は早季よりもミカコに共感する。

12年前の私は、いまいちミカコに共感できないまま書いていた。劣等感や所属欲求がない人の気持ちがわからなかったからだ。

だけど今は、いち読者としてミカコにいちいち「わかる!」と思う。反対に、早季に対しては「まあまあ、そんなに怒りなさんな」と思う。

自分でも驚いた。

加齢と共に自意識が減退し、ミカコに近づいたんだろうか?

それとも、「ミカコみたいになりたい」という思いが、私を彼女に近づけたのだろうか?

この、「12年前に書いた小説の主人公に、今の自分が共感する」という体験は、なんだかとても面白かった。

34歳の今なら、大人になった早季ちゃんとミカコちゃんを書けるかもしれない。


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